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ドイツを代表する人気哲学者、ビュンチュル・ハン教授の新型コロナ論考公開!「私たちはウイルスに理性を引き渡してはいけない」

数年前から日本では、ドイツ哲学者マルクス・ガブリエルのブームが起こっていますが、ドイツやヨーロッパ各国において、彼と並び称されるのが、前ベルリン芸術大学教授のビュンチュル・ハン(Byung-Chul Han)先生です。

弊社では、ベストセラー『疲労社会(Müdigkeitsgesellschaft)』ならびに、国家の情報管理について記した『透明社会(Transparenzgesellschaft)』(いずれもMatthes & Seitz Berlin)の版権を取得し、刊行予定です。

ビュンチュル・ハン先生は韓国出身で、今回の新型コロナウイルスの流行について様々な論考を発表され、ドイツのみならず、スペインやイタリアなどの新聞にも翻訳され、掲載されています。

この度、ご本人の許可を得て、ドイツで接触制限が始まった翌日の3月23日にドイツの日刊紙『WELT』に掲載された論文について全文を訳出し、弊社noteに掲載いたします。(翻訳:編集部山口)


「私たちはウイルスに理性を引き渡してはいけない」

ビュンチュル・ハン、『WELT』紙(2020年3月23日)他

(WELT編集部による紹介文:
 どうしてアジア諸国はウイルスとのたたかいにおいて、ヨーロッパに住む私たちよりかくも卓越しているのだろうか? そして、どうしてヨーロッパに住む私たちは、こんなに大きなパニックに見舞われているのか? 哲学者のビュンチュル・ハンがビッグデータ(データ集積)や儒教、主権について綴る。)

 コロナは制度(システム)をテストしている。明らかにアジアは、ヨーロッパよりはるかに上手に新型コロナウイルスの流行をコントロールできている。香港や台湾、シンガポールには少数の感染者しかいない(訳注:その後シンガポールでは感染拡大し、5月6日時点で感染者は2万人超)。台湾での感染者は108人、香港は193人だ。それに対しドイツでは短期間のうちに、すでに1万4481人!もの感染者が出ている(3月19日時点)。その間に韓国も感染のピークを超えた。日本も同様だ。最初に感染者が出た中国であっても、感染拡大をとどめ制御している。

 しかし台湾と韓国のどちらも都市封鎖をしたわけでも、店舗やレストランを閉めたわけでもない。この間にアジア人たちはヨーロッパから脱出するようになった。中国人も韓国人も自分の故郷に帰りたい、なぜならそこの方がより安全に感じるからである。航空券の値段は釣り上がった。現在ではもはや、中国や韓国行きの航空券を購入することができない。

 ヨーロッパはつまずいている。感染者数は爆発的に増えている。ヨーロッパは感染拡大をコントロールできていないようだ。イタリアでは毎日何百人もがなくなっている。若い患者を助けるために、年配の患者は呼吸器を外される。空虚な行動主義もまた観察することができる。国境閉鎖はいまや明らかに、必死に統治権を誇示するための表現である。私たちは君主制の時代に戻ってしまったかのようだ。統治者は非常事態について決定を下す者である。統治者は国境を閉める者である。

 結局のところ、空虚な主権ショーは、何ものをも引き起こさなかった。やみくもな国境閉鎖よりも、ユーロ通貨圏の国々が積極的に協力することの方が役に立つはずだ。EUはEU圏外の外国人の入国を禁止したが、今ヨーロッパに来たい人はいないので、それはまったくもって事実として意味のない行為であった。もし、世界中をヨーロッパからの感染から守るため、ヨーロッパの人々にヨーロッパの外に出ないよう禁止したのであったなら、もっと意味があったであろう。


国家への信頼

 ヨーロッパと反対に、アジアはどのようなシステムによって、感染をうまく食い止めることができたのであろうか? 日本、韓国、中国、香港、台湾、そしてシンガポールのようなアジアの国々は、相対的に言えば、文化的(儒教)に権威主義的な面を持つ。言われたことに従い、素直に受け止める傾向がヨーロッパよりも強い。これらの国の人々は、国家をより信頼している。中国だけでなく韓国も日本も、日常生活においてヨーロッパより厳格に統制されている。何よりもアジアは、ウイルスとたたかうために、大規模な「デジタル監視」をおこなっている。ビッグデータ(データ集積)の中に、感染拡大を押さえ込むことのできる大きな可能性があると思っているのだ。

 こう言ってしまうこともできるかもしれない。つまり、アジアにおいては新型コロナウイルスの感染拡大に対し、ウイルス学者や感染学の学者だけでなく、とりわけ情報学者とビッグデータの専門家が立ち向かっているのだと。パラダイムシフトが起こっているが、それはまだヨーロッパでは意識されていない。ビッグデータは人々の命を救うと、デジタル監視の擁護者は高らかに宣言するであろう。

 アジアの国々では、デジタル監視について批判的に意識されることは少ない。民主国家である日本や韓国のような国々でさえ、(集積された)データの保護について話されることはない。権力者によるデータ収集に誰も反抗しない。中国はこの間に、ヨーロッパ人にとっては想像もつかないような、ソーシャル追随システムを構築し、包括的な市民としての評価や査定がなされている。

 すべての市民は、自身が社会でどのような態度を取ったかによって一貫して評価される。中国では日常生活で監視から逃れることのできる時間は存在しない。すべてのクリック、すべての買い物、すべての人間関係、ソーシャルネットワークでのすべての活動が監視されている。赤信号で道をわたった人、政府に批判的な人物と交友がある人、あるいは、ソーシャルメディアで(政府に)批判的なコメントをした人は評点が差し引かれる。その後の人生は大きな危険にさらされる可能性がある。


制限ないデータ交換

 他方、インターネットで健康に良い食品を買ったり、共産党の意見に近い新聞を読んでいる人は加点を受ける。十分な得点に達すると、旅行のビザが支給されたり、低い利子で貸付を受けたりすることができる。反対に、特定の合計点数を下回ると、失職してしまう。中国においてこのような社会監視が可能なのは、インターネットや携帯電話の会社と統治者の間で制限なくデータ交換がおこなわれているからである。「プライベート空間」という言葉は中国人にとってボキャブラリーにない。

 中国には2億個もの監視カメラがあり、その一部は高度な顔認識機能が備えられている。それは顔のほくろさえ認識する。監視カメラから逃れることはできない。これらのカメラにはAI(人工知能)が備えられ、市民一人ひとりを、公共空間やお店、道、駅や空港において監視を続け、評定することができる。

 これらデジタル監視のためのすべてのインフラは、感染封じ込めで大きな効果を生み出すことがわかってきた。もし誰かが北京駅から外に出れば、彼は自動的にカメラにとらえられ、体温を測られる。体温が高い人がいれば、同じ列車の車両に乗っていた乗客一人ひとりの携帯へと通知が送られる。監視システムは、誰が車両のどの席に座っていたかまで把握している。

 ソーシャルメディアでは、ドローンを使った自己隔離の監視がなされていたとさえ報告されている。もし誰かが秘密裏に自分の家から抜け出すと、ドローンがその人を追跡し、家に帰るようにと催促する。もしかすると、ドローンは罰金の紙を印刷し、別の人を寄越すのかもしれない。ヨーロッパ人にとってはディストピアに思えるこのような状況に対し、中国ではしかし、明らかな反抗は起こっていない。
 
 中国だけでなく、韓国や香港、シンガポール、台湾、そして日本のような他のアジアの国々でも、デジタル監視やビッグデータに対して批判的な意識はなされていない。彼らはデジタル化に陶酔している。これには文化的な理由がある。アジアでは、集団主義が跋扈しているからだ。しっかりとした個人主義というものはない。個人主義というものは、エゴイズムとは異なっており、エゴイズムはアジアにおいても当然はびこっている。

 ウイルスとのたたかいにおいてビッグデータは、現在のヨーロッパの国々がおこなった意味ない国境閉鎖よりも、明らかに効果を発揮している。けれども、ヨーロッパではデータ保護の観点から、ウイルスに対して同じようなデジタルのたたかいをすることは不可能だ。中国の携帯会社、インターネット企業は、顧客のセンシティブなデータまでを公安や保健所に共有している。


デジタル究明チーム

 私が誰で、誰と会い、何をし、何を求め、何を考え、何を食べ、何を買い、どこに行くのかまでも国家は把握している。未来では、体温や体重、血糖値なども国家によって監視されるようになるかもしれない。デジタルの心理政治を伴った、「デジタル生政治」(訳注:「生政治」はフーコーによる概念。権力が市民の生を管理すること)が人々を活発に統制するのである。

 武漢では、データを用いて感染可能性のある人を探し出すために、数千ものデジタル究明チームが組織された。ビッグデータの分析によってだけでも、どの人が感染者である可能性があり、経過観察が必要で、自己隔離をしなければならないかがわかる。感染拡大に関連しても、未来はデジタル化の中にあると言うことができる。感染拡大を見るに、私たちはおそらく主権を新たに定義する必要があるのだろう。緊急事態を宣言し、国境を閉鎖するヨーロッパは、まだ古い主権のモデルにぶら下がっている。

 中国だけでなく、他のアジアの国々でも、デジタルによる監視が本格的に感染拡大の抑制のために用いられている。台湾では、感染者に接触した人に連絡したり、感染者がいた場所や建物について知らせるために、国家がすべての市民に対して即時にSMS(ショートメッセージ)を送っている。台湾は初期からさまざまなデータを相互接続し、旅行履歴から感染を抑え込もうとしてきた。

 韓国では、感染者がいた建物に近寄った人は誰でも、コロナ・アプリによって警告を受け取る。感染者が出たすべての場所をアプリは把握している。データ保護やプライベート空間についてはあまり気にされていない。韓国ではすべての建物のすべての階で、どの会社やお店にも監視カメラが導入されている。ビデオに映ることなく人前で動くことは、実際のところ無理である。

 ビデオの記録映像を、携帯電話の情報と合わせることで、感染者の行動履歴について完璧に把握することができる。すべての感染者がとった行動は公開されている。秘密の愛を育んでいてもバレてしまう。韓国では「Tracker(追跡者)」と呼ばれる人々が、感染者の行動記録を完全に把握し、接触者を特定するために、朝も夜も監視映像を見続けている。

 アジアとヨーロッパの大きな違いは、何よりもマスクをつけることだろう。実際、韓国ではウイルスを防ぐことができる特別なマスクなしに外に出る人はいない。これは、いつもの外科医がつけるマスクではなく、感染者と接する医師もつけている、特別なフィルターがついている防護マスクだ。ここ数週間、国民にマスクを供給することは韓国においてNo.1の話題だった。(訳注:その後ドイツをはじめヨーロッパ各国でマスク着用が義務化されている。)


職場での防護マスク

 薬局の前には長い列ができていた。政治家は、国民全員にどのように効率的にマスクを用意するかで評価されていた。マスク製造のための機械が急いで作られた。現在のところマスク供給はうまく行っているようだ。この間に、近隣のどの薬局でマスクを購入することができるかを知らせるアプリがリリースされた。私は、アジアで国民全員に供給されている防護マスクが、感染封じ込めに寄与したという風に考えている。

 韓国人は自ら職場でウイルス防護マスクをつけている。政治家もマスクをつけて国会に来る。韓国の大統領も、デモンストレーション的に、記者会見で自らマスクをつけている。韓国ではマスクをしていない人は徹底的に非難される。ドイツでは反対に、マスクは役に立たないと言われているが、それは戯言だ。だったらなぜ医師は防護マスクをつけているのだろう?

 フィルターは濡れると効果が薄れるので、マスクは頻繁に取り替えるべきである。しかし最近韓国人はナノフィルターがついていて、洗うことのできる「コロナ・マスク」を開発した。それをつければ1ヶ月間ウイルスを防ぐことができ、ワクチンや治療薬ができるまでの間、とてもよい解決策であると言うことができる。

 一方でドイツでは、医師自らが防護マスクを得るためにロシアに行かなければならない。(フランス大統領)マクロンはマスクを徴収し、医療関係者に配れるようにした。ただし医療関係者が得るのはフィルターなしの普通のマスクであり、これでもコロナは防ぐことができると言われているが、それは完全に嘘である。ヨーロッパはつまずいている。ヨーロッパがしているのは、人々がラッシュの時間に地下鉄やバスに乗り込んでいる一方で、店やレストランを閉めることなのだ。


文化的な違い

 どうやって人は互いの距離を保つのか? スーパーマーケットにおいても、それはほとんど不可能である。それなら防護マスクをすれば本当に人の命を救うことができるだろう。ここに、二層の階級社会が出現している。自家用車を持つ人は、危険にさらされることが減る。普段のマスクであっても、感染している人がウイルスを外に出さないためには、だいぶ役に立つであろう。

 ドイツではマスクをしている人はほとんどいない(当時)。中にはマスクをしている人もいるが、それはアジア系の住民である。私が住んでいるドイツの地域の人々は、自分がマスクをすると変に見えると話している。ここには文化的な違いが影響している。ドイツは個人主義が浸透していて、みんな自分の顔を覆いなしに見せている。マスクをつけているのは犯罪者だけだ。このところ私は韓国の写真でマスクをしている人に見慣れているので、ベルリンでマスクをつけていない他の市民を見ると、モラルがないと感じてしまうことがある。私も(韓国のような)防御マスクがほしいのだが、ここでは手に入れることができない。

 他のさまざまな商品と同じく、過去、マスクの製造は中国に移転されてきた。なのでヨーロッパは衛生マスクを手に入れることができない。アジアの国々は、国民全員に防御マスクを供給しようとしている。中国では、衛生マスクが現地で製造されており、他の工場もマスク製造用に組み替えられた。ヨーロッパでは医療従事者用の防護マスクさえ行き渡っていない。

 一方で人々が防御マスクなしにバスや地下鉄に乗って通勤をしているのに、外出禁止令を出しても、論理的にそれほど効果を持たない。どうやってラッシュ時間に、地下鉄やバスの中で互いに距離をとることができようか? さらに新型コロナウイルスの感染拡大から学べることがあるとすれば、防護マスクや医療用品・医薬品などの特定の品物について、再びヨーロッパ内で製造をすべきだということである。


何がパニックを引き起こすのか

 新型コロナウイルスの感染拡大に見られるパニックは、ウイルスに軽視できない危険性があるにしても、不釣り合いなものとなっている。スペイン風邪はもっと致死率が高かったが、これほどまでに経済に対して悪影響を及ぼすものではなかった。いったい何が理由なのだろうか? どうして世界はこれほどまでに際限なくウイルスに対しパニックになっているのだろうか?

 エマニュエル・マクロンは、姿の見えぬ敵に対する戦争状態だと言い、私たちは勝利せねばならないと訴えた。私たちは「敵の帰還(Rückkehr des Feindes)」ついて対処せねばならないのだろうか? スペイン風邪は第一次世界大戦の最中に発生した。どの国も当時は敵に囲まれていた。当時は誰も、スペイン風邪の流行を戦争や敵に結びつけることはしなかったであろう。しかし今日われわれは、まったく異なる社会に暮らしている。

 そもそも私たちは長い間、敵なしに暮らしてきた。冷戦も遠い過去のもの。過去に起きたイスラムのテロもどこか遠いものになってしまっている。ちょうど10年前に私は『疲労社会(Müdigkeitsgesellschaft)』の論考の中で、私たちは、敵を否定することに基づく免疫学的パラダイムがもはや有効でない時代に生きているという、このテーマに切り込んだ。

 免疫学的に統制された社会は、冷戦時代のように、国境とフェンスによって特徴づけられている。しかしこれは、加速する商品と資本の循環に隠れている。資本にとっての障壁を取り去るために、グローバリゼーションはこれらの免疫学的基準を取り崩してきた。今日あらゆる人生の範囲で経験する一般的な交わりと寛容さによって、外国人や敵に対する否定の気持ちは取り除くことができる。


節度なき寛容な社会

 今日、危険性は敵が有する否定性からではなく、過剰なパフォーマンス、過剰な生産、過剰なコミュニケーションとして表れる、過剰な積極性によってもたらされる。敵が有する否定性は、私たちの節度なき寛容な社会に属するものではない。他者からの抑圧によって憂鬱さが取り除かれ、自発的な自己搾取と自己犠牲によって、他者による搾取が可能になる。パフォーマンス社会において、もともと戦争は自身の中でおこなわれるものである。

 グローバル資本主義によって免疫学的にかなり脆弱になっていたこの社会の真ん中に、ウイルスは突如として介入してきた。人々は心から怯え、免疫学的な基準が打ち立てられ、国境は強化された。敵は再びそこにいる。戦争は私たち自身の中から生じるのではなく、外からきた、目に見えぬ敵との間でおこなわれる。ウイルスによる際限なきパニックは、社会の、しかしグローバル規模の、敵にたいする免疫反応である。私たちは長きにわたり敵のいない社会に暮らし、積極性の社会に暮らしていたがために、この免疫反応は激しいものとなる。ウイルスは今や、終わりなきテロリズムのように感じられる。

 これほどまでにパニックが広がったのには、他の理由もある。それはまたもやデジタル化と関連のあることだ。デジタル化によって現実は解体される。人は現実を、痛みを感じさせることもある抵抗によって認識する。すべてが「イイね!」で成り立った文化であるデジタル化によって、抵抗の批判的な面は失われる。そして、ポスト・トゥルース(真実)の時代にあっては、フェイクニュースやディープフェイクも相まって、真実に対する虚脱状態が生まれる。このポスト・トゥルースの時代に、コンピュータ・ウイルスではなく、本物のウイルスがショックを引き起こした。事実、つまり抵抗は、敵とみなされているウイルスの形に引き戻されている。

 ウイルスをパニック視する人にとっては、私たち生存者の社会は、何よりも命を長らえるために人生すべての労力を注ぐという社会であるように映っている。良い人生を送るための憂慮は、生き残るというヒステリーに取ってかわられた。生存者の社会は、享楽の正反対にある、敵のようなものでもある。健康が一番の価値であるとされる。結局のところ、禁煙を求めるヒステリーも、つまりは生存を求めるヒステリーであった。


私たちは快くすべてを犠牲にする

 私たちのウイルスに対するパニック反応は、私たちの社会が抱える、この実存的な基礎をあらわにする。ウイルスは死を可視化するが、死は私たちが目にすることがないように追いやらなければいけないと信じられてきたものである。死への強迫的な危機感によって、私たちは、人生を生きるに値するすべてを、快く犠牲にしてしまう。新型コロナが流行する以前から、すでに私たちは生き残りのための熾烈な戦争の最中にあった。

 今や勃発したウイルスとの戦争は、バイラル的に持続する。生き残りの社会は、今やその非人間的な一面を見せている。まずもって他人は感染の可能性があり、距離を取らねばならず、自分の生存を脅かす存在である。生存のためのたたかいは、良い人生を追い求めることによって打ち消さなければならない。そうでなければ、流行が始まる前よりも、後の人生の方が生き残り至上主義のものになってしまうからである。そうなってしまえば、私たちは自らを、生きることなしに生き残り、増殖するだけという、この不死の存在であるウイルスに比べることになる。

 金融市場におけるパニック反応も、何よりもそれぞれがすでに自分の内側で体験したパニックと同じような印象を受ける。世界経済における極度なまでの断層は、金融市場をきわめて脆弱なものとする。中央銀行による冒険的な金融政策によって、ここ数年には市場指数が着実に上昇カーブを描いていたのにもかかわらず、危機的な状況をも予期させる、抑制されたパニックが生じた。

 おそらくウイルスは、大きな樽を溢れさせた小さな一滴に違いない。金融市場におけるパニックは、ウイルスへの恐怖心から生じたものではなく、印象としては、それよりももっと自分たち自身に対する恐れであったように感じられる。この衝突(クラッシュ)は、ウイルスがなくても生じたであろう。
 もしかすると、ウイルスは、さらに大きな衝突の前触れであるかもしれない。


ウイルスは理性の代わりにならない

 ジジェクは、ウイルスによって資本主義にとどめの一発を与え、まだ見ぬ共産主義を召喚することができると主張している。彼は、ウイルスによって中国政府を崩壊させることができるとも信じている。ジジェクは間違いをおかした。これらはすべて起こりえない。中国は今後、自身のデジタル監視国家を、ウイルス拡大を押さえ込むために成果があるモデルとして売り出すであろう。中国は自身のシステムによる生存について、より誇り高く宣伝するに違いない。

 さらにウイルスの感染が収まったあとで、資本主義はさらに大きな力を持ち続けるであろう。そして旅行者たちは地球上を踏み荒らすであろう。ウイルスは理性の代わりにならない。この時期を経て、私たち西側諸国に住む者が、中国式のデジタル監視国家に暮らすことになるかもしれない。

 ショックというのは、すでにナオミ・クラインが言っているように、新たな支配システムを樹立するために都合のよい瞬間である。しばしば、ショックを引き起こすような危機に際して、新自由主義(ネオリベラリズム)も導入されてきた。韓国でもそうであったし、ギリシャでもそうだった。願わくば、このウイルス・ショックの後に、ヨーロッパに中国式のデジタル監視国家が樹立されないことを望む。もしそのようなことになれば、ジョルジョ・アガンベンが危惧したように、緊急事態が通常の状態となってしまう。そうなれば、イスラムのテロが完全には成功させることができなかったことを、ウイルスが成し遂げてしまう。

 ウイルスは、資本主義に勝利したりしない。ウイルス革命は起こることはないだろう。どのウイルスにも革命をする能力はない。ウイルスは私たちをバラバラにする。「私たち」と感じる気持ちは生まれない。誰もが、どこか自分の生存について一生懸命になってしまう。互いに距離を取らなければいけないという連帯は、誰もが平和で、正義がなされる社会を夢見るような連帯にはなりえない。私たちは革命をウイルス任せにできない。ウイルスの後で、人間による革命が来るように祈ろうではないか。〈理性〉をもった〈私たち人類〉こそが、すべてを破壊する資本主義や、自分たちが制限なく破壊的な移動をしていることを再考し、私たち自身や、環境と私たちの美しい惑星を守るために、抜本的にそれらを縮小していかなければいけないのである。


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『疲労社会』『透明社会』の刊行をお楽しみに!
なお、弊社刊行予定のリーヴ・ストロームクヴィストの新作にもハン教授の論考の一部が引用されています。

中国のデジタル社会主義については、矢吹晋『中国の夢』もぜひお読みください!


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