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ヒトは、まだ|ショートストーリー


「ぼくは、ヒトがこわいです」

「……ん? それは、どうしてかの」

 長老は、まっしろの長いあごひげを撫でおろしながら、ほそい目じりをさげた。

 ぼくは、そこそこ普通のくらしをしている家でかわれている、気性のあらい母親からうまれた。父親は、ぼくたちにはあまり関心のない、とても自己中なおとこだった。
 兄妹たちの世話がいそがしいといって、母親はいつもいらいらしていた。ぼくは叱られたくなくて、嫌われたくなくて、いつもしずかに部屋のすみっこにうずくまっていた。

 ある日、部屋のまどが開きっぱなしになっていることに気づいた。部屋のすみでじっと存在をけしていることに疲れたぼくは、窓からそっと脱けだして遊びにいったんだ。
 天井がとても高くて、とても明るい場所だった。ふわふわと色々な匂いがして、ゆれる毛がこそばゆかった。楽しくなったぼくは、うしろを見ないままに前へまえへと歩いていってしまったんだ。
 なんだか辺りがくらくなってきて、心ぼそくなってきた。もう家にかえろうとおもって振りかえると、まったく見おぼえのない景色におどろいた。とにかく歩けば家につくだろうと、とぼとぼと歩きつづけてみた。だけとどんなに歩いても、ずっと見おぼえのない景色が続いていたんだ。

「それで、……ここにたどり着いたのかい?」

「ちがうよ、ここに来る前はヒトといた」

 すっかりと辺りが暗くなってしまい、まえに進むことすらこわくなっていた。かたい床のすみっこにうずくまって、目だけきょろきょろと様子をうかがわせる。
 ときおり大きな音で叫びながら、白いひかりが向かってくるんだ。びっくりして走り出しそうになりながら、なんどかオシッコももらしてしまった。
 そんなときだった、ひとりのヒトがぼくのまえで立ち止まったんだ。うちのぼうずが喜びそうだなんて言われて、ぼくはそのヒトのうちに連れていかれた。

「ぼうず、ほら友だちだぞ」

 そういって、ぼくを部屋のなかへおろした。小さな男の子が走りよってきて、わあ! っとぼくに手をのばす。

「あぶないから、やめなさい!」

 男の子のうしろを追ってきたヒトが、あわてて男の子をひきとめる。とてもおとなしそうな子だから大丈夫だよと、ぼくを連れてきたヒトが笑った。
 おとなしくしていないと、このヒトたちに嫌われる。ぼくは瞬時にりかいして、その場でちいさくうずくまった。

 男の子は、まいにちのようにぼくとあそんでくれた。ぼくをここへ運んできたヒトは、あさ出かけたら暗くなるまで帰ってこない。男の子がママとよんでいるあのヒトは、ぼくにおいしいごはんをたくさんくれた。おとなしくていい子ね、そうやっていつもぼくに優しくしてくれた。
 ぼくは、男の子とじゃれて遊ぶことが大好きだった。あまりにも楽しすぎて、ついつい跳びついてしまった。ぼくのとがった爪でけがをしてしまった男の子は、ママに気づかれないように泣くのをがまんした。足からは血が出ているのに、痛くないといって笑ってみせるんだ。
 きっと男の子が泣いてしまったら、ぼくはママから悪い子だといわれるのだろう。だからぼくのせいで、男の子はがまんをしなくてはいけなくなったんだろう。もうぼくは男の子に嫌われてしまったにちがいない。こわくなったぼくは、男の子のうちからとびだしてしまった。

「……あら、かわいい。……おいで、こわくないから……、ほら」

 ゆらゆら揺れる椅子にすわったヒトが、ぼくをみつけて歩みよってきた。逃げようかどうしようか悩んでいるうちに、ぼくはそのヒトに抱えあげられていた。

「どこから来たの? 迷子かな……、かわいいリボンがついてるもんね」

 ふたたび揺れる椅子にすわったそのヒトは、ぼくをひざのうえにすわらせた。あたまからお尻まで、ゆっくりと何度もなでる。あまりの気持ちよさに、ぼくはついのどを鳴らしてしまった。
 なんだか寂しそうなそのヒトは、ぼくを撫でながら話をしていた。聞いているよと伝えたくて、ときどき「にゃあん」とないてみせる。

「……きみは、やさしいね。おしゃべりしてくれるんだね。こんな話きかされても、なにもわかんないよね。ごめんね、……いい子だね」

 そのヒトの手がとまったので、ぼくは見あげてみた。ぽつんっとぼくの鼻先に、そのヒトの目から落ちた水があたる。おどろいたぼくは、ぴくぴくっと耳を揺らして顔をふった。

「……ごめん、ごめん。ありがとね、……さあ、おうちにおかえり」

 地面にぼくをおろしたそのヒトは、ばいばいと言って手をふる。なんども止まって振りかえってみたけれど、そのたびに手をふって行きなさいというんだ。
 ぼくがあのヒトの話をりかいできなかったから、きっと嫌われてしまったんだろう。それとも顔を振ってしまったのが、いけなかったのだろうか。

「……それで、ここへ来たのかい」

「うん、歩いてたらここに着いたんだ」

「それで、……訊くがな。おまえは、いちどでも相手のくちから悪い子や、嫌いなどの言葉を聞いたのかい?」

「…………きいて、ない。言われるまえに、逃げてたから」

「……じゃのう。全ては、おまえの勝手な思いこみかもしれんにのう……」

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