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聖なる空に|ショートストーリー


「こらあ! 部屋までかばんを連れて帰りなさい!」

 玄関をあけると同時に鞄を投げおき、母のどなり声がおわらないうちに玄関をしめる。そしてぼくはそのまま、近所の公園へと駆けていく。
 週にいちどだけ、他の曜日より少しはやく学校がおわる日があった。いっしょに下校をしていた幼なじみに追いつくと、公園ちかくの彼女の家のまえで立ちどまる。

「こらあ!」

 ぼくと同じようなことを言われながら、彼女が玄関からとびだしてきた。そのままよこを走りぬける彼女につづくように、ぼくもいきおいよく地面をけった。
 振りかえれば、すぐ目のまえは公園だ。みどり色の柵のむこうがわに見えるゆりかごをめざし、ぼくたちは笑顔で駆けていく。それをかこむようにこどもたちが集まっていて、ぼくはその群をかきわけるようにして中心へとすすんだ。
 かすかに揺れるゆりかごに座っている、白髪の老夫婦と目があった。ぼくの顔をみた老夫婦は、目をほそめて小さくうなづいた。

「みんな学校はたのしかった?」

「たのしかったあ!」

「学校でなにしてあそんだ?」

 やさしい笑顔で、ぼくたちと話をしてくれる。ともだちはたくさんいるか、勉強はわかりやすいか、先生はやさしいか。どんなあそびが好きか、なんの勉強がすきか、先生のことはすきか。
 しばらくそんな話をしていると、こんどは老夫婦が語りをはじめる。空にいるという、みんなの父のおはなしだった。そして最後はみんなで声をそろえて、空にいる父へ言葉をおくる。

「みんな静かにおはなしがきけました」

 そういってかばんからお菓子をとりだすと、ひとりずつに手渡しながら「またおいで」と微笑んだ。お菓子をうけとったこどもは、ありがとうといって帰っていく。ぼくはその光景をながく見ていたくて、いつもいちばん最後まで手をださなかった。

 つぎの週、また同じようにして公園へといった。まえの週にくらべると、こどもの数がすこしへっていた。
 またつぎの週も、さらに数がへっている。そして今日、幼なじみが行けないと言った。理由をきかなくても、ぼくにはわかっていた。なぜならぼくも親に、それを口うるさくいわれていたから。

『公園にいってはいけません。老夫婦の話を聴いてはいけません。お菓子をもらってはいけません』

 お菓子なんて、うちに帰ればいくらでもある。そんなもの貰うなというなら、ぼくはもらわなくても平気だった。ただ老夫婦の笑顔と、やさしい語りがすきだった。
 ひとりで公園にいくと、ゆりかごに座った老夫婦がてまねきをした。向かい合ってすわったぼくは、たったひとりで語りをきいた。いつもよりながく、いつもより優しく。語りがおわった老夫婦は、すこしさみしそうにぼくの頭をなでた。

「ひとりなのに、来てくれてありがとう。また、いつかね……」

 老夫婦がこの公園にこなくなって、どのくらいの歳月がすぎただろうか。いまではあのゆりかごは、固定されて動かなくなっている。ほかの遊具もきけんだとされて、固定や撤去の処置をうけた。
 その動かないゆりかごに腰をおろし、たばこの煙をそらに向けてはきだした。外灯からはなれている夜のここは、おとなになったぼくを隠してくれる。
 あの老夫婦はきっと、空にいるという父のもとへと還っているだろう。語りのないようなんて覚えてはいないが、ふたりのやさしい笑顔ならしっかりと思いだせる。

『あらあら、あのこ。またひとりで来ているわ……』

 風にかきけされた煙のむこうがわに、きらりとひとつ星がながれた。ざわざわとしていた胸のうちが、すうっと静かになっていくのがわかった。
 聖なるお空の老夫婦に「ありがとう、またくるね」と心のなかで言葉をおくり、ぼくはゆりかごに背をむけあるきだす。

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