「四代目桂三木助追善興行」〜浅草演芸ホール〜

 1月下席、浅草演芸ホールの「四代目桂三木助追善興行」に行って来た。
四代目と親交のあった出演者が揃って、春風亭小朝師匠、林家正蔵師匠、林家木久扇師匠、五代目の三木助師匠らが並ぶ豪華な顔つけ。寄席の入り口には、四代目の等身大パネルが、舞台上には半纏と写真が、さらには、四代目、五代目の後幕も飾られて雰囲気を盛り上げていた。

 四代目の唯一のお弟子さんだった、三遊亭司師匠が、出囃子が鳴って登場して来る時、ちらっと振り返って、四代目の後幕を見つめていた。そして、演り始めたネタが、四代目が得意にしていた「死ぬなら今」。演目が分かった瞬間にジーン来た。後幕を見ながら何を思っていたのだろうか?この噺、落語としてもよく出来た噺だと思うが、あまり演っている方を見かけないのは、技術がいるためなのだろうか?三木助師匠の噺は、たしか、「笑点」で観て、(当時は落語に興味を持ち出した頃で、リアルタイムでも見ながらビデオにも録画をしていたので)その後、何度もビデオを見返した記憶がある。
 上品で知的なんだけど全く嫌味がない、抜群の華を持ったスマートな語り口。そして、テンポよく繰り出す言葉すべてカッコよく、色気がある噺家さんだった。「死ぬなら今」のオチ前の言い立てなんかは眼を見張るものがあり、オチのセリフを一層引き立たせて、「これぞ落語!」という感じがした。司師匠も、また、四代目の「死ぬなら今」が好きなんだろうなぁ。随所に、「四代目三木助」らしさが盛り込まれていた。おそらく、四代目も、後ろから見守ってくれていたはずだ。

 僕が、四代目の桂三木助師匠を好きになったのは、中学の一年生ぐらいの時(だから32、3年ぐらい前)。当時、三木助師匠は、落語家よりもTVタレントとして大人気だった。高学歴タレントの走りのような存在だったように思う。二世という育ちの良さもあって、まさにスタータレントだった。
そんな三木助師匠が、落語に本腰を入れ始めていると噂に聞くような頃、僕も落語に興味を持ち始めていた。
 ある夏の日、実家近くのスポーツイベントスペースで行われたお祭りに、桂三木助師匠が来てくれる事を知った(当時は、まだ世の中は景気が良く、地方のお祭りやイベントには、落語家さんや芸能人を呼んでいた時代の話)。早速、会場に駆けつけた僕の目の前に、桂三木助師匠が立っていた。少し離れた場所から、後輩の落語家さんがステージ上で喋る姿を食い入るように見つめている姿に、いつもの「タレント桂三木助」の姿はなかった。だが、その立ち姿が異様にカッコ良く、今でも鮮明に覚えている。
 しばらく、僕も見つめたままぼーっとしていたが、意を決して「三木助師匠、サインください!」そんな言葉をかけたと思う。すると、すぐにいつもの「タレント桂三木助」の顔に戻り、サインをしてくれた。その笑顔もすごく素敵だったが、会場なのか後輩なのかを見つめていた真剣な表情の方が忘れられない。その後、2、3言葉を交わしたと思うが緊張で、あまり内容は覚えていない。「笑点観ました!」とか「落語好き?」というような言葉を交わしたと思うが・・・。あの真剣な眼差しを向けていた時に、三木助師匠は、いったい何を考えていたのだろうか?と今の僕は、あれこれ考える。

 そんな事があったからかは分からないが、僕の落語熱は急速に加速し、落語会に行きまくり、東京の寄席に行ったり、立川談志師匠にハマったりしだす。名人と言われた3代目桂三木助師匠の事をCDでよく聴いていた事もあり、その後の落語家としての活躍を楽しみにしていた。だから、亡くなられた時の衝撃は大きく、頭が真っ白になったのを覚えている。あれから、22年も経つのか・・・。そんな事は考えてはいけないのだろうけど、生きていてくれたら、落語界は、芸能界は、もっと活性化していただろうに。

 浅草演芸ホール、主任の五代目三木助師匠は、三代目も得意にしていた「崇徳院」(四代目も演っていると思う。)五代目は、四代目の甥っ子さんだが、甥っ子ってこんなにも似るのかというほど、容姿や口調が似ている。そして、五代目の良さは、丁寧な語り口とテンポの良さだ。四代目譲りの品の良さ、育ちの良さ、華も兼ね備えている。技術もあって、いわゆる「上手い」という落語だ。さらに、以前観たときから、少しづつ、その「上手さ」に味が出て深みや、キャラクターの面白さが見えてきたように思う。これから、どんどん面白くなっていって、五代目流の「色」を付けていくだろう。一皮も二皮も剥けて、落語家として大きくなって行く姿を見せてくれる事を期待している。

 久しぶりに、四代目桂三木助師匠と出会えたような気がする、そんな興行だった。コロナ禍じゃなかったら、もっとお祭りな雰囲気でやって欲しかったと思うのは望み過ぎかな。




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