1人1人格の終わり。いろいろな自分を生きるために
いつからこんなに息苦しい世の中になったんだろう。
SNSが登場し、個人のログ(履歴)が見れるようになった現在。「過去の言動に問題がないか、整合性がとれているか」が強く求められるようになっています。ゆらぎが認められない。
それに呼応するかのように、若い世代を中心に「普通の友だちとつながってる用」「オタク用」など複数アカウントを使い分ける人が増えてきています。
個人を生きる息苦しさへの対抗策であるといえるでしょう。
これからの時代、私たちは「自分」をどう扱っていけばよいのか。
今回は平野啓一郎さんの著書「私とは何か――「個人」から「分人」へ」で示された分人主義を起点に、いろいろな自分を生きるための実践法まで書きたいと思います。
分人主義とは
「個人 individual」は、「否定を意味する接頭語(in)」と「分けられた(dividual)」が組み合わさった言葉です。明治時代に西洋から輸入されたこの言葉は、個人を「それ以上分割できない最小単位」と捉えるています。
それに対して、分人主義では個人を「分けられる存在/分人(dividual)」として扱っています。家族、恋人、学校、職場。接する環境や対人関係によって様々な分人が表出するようなイメージです。
FacebookやLINEはindividualな思想のプロダクト(原則1人1アカウント)であり、InstgramやTwitterはdividualなプロダクトともいえるのかもしれませんね。
今の説明で何となく「ふーん」という感じる方もいるでしょう。
とはいえ、「個人(individual)」という考え方が当たり前の現在では飲み込み切れない感覚もあります。
では、西洋的な「個人(individual)」が輸入される明治以前の日本ではどうだったかを少し見てみましょう。
江戸文化とアバター
身分や役割が厳しく定められていたイメージの江戸時代。しかし実際には、様々な自分(アバター)を持ち、自由を謳歌する人々もいました。
冨嶽三十六景でお馴染みの葛飾北斎も、「勝川春朗」「俵屋宗理」「戴斗」「卍」など生涯のうちで30回程名前を変えているそうです。
今でも「芸名」や「ペンネーム」といった文化は残っていますが、江戸時代の人々がこれだけいろいろな「自分」を持っていたというのは、少し意外に感じませんか?
そうした背景には、時代の変化の中で、既存の秩序や体制では収まらない歪みがありました。
時代の変化に伴い、既存の枠組みに収まりきらなくなっている自分。いろいろな自分を、別の真実として認めてもいいのかもしれません。
今日からできる実践
では、いろいろな自分をもつための実践法は何か。個人的には、大きく分けて2つあるかと思います。
①自分の中に複数の自分を持つ
そのままですね。どちらかというと、「自分らしくない自分」の存在も認めるところから始める感じでしょうか。
「自分らしくない自分」もまた自分として扱い、徐々に意図的に「別の自分」を見出していく。
プロジェクト単位で別の自分を切り出してみるのもありです。
②個人が脱臭される場所に行く
個人の肩書や能力がかき消される(脱臭される)場所に行ってみるのもいいかもしれません。
銭湯、地域のボランティア。何でもいいです。少なくとも、いきなり名刺やSNSの交換が始まらない場所がいいかと。
あなたが何者か名乗らなくとも安心していられる場所を探すイメージです。
その場所で過ごすうちに、自分の中の別の面が表出してくるかと思います。
いろいろな自分を生きるために
昨今の自己責任論から「自分」にのしかかる負担は増すばかり。「自分」の行き場を見失っている人も増えている気がします。
まずは、「自分らしくない自分」も認める。
一歩外に出てみる。
そこからではないでしょうか。
引用資料/参考資料まとめ
今回紹介した資料以外にも参考資料があるんですが、まとめきれないためこちらで一覧記載します。
①私とは何か――「個人」から「分人」へ
②江戸とアバター 私たちの内なるダイバーシティ
③広告 虚実(芸名の歴史とその特質)
④観察力の鍛え方(p.152~153)
⑤謎床(p.192~193)
⑥ひとり空間の都市論(p.186~p.187)
⑦おやときどきこども(p.31)
⑧こっちへお入り(p.67)
⑨素顔を隠したヒーローに魅せられる私たち、なぜ 「仮面結社」に入った博物館長に聞いた
⑩石川善樹さんと語り合う、「オン/オフを切り替えない」休み方
⑪人生はゲーム!?僕達が幸せを感じる瞬間【COTEN RADIO番外編 #21】
⑫【尾原和啓4】偽名経済とクリエイターエコノミー
⑬江戸はネットワーク
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