#176 2年越しのヴァイオレット
こんにちは、鏑木澪です。
ようやく観ることができました。
『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
先日、金曜ロードショーでも放送されたとか。
(テレビ見ないからわからない←)
YouTubeで冒頭10分の映像が公開されているのを観て、号泣したのがもう2年前かと思うと、時の流れの速さにゾッとします。
今月は、普段利用しているのとは別の動画配信サイトを使うことにしたら、マイページのおすすめのトップにこの作品がありました。
うん、AIくん、よくわかってるね。←
公開時期が、某作品と重なったこともあり、一般的にはそちらのほうが盛り上がりを見せ、こちらの作品は少し霞んでしまったような印象があり、残念な気持ちでした。
劇場に足を運んでいない人間が、何をいっているんだって感じですが。
私は、人や人ならざるものが感情を学んで、人間になっていく物語が好きなのだけれど、そういった作品を見るたびに思うのは、彼らは人の心を知らないとか、持っていないわけではなく、あまりにも純粋で穢れのない状態であるために、まだ”人の心”とは呼べないものを秘めているのだということです。
そして、”人の心”がわかるようになる、他人の目線で物事を捉えられるようになるということは、自分自身の、そして他者の穢れを認識するということであって、果たして、それは本当に幸せなことなのか、それを識る必要はあったのか、と考えてしまいます。
まぁ、それは私自身の「私はそんなもの、知りたくなかった」という感情から来ているわけですが。
言葉だって、ただの音の羅列であるし
文字だって、ただの線でしかない
そんなもので、自分の想っていることを他人に伝えられるわけがなくて、それは自分が伝えたのではなくて、相手がわかってくれただけ。
相手が、自分の中にある感情と照らし合わせて、想像してくれたにすぎない。
だから、相手の気持ちが”少しはわかる”というのは、結局、自分の中に同じ気持ちがあるということの証明なのではないか、と思ったり。
でも、言葉って、基本的に一方通行だから。
きちんと伝わっているのかと不安になるし、本当に伝えたいことほど、言葉をきちんと選ぼうとするから、適切な言葉なんて、どこにも存在しないと気がついて、何も言えなくなる。
それでも伝えたい想いがあるから、想いが届くことを祈って。
どうにか伝えようとするのが、人間なのかな。
話の腰を折るようで申し訳ないですが、私は手紙が嫌いです。
思い返せば、誰かからもらった手紙で不快な思いをした経験がそれほど多いわけではなく、むしろ「あの人は、こんなことを思っていたのか」とわかって嬉しかったことのほうが多いので、手紙が悪いものだとは思っていません。
しかし、これまで私が手紙をもらったタイミングは、しばらく、もしくは二度とその相手と会うことはないだろうという時が多くて、今更、相手がどんな感情で私と向き合っていたのかとか、こんな想いを抱えていたとか、そんなことをいわれたところで、どこまでが相手の本心なのかを読み取る能力が私にはなかったし、それに応える術を持っていないために、ずるずるとやり場のない気持ちを引き摺ることになりました。
ですから、嫌いなのです。
いいたいことがあるなら、面と向かっていってほしい。
私だって、返したい言葉がある。
物語の描写として、手紙がある作品は好きです。
矛盾していますが、私もあんなふうに手紙で伝えることのできる力があれば、そして、相手の文章を理解する力があれば、素敵であろうとは思います。
物語における手紙とその役割に、私はたくさん夢を見ているし、夢を見せてくれる物語を好んではいるけれど、現実的だとは、どうしても思えません。
故に、私は手紙を書くのが嫌いです。
TVシリーズの第10話、重い病を患う戦争未亡人の依頼で、娘への手紙を50通、つまり母親が亡くなってからも50年に渡り、娘に思いを届け、寄り添うための手紙を書くお話がありました。
私は、TVシリーズではこの回が一番好きです。
そういえば、この時に登場した家族の子孫が、劇場版の冒頭を引き継ぎ、ヴァイオレットのその後、彼女が生きた世界のその後を追いかけていく形になっていました。
他のエピソードの内容も把握している前提でお話が進んでいたので、いきなり劇場版を見た人は置いてけぼりにされたかもしれませんね。
劇場版は、TVシリーズの焼き直しの場合も多いので、そのつもりで観に来てしまった新規の視聴者は不満に思ったかもしれません。
私は、第10話が好きだといいましたが、一番引っかかっていて、納得がいかなくて、「そういう手紙の使い方はどうかと思う」と嫌っている回でもあります。
ただ、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を見直そうと思った時に、一番観ているのは、間違いなくこの回ですから、やはり好きなのだと思います。
このお話で、残りわずかな”今”の娘と過ごす時間を削ってまで、”未来”の娘に手紙を書くことを選んだ母親を、私は素直に肯定できません。
私は意地の悪い人間ですから、こうして残された手紙が、
「実際の状況と乖離していたら、娘を傷つけるだけではないか」
「すべての手紙を受け取れるほど、娘が生きられなかったらどうするつもりだ」
こんなことを考えてしまいます。
いつまでも、娘を縛り付ける枷となってしまうような気がするのです。
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』では、そのような件にはならず、幼い頃には理解できなかった愛を、大切な人の思いを届ける手紙として、彼女の人生に寄り添うものになりましたが、これまで、そうではない物語もたくさん観てきました。
なんでもごちゃ混ぜにして考えるのは、よくないですね。
ひとり残される娘を思って、手紙を残した母親。
せめて、誰に向けた手紙を書いているのか、彼女に教えてあげればよかったのにと、私は思うけれど、それでは意味がないのでしょう。
私にはまだ、”愛してる”がよくわかりません。
いつか、私にもわかる日が来るのか。
私は、ヴァイオレットほど真面目に言葉の意味を探していないし、さまざまな物語や人の経験談から、欠片を見つけることはあっても、自分を完全に納得させることができるような答えを、まだ知りません。
あまり、知りたくないかも。。。
それでも、ぼちぼち生きていきます。
手紙は嫌いだといいながら、こんなふうに垂れ流している文章は、将来自分が読み返したら面白いかもしれないと思っている側面があります。
思いを文章で残しておくのは、良いことかもしれません。
ではでは〜
16,3
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