【短編小説】 怒鳴り声

「ゴミは? 誰が出しに行くの」
「あなたが行ってよ、私はご飯作ったんだから」

 朝食の席、父と母の会話である。
 私は、焼き鮭をほぐす箸の先をぼんやりと眺めていた。

「人に行かせるなら、分別くらいキチンとしたらどうですか」
「昨日からわかってたんだから、今更言わないでよ」

 味噌汁に、私の苦手なしめじが入っている。
 母はきのこが好きだから、普段なら「食べて」というところだけれど、今はやめておいたほうがよさそうだ。

「それが? 人にものを頼む態度ですか」
「別に私がやる必要ないじゃない。あなたがしたら良いのに」
「はあ?!」
「朝から怒鳴らないでよ。娘がご飯食べてるのに」
「この話を始めたのは誰ですか。子供が飯食ってるのと何の関係が?」

 魚のほとんどは苦手で、お肉のほうが好き。
 でも、鮭とししゃもは私が美味しく食べられる魚。

 すっかり身をほぐしてしまった鮭をご飯に載せて食べると格別に美味しい。

 そのはずなのだけど、今は生臭さと血の味と不快な塩っぱさしか感じない。
 どうして、こんなものを食べなければならないのか。

 味なんて、わからない。美味しくない。
 早くタブレットだけで栄養補給できる世界になればいいのに。

 そしたら、こんな時間必要なくなる。

 空になった器を流しに運んで、「ごちそうさま」と口を動かしてはみた。
 声が出たか定かではない。
 どうせ誰の耳にも届かないので、どちらでも同じことだ。


 部屋に戻り、ランドセルの中身を確認する。
 忘れ物はないか。宿題のページも間違っていないか。

 計画帳、昨日のページ。
 先生が使う独特なピンクがかった赤色のペンで描かれた花丸。

 少しだけ、誇らしい気持ちになった。
 少なくとも昨日の私は、花丸をもらえる人間だったのだ。

 今日は、どうだろうか。
 大丈夫だろうか。

 まだ、父と母の怒鳴りあう声が聞こえる。
 ゴミ出しの話に始まり、今は私の成績と習い事の話だ。

 父が繰り返す「金と時間の無駄だ」と。
 反論する母は「娘がやりたいことをさせてやるのは当然だ」と。

 別に、私のやりたいことではないのだ。

 ただ、良い結果を出せば喜んでくれるかもしれないと期待した時期があった。
 それが終わってからは、環境を与えられているのに努力しないことを許さない人たちに「お前は恵まれている」と言われたから、やらざるを得なかっただけである。

 その程度のこともできない人間には価値がないと、捨てられるのが怖かった。


 持ち物も宿題もちゃんと準備できていた。
 あと10分もすれば家を出る時間である。

 両親の声をかき消すようにテレビをつけた。
 思ったより音が大きかったが、これくらいでちょうどいい。

 朝の子供向け番組。
 子供なら誰でも名前を知っているキャラクターが「忘れ物はないかい? チェックした君は偉いね! 今日も1日楽しもう」と笑っていた。

 私の顔も少しだけ綻んだ。

 ドシドシと勢いよく迫ってきた足音が部屋のドアを開く。
 部屋に入るなりテレビを消した父は、明るい声でこう言った。

「面白い?」

 全然面白くない、子供っぽかった。
 首を振ってそう応え、「行ってきます」と私は家を出た。


 集団登校の集合場所には、まだ誰もきていない。
 当然だ、まだ集合時刻より5分も早い。

 近くの田んぼに向かって伸びている用水路は、夏になるとメダカが泳ぐようになる。

 数年前は、私もよく捕まえた。
 楽しかった。

 水の枯れた用水路には、草が生えていた。
 コンパスくらいの大きさのバッタがその先に止まっている。

 こんなに大きなものは初めて見た。

 幼い頃、父が捕まえてくれたバッタはもっと明るい色をしていて、小さくて可愛かったことをふと思い出した。

 深緑色の大きなバッタ。

 気がつくと私は手を伸ばしてバッタを捕まえようとしていた。
 指が触れそうなところまで行った時、はっと気がついた。

「おはよー!」

 同級生の女の子がアスファルトをキンキンと踏んづけながら駆けてきた。
 すると、バッタは耳に刺さるような低い羽音を鳴らし、飛び去ってしまった。

「うわぁ! なに、今の? 大きかったね!」

 給食当番のエプロンが入った白い袋を振り回しながら、彼女はバッタの後を追って走っていく。なにが楽しいのか、高らかに笑い声を響かせていた。

 その背中を私は見ているだけだった。


「今日は休みたい。胸が痛いから」

 習い事に行きたくなかった。
 母は夕食を作る手を止めると「病院行く?」と訊ねた。

「……行かない」
「だったら、練習に行きなさい」
「息を吸うと胸が……よくわからないけど、痛くて」
「じゃあ、もう二度と練習には行かなくていいわ。行きたくないんでしょ。もうやめたらいいわ。ゆっくり晩御飯食べて、寝たらいい。あぁ、朝から馬鹿みたいな話しなくて済むし、清々するわ。今まで何のためにやってきたんだって感じだけど」

「ごめんなさい……」

 私は結局、習い事に行った。
 途中で気分が悪くなって、先生に言って抜けさせてもらった。

 トイレで戻してしまった。

 短く切れたうどんと玉ねぎとお肉。
 七味に入っていた山椒が丸いまま浮かんでいた。
 香りが苦手で、私は山椒を噛めないのだ。

 食べたものが無駄になってしまった。

 ひとしきり吐いて、出るものがなくなったので、トイレを出て練習に戻った。
 先生は「大丈夫か?」と何度か声をかけてくれたけれど、そのせいで余計に「サボり」「点数稼ぎ」と帰り際、他の子達に背中を叩かれたのだった。


「早く帰りなさい。お尻から椅子に根っこでも生えてるの?」

 高校生になってから始めた習い事は、部活の終了後、21時から始まる90分のクラスだったけれど、先生の好意で授業が終わってからも教室に置いてもらえた。

 時刻は、あと5分で0時を回るところである。

「流石に日付が変わるまでいられたら、迷惑……かな。心配されるだろうし」

 言いにくそうにしながらも、戸締りを始めている先生こそ、早く家に帰りたいのだろうし、待っている人がいるのだろう。

「ありがとうございました」
「気をつけて帰りよ〜」

 手を振って見送ってくれる先生に頭を下げると、私は自転車に跨って帰路に就いた。

 遠回りをして、一度学校に戻る。
 事務室以外の電気が全て消えた大きな建物は、それ自体がひとつの生命体のようで、今にも動き出しで不気味だった。


「はぁ? 何でこんなこともできないの。本当に使えない」

 私の声だった。
 事前に通達しておいた業務を指示通りに行えなかった部下への叱責である。

 部下と言っても、同い年である。
 本来ならば同僚と呼ぶのが適切かもしれないが、私は中間管理職まがいなポジションを与えられていたため、指示を出す立場だった。

「最低。”使えない”とか。あんたの駒じゃないし、使われる覚えないんだけど」

 その場にいた中で一番遅刻、無断欠席、書類の不備が多く、いつも尻拭いをさせられている問題児。その人が、私に向かってこう言ったのだった。

 少なくとも、私はあなたの駒である。


 怒鳴り声が、壁をすり抜けて私の耳に届いた。

「何回言ったらわかる?! 諄いわ!」
「私は、ちゃんとやったよ」
「できてないから言ってんでしょ!」

 母娘とも60歳を過ぎ、低くしゃがれて太くなった声が響いている。

 キリキリと耳に刺さる。
 ペットに餌をやったかという話でかれこれ30分である。

 その間ずっと、「待て」を喰らったままのペットの姿が目に浮かんだ。

 今も昔も、私はこの声に怯え、自ら考えて身動きをすることすら困難である。


 ふと思い出した。
 深緑色の大きなバッタに伸ばした指を止めてしまった日。

 そこに私の意思はなかった。
 声が聞こえたのだ。

「それは楽しいのか」
「いつまでそんなことをしているのだ」
「それに価値はあるのか」

 それを掴むことは許さない。
 声は言っていた。


 もはや誰の声かもわからない大きな音が脳裏に深く焼き付いていた。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?