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戊辰戦争をめぐる歴史観の違い

ここしばらく、飛び石的に戊辰戦争の話題にふれる機会が多いです。
そこで、気になったのが「東西で、かなり視点が変わる」ということ。

福島と言うと、奥羽列藩同盟の一翼を担っていた会津藩の悲劇がよく知られています。
ただ、詳しく調べると実際には、もっと複雑。
それをよく表しているのが、戊辰戦争の末期には既に出来ていたとされる、次のような俗謡です。

会津猪 仙台むじな 安部(阿部)の兎はよく逃げた
会津猪 米沢狸 仙台兎で 踊り出す
会津猪 米沢猿で 新発田しばた狐に 騙された
会津桑名の腰抜け侍 二羽の兎はぴょんとはねて 三春狐に騙された
会津猪 仙台狢 三春狐に騙された 二本松まるで料簡違りょうかんい棒

出典:二本松少年隊のすべて

出典元の本にもあるように、猪突猛進の猪や米沢藩の狸・猿など奥州諸藩は非常にネガティブに扱われています。さらに、さまざまな思惑があった様子や、二本松藩が大藩や周辺の藩に翻弄された様子がよく現れていると言えます。
特に、ここで出てくる新発田しばた藩(新潟県)や三春藩は、裏切り者の代表格として上げられていますね。

新発田藩はともかく、三春藩は二重スパイのような動きを見せていたため、なおさら戊辰の怨恨が残ったようです。
ただ、それも藩主が幼年で藩政の舵取りを出来なかったことなどを考慮すると、多少は同情の余地があるなど、地元民としても複雑極まりない。

官民一体となって戦う風土があった

もう一つ。
郷土史などを詳しく調べないとまだ不明な点が多いでしょうが、会津藩を始めとするみちのく諸藩は、武士と農民の垣根が案外低かったのではないか、という気もするのです。
二本松少年隊の小説を書いてみたいと思い、調べて分かったことですが、上士クラスでも、結構生活の内容が質素。
一汁一菜などが基本で、布団も一枚しか掛けてはならないなど、農民と大差がないのでは?という生活なのです。
もちろん藩の方針もあったでしょうが、藩全体がそれほど財政的余裕がなかったのだとも考えられます。
それと、二本松藩では「有力商人や神主が平民の差配役」を任されていた、というのも、身分による垣根が低かったことの証ではないでしょうか。

そう考えると、二本松城下の戦いも、会津戦争も、総力戦となったのも頷けるところがあります。
身分としては格上かもしれませんが、近所のお侍さんなど見知った顔の人々のために、農民自身も共に戦おうという風土が非常に強かったのが、福島における戊辰戦争の本質だったのではないでしょうか。
時代錯誤と言えば、それまでかもしれません。
ですが、それを説いたところで耳を貸さない風土が、当時はあったのではないでしょうか。

どちら側から見ても、一方的になる

戊辰戦争は、1868年。約150年前の出来事です。
ですが、当時の記録は記録を残した時点で、プロパガンダの要素を含んでいたと思うのですね。内乱による外国勢力の介入を阻止しなければ、という思いもあったでしょうし。新政府軍による誇張もかなり含まれていると考えています。
実際に民間史では、戊辰戦争の少し前までは同じ塾で寝食を共にした仲間を救わんと、新政府の人間が旧幕府軍の人間のために助力した、という記録も残されています。

ですが、時の圧力を受け、そうした影の功労者は闇に葬られようとしていた。
さらに、「新政府」が認めたものだけが「正史」的な扱いを受け、それを元に小説やドラマなどが、作られてきたとも言えます。
そうなると、私達が知っている「歴史」は、フィクションの上にフィクションを重ねている可能性もある。

巷間言われる「会津と薩長の怨恨」を埋めるには、そのような正史に埋もれている稗史はいしも丁寧に検証していかないと、まだまだ解決しないのではないか。
そんな風に感じるのです。

©k_maru027.2022


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