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奇っ怪極まる水戸藩~尊攘思想と派閥争い(中編)

前編では、「攘夷思想」の発祥とその分類について解説しました。今回は、
前回の続きとなります。


徳川斉昭のリーダーシップと水戸藩の動向


さて、先に出てきた「徳川斉昭」についてです。先に述べたように、斉昭は文政12年9代水戸藩主となりました。おくりなが「烈公」と言われるくらい激烈な感情の持ち主なわけですが、従来の門閥主義を破って下士の中から人材登用を図るなど、幕末における改革派のリーダーでもありました。会沢正志斎・藤田東湖はその代表格であり、また、後に天狗党の領袖に祭り上げられる「武田耕雲斎(諱は正生まさなり。伊賀守や彦九郎の名でも登場します)」も、斉昭に見出された一人です。

以前に述べたように、斉昭が水戸藩を継ぐ際に、他にも候補者がいました。ですが、結局前藩主斉脩なりのぶの遺言が決め手となり、斉昭が当主の座に就きます。このときに斉昭の襲名に尽力したのが、武田耕雲斎らでした。一方この時斉昭の相続に反対した門閥派が、後で「諸生党」の走りとなります。

斉昭の藩主としての実績は、水戸藩校である弘道館、反射炉、先の大津浜事件を受け海防施策の一つとして助川海防城を建設などが挙げられるでしょう。現在の水戸にも、その偉業が伝えられています。また、このときに各地に郷校を整備しますが、後にこの「郷校」も、各地の尊攘運動の拠点になっていくのです。

さらに水戸藩は徳川御三家の一つとして、幕政にも関与していました。斉昭が就いていたのは「参与」という重要な会議に出席する臨時職でしたが、その出自も相まってかなりの発言権を持っていたようです。
プライベートでは、尊王思想を体現すべく有栖川宮家の吉子女王を正妻に迎え、22男19女と、実に多くの子供に恵まれました。
そして、会沢正志斎や藤田東湖の影響を受けて水戸藩における「尊王攘夷思想」を確立していくのです。この尊王攘夷思想は、外国人嫌いで知られた時の帝である孝明帝にも大きな影響を与え、斉昭は帝からも深く信頼されるようになります。

それぞれの派閥

ここで、水戸藩におけるそれぞれの政治派閥を整理しておきたいと思います。

門閥派(諸生党)
斉昭の藩主就任にはどちらかというと反対だったグループです。後にこのグループの代表とされるのは、市川三左衛門(弘美)、佐藤図書、朝比奈弥太郎、鈴木石見守らでしょうか。
また天狗党騒乱のときには、水戸弘道館の生徒(諸生)を動員して戦いに当たらせたため、諸生党の呼び名がつけられています。

(改革派)鎮派
改革派の中でも、比較的穏健派のグループです。改革の必要は感じているものの、大局的視点から緩やかに変えていこうと考えているグループ。先のマトリックス図では、「大攘夷」の思想に近いグループです。
ここに属していたのは、会沢正志斎、武田耕雲斎、助川海防城主・山野辺義芸よしつね主水正もんどのしょう)、榊原新左衛門など。

また、確実なエビデンスには欠けますが、守山藩の三浦平八郎も恐らくこのグループだったと、私は考えています。
従来は守山藩における「激派」扱いされる傾向のあった三浦平八郎ですが、昨年末に入手した「文久4年年中日記」(通称「樫村日記」)を読んでいる限りでは、どうも武田耕雲斎と似たような動きをしている節があります。

(改革派)激派
改革派の中でも過激派のグループです。目的達成のためには、武力行使も厭いません。後の藤田小四郎、竹内百太郎、岩谷敬一郎、そして田中愿蔵げんぞうがこのグループです。
「水戸の尊攘派」が引き起こした数々の事件は、この過激派によるもの。ただし、後の勤王党のように「倒幕思想」を持っていたとはいい難い面もあります。
(※田中愿蔵を除く)

図解すると、このような感じでしょうか。

以前にも述べたことがありますが、幕府の外交政策に焦れていた朝廷側は、安政5年(1858年)、幕府の頭ごなしに水戸藩に「攘夷実行」の密勅を下しました。これが「戊午の密勅」です。視点を変えてみれば幕府の威信が無視されたわけです。
井伊直弼の「安政の大獄」で水戸藩が厳しく断罪されたのは、水戸藩が戊午の密勅を受諾したことで幕府のメンツを潰したことも、一因でした。

そんなわけで、旧来の門閥派と改革派の間には、かなり根深い溝があったわけです。

徳川幕府に反旗を翻す

さて、上記の中で特に過激だったのは、「激派」です。「水戸藩が事件を起こした」というのは、大抵このグループによるもの。代表的なところでは、以下のようなものがあるでしょうか。

この激派の運動は、各地の尊攘派からは絶賛される一方で、幕府と水戸藩の溝を深めるものでした。水戸藩とて、幕府には逆らえません。そのため、門閥派や鎮派からすれば、激派を取り締まり、鎮撫する必要があったのです。

水戸藩の尊王攘夷思想と幕末の社会情勢

ここで少し、水戸藩から外に目を向けてみましょう。水戸藩が主張するものに、「横浜鎖港」がありました。
これも攘夷政策の一つで、京都の尊攘派公卿らが幕府に強行に迫っていた政策です。ですが、一旦「開港したもの」がそう簡単に閉ざせるものなのでしょうか。

この点については、次話で解説したいと思います。

後編に続く

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