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風俗嬢にガチ恋するおっさんはなぜキモいのか

「頂き女子事件」“被害者”への、フェミやリベラルによる誹謗中傷は、未だに後を立ちません。

まあもちろん、彼ら彼女らの中には「性産業そのものを搾取や暴力と見做す勢力」もいるわけですから、その理屈の下では“被害者”らは「リベラルの敵として攻撃すべき対象」なのでしょう。しかし、そうだとすると、一つおかしなこともあります。

その誹謗中傷者の中には、「性産業そのものを搾取や暴力と見做す勢力」の理屈を支持しない●●●●●側の、「性産業従事者の当事者」によるものも少なくありません。彼女らが“被害者”を叩く理由は、どこにあるのでしょうか。

その中には、「若い風俗嬢とおぢの真剣な恋愛なんて本当はあり得ない」などという声もあります。そこで今回は、彼女ら「(特に自発的な)性産業従事者の当事者」が、こうした「ガチ恋おじさん」をキモがる心理について、迫っていこうと思います。

代替可能であるべきか、代替不可能であるべきか、それが問題だ

とは言っても、実はこの感情、「性産業そのものを搾取や暴力と見做す勢力」の理屈と無関係ではありません。

以前から指摘しているように、性産業そのものを搾取や暴力と見做す理屈には、「一夫一婦制を至上とする価値観」の強い影響や関連性があります。中にはあえてそれを否定するような(例えば「伝統的家族観の制度下における配偶者が売春を強制することもある」などという理屈で。ただし後述するが、私が関連性を指摘しているのは「伝統的家族観」ではなく「一夫一婦制」であることに注意)論客もいますが、政治的に主張を通すためにはそのような勢力と歩調を合わせなければならないことに変わりはありません。

「マ◯コ二毛作」・「私達は買われた」も、元々性産業にいた経歴を持つ女性が、一夫一婦制の恋愛観・結婚観に包摂されるために編み出したレトリックであるということは、何度も指摘していますよね。

『性的モノ化と性の倫理学』(京都女子大学・江口聡氏の論文)

実際アカデミックなフェミニズムの「性の商品化/性的モノ化/性的対象化」の議論においては、その要件の一つとして代替可能性fungibilityが指摘されています。この観点から見ても、それらを害悪視する価値観が、恋愛関係・性的関係を代替不可能な関係であるべきとする●●●●●一夫一婦制の価値観と相性が良いことは、言うまでもありません。

つまり、これを逆に言うと、(他者からの強制ではなく)自発的に性産業の道に進んだ人ほど、その立場から「性産業そのものを搾取や暴力と見做す勢力」の理屈に反対している人ほど、この「一夫一婦制を至上とする価値観」を否定する傾向にあるわけです。

その「ガチ恋」も、殆どの場合において一夫一婦制の延長的な恋愛観の影響があるわけですから、彼女ら(場合によっては「彼ら」)が感じる「ガチ恋おじさん」へのキモさは、こうした価値観のズレに起因していると、私には思えてならないんですね。

「Sex work is work」の残酷さ

Sex work is work──それはこのような「性産業そのものを搾取や暴力と見做す」フェミニズム内の勢力に対する性産業従事者側(この側にも当然、フェミニストは含まれている)の抵抗のスローガンですが、同時にこれは「旧来の恋愛観」を捨てきれない消費者へのメッセージでもあります──「性産業はあくまでも仕事ワークでしかない」という。

つまり、事がおかしくなっている大きな原因の一つは、性産業に現実の(一夫一婦制に基づいた排他的な)恋愛、もしくはそれに準ずるものを求めてしまっていることそのものと言えます。これは小山狂人が指摘しているように、ホスト産業でさえ起こっている問題です。

読者の皆さんの中には、これはとても残酷なことだと思う方も多いと思われます。しかしですね、

性産業が「性関係は代替可能であるべきだ」という信念に立脚しており、
一夫一婦制が「性関係は代替不可能であるべきだ」という信念に立脚している以上、
「両者を同時に擁護する」ことは不可能です。

両者の関係は、完全に「トレードオフ」です。事態が転べばどちらも成立できない、ということさえあり得ます。もしあなたが本当に一夫一婦制の恋愛観・結婚観に包摂されることを願うのならば、性表現や性産業の「存在を許す社会」を、一部フェミニズムと共闘して打倒していくという戦列に加わらなければ、そもそも(「理的に」ではなく)理的におかしいことになりますし、そんな展開を望まないのならば、ここまで述べてきたような一夫一婦制への願望は捨てなければなりません。

ちなみに言うと、ここで重要になってくるのは「伝統的性観念・家族観」というよりは「一夫一婦制を至上とする価値観」です。この二つの観念は重なる部分が殆どですが、互いに一致ないし包括被包括の関係にあるものではありません。また、「一夫一婦制を至上とする価値観」における最も重要なポイントは「至上とする」ということです。つまり、その人が現に一夫一婦制に順応しているか否か、あるいは順応することを望んでいるか否かは、「一夫一婦制を至上とする価値観」を持っていることと全く関係がありません。

例えば既婚者であっても相手の不倫や風俗の利用、場合によっては風俗で働かせることを許可するケースはありますし、この場合、許可した側はその価値観を持っているとは言えません。あるいは逆に非異性愛者でも、同性婚法制化を自分達が一夫一婦制に包摂されるための手段としてしか捉えていない人も多くいます。この場合はその価値観を持っていると言って差し支えないでしょう(つまり何が言いたいかというと、同性婚法制化は却って一夫一婦制に順応できないセクシャルマイノリティ、すなわちバイセクシャルAセクシャルポリアモリーなどへの抑圧になりかねないということ。通すにしてもそこにつながらないような配慮は必要でしょう。これは将来的に記事にしておきたい案件の一つ)。

それでも性関係は「代替可能」であるべき理由

最後に、なぜ私は「性関係は代替可能であるべきだ」という信念の側を擁護するのかについてお話しします。

一言で言えば、その「一夫一婦制を至上とする価値観」をどんなに社会に浸透させることができたとしても(そしてそこに「同性婚」を包含したとしても)、すべての人間をその枠組みの中に包摂することなど、原理的に不可能だからです。

ただでさえ女は「地位の高い、もしくは財力のある男になびく」生き物です。だからこそその性質を自然にのさばらせておけば、一夫多妻制ないし多夫多妻制の「勝者総取り」の関係になりがちであり、それ故に「下の階層」からは一夫一婦制を求める声が根強くあります。特にAVや風俗にさえ手が出せないほどの最底辺階層になってくると、藤田孝典氏のようにあえて「性の商品化を許さない」という戦列に加わっていくケースも多々あります。

しかし、現実的に組まれている一夫一婦制のスキームも、結局は男に地位や財力を傾斜的に配分して、女が「なびきやすくなる」状況を作るものに近いです。ところがこれも「女の性質」を逆手に取ったものに過ぎず、「性質の是非善悪」そのものに切り込んでいったわけではありません。殊に日本はバブル崩壊の直前までこのスキームが「うまくいって」おり、一方で女性たちもそれに応じて「高望み」を加速させていきました。で、バブルが崩壊して就職氷河期になって、「男が稼げなくなった」ことによって多くの女性が婚期を逃し(あるいは「(彼女らから見て)まともでない男」としか恋愛・結婚できず)、今における中年女性のミサンドリーの蔓延につながっているわけです。その観点から言えば、日本において「一夫一婦の皆婚社会」のスキームは、とっくに破綻しきっているといっても過言ではありません。

更に言えば、仮にそれで「下の階層の男性」にも一対一で結婚の機会が与えられたとしても、一夫一婦制はそれ以外のことを保障しません。妻として優れた能力を持つ女性はやはり上の階層から順に取っていくわけで、下の階層になればなるほど、(男側から見て)「変な女」・「狂った女」があてがわれるリスクは高まっていきます(そしてその相性の悪さこそが「離婚ビジネス」・「子供連れ去りビジネス」の最も付け入る隙になっていたわけです)。

更に一夫一婦制は女性にとっても「結婚の機会が与えられている」状況になるわけですから、そのような「変な女」・「狂った女」は「男の中の誰か」が必ず引き取らなければなりません。彼女らを宥めるノウハウを持っている人なんてそうそういないにも関わらずです。その観点から見ると、一夫一婦制は意外に酷なことを「下の男」に強いているとも言えます。

だったら最初から性関係は「代替可能なもの」であることが認められているほうがまだましなのではないか、と思うわけですよ。別にそれが「現状の性産業の維持」という形であることにはこだわりませんが。

おまけ

執筆開始時にどこかに入れようと思っていた動画。一夫一婦制に基づいた結婚観と風俗界隈の価値観とのギャップを如実に示しています。