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私の言う「フェミニズム以前」とはいつのことか

我々はフェミニズムに反発しつつも、性意識をフェミニズム以前の時代に戻すことは全く望んでいません。
いやむしろ、フェミニズム以前の性意識のほうが、女にとって安全かつ幸福に生きられると彼らが考えていたからこそ、彼らは一部のフェミニズム政策にのみ反対していたわけです。
ただ彼は、だからと言ってフェミニズム以前の(すなわち皆婚社会だったころの)家族観を復活させてはいけないとも述べています。これは私も当然のことだと思います。

このように、私は何度も「フェミニズム以前」という言葉を用いていますが、これについて疑問に思った方はいますでしょうか。

フェミニズムの歴史は第1波から数えればすでに100年以上もありますし、初心者向けに何を指しているのかをはっきりさせておきたいと思います。

基本的に私が「フェミニズム以前」と言う場合は、1999年の男女雇用機会均等法改正及び男女共同参画基本法成立以前を想定しています。これは「女性の地位向上によって、家族観が解体され、非婚化と少子化を進める」という方向からのフェミニズム批判が、ちょうどこのころに成立したことと関係があります。このため、正確に言い換えるなら「第3波フェミニズム以前」ということになります(そもそも「フェミニズムがエリート女のものになった」のは第3波のことであり、1波2波は草の根主導でした。この点では草の根のほうが「フェミニズムの真の姿」に近いといえます)。

ネットにおいても、フェミニズム批判というのはつい数か月前まではオピニオンリーダーに近いものほどこの方向からの批判を踏襲しており、「女性の権利を擁護する傍ら男性の人権を蹂躙している」という方向からの批判は少数派だったのです。

ネットにおけるフェミニズム批判の経緯

私の知っている限りでは、後者のような批判は2000年代末期までは2ちゃんねるとmixiで時々くすぶっていた程度、例外としてSAPIOの竹中英人氏の記事と『独り言 反 女権主義』というブログがありましたが、ほとんど見られていなかったようです。10年代初頭になると『Q&A男性差別』『オワコン女』『女性専用化社会』『Nikkohの徒然日記』『男性差別とたたかう者のブログ』『女に生まれたかった男が男女について考える』など男性差別やマスキュリズムを扱ったサイトが複数出てくるようになります。

そんな中、北米でマスキュリズム理論を学び日本に戻ってきたのが久米泰介氏です。彼がマスキュリズムに関する書籍を何冊か翻訳して国内で出版したこと、そして日経ビジネスなどに寄稿したことによってこの概念は市井に広まる道筋がつきました。

一方でそれとほぼ同時期にTwitterやTogetterを中心に出てきたのが「弱者男性論」でした。これには2通りの解釈があって「社会的強者でない男性」の主張と「非モテ・KKO(当時はインセルという言葉は広まっていなかった)こそ真の弱者だ」という主張がありました。やがて弱者男性論の主導権は後者に握られることになり、一部政治家(の公設秘書)を名乗るアカウントの介入を通じて「フェミニズムによる女性の地位向上で家族観が解体されたせいだ」ということになっていきました。無論マスキュリズム側の一部論客はこれに抗議したわけですがほとんど届かずじまいでした。

またこの論を通じて『女性専用化社会』の主張にも変化が現れました。このブログはかねてからProf.Nemuro氏(当時は完全に家族解体論からのフェミニズム批判者、しかも機に乗じてKKOを煽り立てる記事を連投していた)の影響を強く受けており、他のマスキュリズム系ブログとは少し毛色を異にしていました。

フェミニズムはここ数十年、強制的に男の価値(社会的地位や所得)を奪い、男の尊厳を傷つけてきた。
女が痴漢やその他、性的価値を侵そうとする男に強い不快感を覚えるように、男も社会的価値地位を侵されることに強い不快感を覚える。だから、性犯罪に遭いそうな女性が自分を守るために抵抗するのと同じく、(男女共同参画以前において)女性が男性並みに働き、昇進していくことに対して男性たちは本能的に不快感を覚え、抵抗したのだ。社会的地位を得られる場所から女性を排除しようとすることは、女性が女子更衣室や女風呂に入ってくる男性を排除するのと同じことなのである。
しかし、社会的経済的価値だけに「男女平等」という概念を適用し、女の性的価値の優越には見てみぬふりをした。
「男が社会的地位、経済的地位を独占しているのは差別だ!」と糾弾するも、「性的価値を女が独占している」ことには一切触れない。
ここ10年ほどで、女性にとって強姦は「魂の殺人」という主張がされることが多くなった。 女の性的価値は「魂」であって、命と同等、いやそれ以上に大切な価値であるのだと言う。
女の性的価値が「魂」ならば、女には「命+魂(性的価値)」があることになる。
では、男はどうだろう。男には性的価値がない。だから男には「魂」はないのだろうか。
そうではない。男としての役割を背負って生きていく上で「魂」と言えるような、守るべき大切な価値、それは社会的価値、経済力だったのである。
政治家たちはフェミニズムに騙され、毒され、男性にとっての「魂」を強奪し、女性に分配してしまったのだ。
思えば、女にとっての性的価値は男にとっての社会的地位であったのであり、男から社会的地位を奪うというのは決して、やってはならないことだったのだ。

この理論がマスキュリズム的にもデタラメにまみれていることは、論を待たないでしょう。「男には性的価値がない」と言いますが、それはあくまでも今まで誰もそれを守ろうとしなかったことが原因です。別の記事では「男には性的価値がないのだから守る意義もない」とさえ主張されており、完全に因果が逆転しています。また痴漢や強姦によって女の性的価値が男に奪われるというのもかなり理解しがたいものです。

その後このブログは「負の性欲」という概念の提唱者で知られるリョーマ氏に管理が移り、ジェンダー保守主義のブログに完全に転向することになります。

男女はその本質からして異なるものであり、男が子を産むこともないし、女が甲斐性を発揮することもない。男女平等は未婚率の上昇や少子化を促進し、社会を崩壊させる悪手であるとの結論に至った。
女性専用車両は「男性差別」や「男女平等に反する」という観点で反対をしていたが、もはや男女平等を支持していない私にとって、女性専用車両は許容できる存在になってしまった。
女性は性的価値が高い存在であり、それを意図しない痴漢から守るというのは正当性ある主張である、と。
同時に、男性は妻子を養う甲斐性を持たねばならず、女性よりも男性の所得を高くする必要があるというのも正当性があると主張する。もはや家父長制を支持していると言ってもよい。
そういう意味では「女性専用化社会」というタイトルは、男女平等であるべきなのに女性専用があるのは不平等だ、男性差別だという批判の意図があり、今の思想とは違うものになってしまった。

これはマスキュリズムにとっては大きな損失でした。ある意味フェミニズム以上に、インセル理論・ジェンダー保守主義を敵視しなければならなくなった瞬間でした。この後に久米泰介氏の『マスキュリズムの敵 ジェンダー保守派』や青識亜論氏の『インセル・ミソジニー批判論序説』が出てくることになります。

今でこそProf.Nemuro氏はフェミニズムの被害者カルチャー化を憂慮するようになりましたが、もともとジェンダー保守派の論客でエリートのフェミニズムばかり叩いていたことについて私はずっと追及していくつもりです。我々は強者男性やインセルの傀儡ではないのです。

アンチフェミでさえ「1波・2波以前」には戻せない

繰り返しになりますが、エリートばかり批判していたジェンダー保守派的フェミニズム批判は、「第3波フェミニズム」にのみ反対していたわけです。彼らの言い分が仮に通ったとしても、性意識を戻せるのは所詮「第3波以前」でしかなく、1波2波より前に戻すことは不可能です。このことを、読者の皆さんはよく覚えておいてほしいです。