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我々は「一夫一婦制」が要請する「純潔貞節規範」を、反フェミニズムからついに排除できなかった

ダウンタウン松本人志氏に関する性被害告発、能登地震や大学入試における性暴力の喧伝など、この年末年始は界隈だけを切り取っても相当に騒がしいものになりました。

そんな中、特に松本氏の件で、いわゆる「マ○コ二毛作」という概念が再び浮上しています。今回はなぜそのような現象が起きているのか、ということを深掘りしていきたいと思います。

まあ結論から言いますと、この「二毛作」という現象の根本的原因は、これまでの反フェミニズムの在り方そのものにあります。

…ということのアウトラインはこの記事ですでに解説していることではありますが、今回はそこに窺える心理など、もう少し詳しい内容にも踏み込んでいきます。

純潔貞節は「一夫一婦制」を至上とする価値観そのものが要請する

「これまでの反フェミニズム」というのは、基本的に、積極的であれ消極的であれ、「性の解放」・「女の社会進出(地位の平等化)」という観念そのものに否定的であり、旧来の「伝統的性観念」に基づいた性の在り方を奨励してきました。その最も先鋭化した例の一つがトップ画像で挙げたような、統一教会の外部団体PLA Japanによる純潔運動でしょう。

だからといって、その責を統一教会だけに問えるわけでは当然ありません。こうした純潔貞節は「一夫一婦制を至上とする価値観」そのものが要請しているものです。つまり、特定の宗教が要請するものではないのです。似たような教義・規範はモルモン教・エホバの証人はもとより殆どのキリスト教・ユダヤ教・イスラム教における「正統な」宗派・教派には普遍的にあるものです。これらをひっくるめた言い方として「アブラハムの宗教」という言葉がありますが、逆に非アブラハムでアブラハム並みの性観念・家族観を教義に取り込んでいる宗教は儒教くらいしかありません(このことについては別記事で取り上げたい)。

ではなぜこの「一夫一婦制を至上とする価値観」は反フェミニズムの間で奨励されてきたかと言えば、それが共同体の次世代再生産を最も高い効率で行える手法であった、逆に言えば「フェミニズムがその規範を逸脱した」ことで深刻な非婚少子化が進んだという認識があり、少子化を止めるには結局その価値観を再び徹底させるしかないとされていたからです。

そしてその価値観の下では当然、(特に子供を作ることにつながらない)性欲は害悪視されてきました。フェミニズム側には「性欲は後天的に生ずるものであるから、それが生ずる前に何とかしなければならない」という言説がありますが、その最も大きな論拠になっているのは「元々性欲は社会的に害悪視されていた」という事実なのです。

これを顕著に示しているのがジョージ・オーウェルの『1984年』で描かれている結婚観です。この作中で結婚は、子供を産んでINGSOC/BigBrotherに奉仕するための儀礼でしかなく、夫婦に性欲があると認められれば婚姻を許可されないこともあります。作中には純潔運動団体「Junior Anti-Sex League」の描写もあります。これはこれでフェミニズム的な批判もありますが、やはり「子を成すこと」の意味付けが強くなっていくほど、欲望や快楽は不要なものであるとされるわけです。

また同様の理由から私は「性欲にかまけたおっさんがフェミ騎士と化す」という言説を懐疑的に見ています。彼らもおそらく「子供をなすためのセックスにとって、性欲ほど邪魔なものはない」ということを無意識的に理解している。だからこそ他の男の性欲を攻撃しているとも考えられます。

性犯罪の保護法益とは?

そもそも刑罰法規というのは、その行為に刑罰を科すことで守ることのできる権利や利益がある、という建前が常にあります(これは別に自由主義国家でなくても同じです)。この権利や利益を保護法益といいます。この保護法益は「誰のないし何の利益を侵害するか」によって3つに分かれます。

  1. 個人的法益:個人的な権利、利益の侵害に関わること。殺人、傷害、窃盗、詐欺、背任、名誉棄損など。

  2. 社会的法益:社会(というよりかは共同体)の利益に関わること。賭博、決闘、贈収賄、ドラッグ流通関与、道路交通法違反、廃棄物処理法違反、あるいはイスラム圏における生活規範の逸脱に対する私刑を含む刑罰などもこれに含まれる。

  3. 国家的法益:国家の存亡を含む利益に関わること。スパイ、政府転覆の準備、偽造通貨の作製、(独裁国家であれば)イデオロギーの逸脱行為など。

社会的法益や国家的法益に対する犯罪は、(特にリバタリアンや功利主義の立場からは)「被害者なき犯罪」とも呼ばれます。

では、性犯罪の保護法益はどれに属するのでしょうか。強姦や痴漢は身体接触を伴うし、盗撮はプライバシー権に関わるから個人的法益だろう…と思ったそこのあなた。大間違いです。

性犯罪の保護法益は、一般的には社会的法益に属すると考えられています。国や地域によっては兄弟姉妹間の性的関係やガチガチの婚姻以外のあらゆる性的関係を犯罪にしている場合もあります。やはり多くの国では「一夫一婦制ないし婚姻制に基づいた性的関係からの逸脱阻止」が法益の根本にあるのです。日本でも明治刑法(特に姦通罪とセットになっていた頃)の強姦罪や売春防止法の規定はこの論理で制定されたものです。

一方で「同意のない性的関係を犯罪にすべき」という運動自体には、その保護法益を社会的法益から個人的法益へ変える方向性があったと評価できます。しかし性産業をめぐる問題が合わさったことによって結局社会的法益の精神がインストールされてしまったようにも見えます。

女性たちの懺悔と「産む性」であることの自覚

ではそろそろ、なぜ「二毛作」をするのか、すなわちなぜ「売買春・不倫」を含めた自由恋愛社会における営為そのものを「性暴力・性被害」として捉えるようになったのかについて、深く探っていきましょう。

なおここでは前提として、その女性に「狭義の性被害」すなわち見知らぬ人からの強姦や悪質ホストによる売春の強制などの「他者から見てもあからさまな」性被害の経験は無いと仮定します(そもそもその経験があるなら「二毛作」とは呼べない)。

もちろん理論としてはマルクス主義の頃から長らく密かに構築されていたものではありますが、直接的要因はやはり上の記事で取り上げたように「自由恋愛社会以前のセクシャリティ、つまり一夫一婦制を至上とする価値観のほうがましだった」という感情の高まりがあると考えられます。

ここでポイントになるのが、「ましだった」という表現です。当然ながら、彼女らは旧来のセクシャリティをベストと考えているわけではなく、あくまでもその中で改革・改善できる余地がある、というスタンスです。これは私の言う「草の根フェミニズム」・「下からのフェミニズム」、あるいはわん🐶にゃん😺癒し動画氏の言う「平塚派フェミニズム」のスタンスとして典型的なものです。

とはいえ、それでも旧来のセクシャリティを変えたいという意志が彼女らにはない(と思われる)わけです。この大きな要因は彼女ら自身こそ「産む性であること」を自覚していることが挙げられます。逆に、彼女らに「(旧来の家族観の下で)子供を産み育てたくない」という強い信念があるなら、そのような感情を持つことは稀なのではないかと思われます。

では何によって彼女らは「産む性であること」を自覚するのか。もちろん生理はそれを日常的に意識させる要因の一つでしょうが、より重要な動機として「加齢によって出産能力が低下すること」があると思われます。

もちろん極端には閉経まで「出産能力」はあるわけですが、ここで言っているのは例えば「30代後半を過ぎたら産まれてくる子がダウン症になるリスクが高まる」などの出産に否定的な言説を含めたものです。そうして「出産適齢期」を過ぎてしまった時点で、ある種の後悔の念が出てくるわけです。

その後悔は簡単に、自分の出産を、そして出産後の自分と産まれてきた子を財布としてサポートしてくれるような夫に出会えなかったこと、すなわち「自由恋愛社会の性愛の在り方」及び「男の性欲そのもの」への怒りに変わってしまいます。そうしてやはり「自由恋愛社会以前のセクシャリティにもすぐれた所がある」となるわけです。

ただ、よく似た言説として「女は加齢によってエロティックキャピタル(性的魅力)が失われることでフェミに走るようになる」というものがありますが、これは正確ではないと思われます。性的魅力は先に述べたような狭義の出産能力ほどには低下しません。

その最も分かりやすい反例になっているのが何を隠そう二次元文化界隈です。二次元界隈に携わる女性、特に成人向けコンテンツにも提供している女性声優には、三次元ではかなり性的魅力が低下する(かつ、狭義の出産能力も低下する)とされる30〜40代でも現役の方が多いです。あるいは30〜40代で美少女キャラのコスプレイヤーをやっている方も結構おられます。

ここまでを図で表すとこんな感じです

もちろん彼女らに本物の「性被害経験」があるならば、直接的に純潔思想の回帰を望むことも大いにあり得るでしょう。いずれにせよ、たとえ反フェミ側であっても旧来のセクシャリティが称揚されているならば、尚更それが「ましだった」という彼女らの意志を強めることになるのは、容易に想定できることです。

反フェミニズムに「多様な方向からの批判」があることの重要性

もう一度繰り返しますが、この「二毛作」という現象の根本的原因は、完全に反フェミニズム・フェミニズム批判の側にあります。

非婚少子化・人口減少を抑えるために、女性の地位向上・社会進出を制限して、伝統的性観念・家族観を徹底的に奨励してきた方向性の反フェミニズムが、それ以外の方向性の批判を排除し、反フェミニズムの主流の座を保ち続けたこと、それ自体にあります。

これは長期的に見て、フェミニズム側が彼らの言説を認めてしまえば(あるいは、認めざるを得ない状況になってしまえば)、そこから更に派生する言説に対して何ら対応のしようがなくなるというリスクがあるのです。

上の記事で取り上げたように、現にフェミニズム側でも「生物的・本能的危機感」などというものへの言及や、「女は男ほどの思考能力を持たない生き物である」ことを認めるような言説が増えてきています。このような論立ては一昔前のフェミニズム論議ではタブーとされていたものであり、反フェミ側の男性的理屈として一笑に付されていたものです。

つまり言い換えれば、その掟を知らないほど下の階層からの発信になってしまっている、あるいは彼女らにも「反フェミ側の理屈」を認めたほうが主張を通せるのではないかという打算があるということが窺えます。

だからこそ私は、繰り返し繰り返し訴えてきたわけですよ。これまでの、伝統主義的批判ではもはや通用しないと。伝統主義に依らない、別の方向からの批判こそが重要であると。

私はネットにおける反フェミニズム言論を色々読み込み始めたときからずっと、主流理論・オピニオンリーダーの言説と草の根におけるフェミニズム批判の声なき声との乖離に違和感を持っていました。今でも彼岸では「弱者男性とは、“社会的地位や財力がない”ために“性的パートナーを得られない”または“性欲を満たすことのできない”男性のことである」というレッテルを前提として議論されていますが、これは本を正せば反フェミオピニオンリーダーたちの「弱者男性も女を養う甲斐性を回復させれば万事解決する」という主張を真に受けたものです。

しかし、これも当たり前ですが、弱者男性が抱えていた困難はそんな単純なものではありません。例えば離婚後の親権や養育費の問題にしても、そもそも「女があてがわれなければ」起こり得る問題ではありません(だからこそ、若い世代にとっては「こちらから結婚制度を拒否する」ことが生存戦略になり得る)。

ところが実際に強いバッシングを受けるのも、権利侵害とみなされて凍結されていくのも、こうした主流の伝統主義的批判でない主張をするアカウントばかり。伝統主義的批判のオピニオンリーダー層にも凍結の波が押し寄せるのは、概ね20年代に入ってからのことです。フェミニズム側も伝統主義的批判の主張を、それこそ『1984年』のエマニュエル・ゴールドスタインのような存在として逆説的に必要としていた、そんなふうにも疑えます(もちろん、それが「下からのフェミニズム」が唯一許したフェミニズム批判の方法であったという要因もあるでしょうが)。

このため私の提案・主張は、「フェミニズムへの対抗軸」となる以上に「これまでの反フェミニズムの在り方への対抗軸」となることを常に意識してきました。アンチフェミニズムが本当に「革命思想」であるならば、ヒトラーがレームを倒したように、スターリンがトロツキーを倒したように、内部闘争を勝ち残っていかなければならないのは当たり前のことでしょう。まして片や「革命思想の別の派閥」でもなんでもない、少なくとも旧約聖書のソドムとゴモラの時代から続いている、アンシャンレジームそのものですよ。

もう何度目になるか、数える気にもなれないですけど、今一度、この伝統主義的批判に同調していた、すべてのアンチフェミニストに問います。それでもなお「伝統的性観念・家族観」を支持・奨励するのか、と。少なくともその「一夫一婦制を至上とする価値観」を捨て、その価値観と闘うことを決意できない限り、たとえそれが草津の件みたいな他の目的や陰謀を持った冤罪行為であったとしても、今のフェミニスト達の「性被害の告発」を批判する資格はありませんよ。