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「男社会」を作り上げた女たち

国際男性デーはフェミニズムの間でも徐々に知られるようになってきているらしいですが、やはりマスキュリズムとは異なるアプローチをしているようです。男性差別や男性の不遇を「男の生きづらさ」という言葉で取り上げたうえで、それらの原因はすべて「男社会」にある、という論調で語られています。

もちろん私も、ある程度フェミニズムが「男社会」と呼んでいるものに(なお、我々は基本的にそれを「強者男性」と呼びます)責任があることは認めます。しかし、それらが本当に「男性」だけで作り上げられたものなのかという点には強い疑念を持っています。

久米泰介『これからの戦略と展開』より

ICMI2019でも自分は感じたが、男性差別に関して、社会は確実に変わりつつある。何度も我々は批判を浴びせられた。男性差別などないというフェミニズムだけからではなく、男性差別など訴えても無駄だ、男とは苦労を負わされる性別なんだ、男女のありようは変えられないんだ(女性差別は変えてきたのに?)、などと言う保守派からも。しかしやはり動けば世の中は変わるのだ。男性差別などなくすことはできないんだ、という声は所詮、男性差別を維持したい利益があるか、もしくは単なる諦観と反発だ。
もっと言えば、ICMIでポール・イーラムが強く主張していたように、保守派(性役割保守派)というのはそもそも女性中心主義(ガイノセントリズム)である点ではフェミニズムと変わらず、本質的に女に甘く弱いため、永遠にフェミニズムと本気で戦わない。フェミニズムとジェンダーロール保守派は一見対立しているように見えて、どちらも実は女のことしか考えておらず、男性の人権は一切みないという点では一緒である。
この自分が薄っすら感じていた点を男性権利運動のスピーチで堂々と言われてはっとした。やはりそう考えるのは自分だけでなくそもそもの原理なのだろう。そもそものジェンダーロール保守派(つまり既存の社会)が男性の人権は認めず、ただし女性は保護しようとする女性中心主義であったからこそ、逆説的であるがフェミニズムは早めに出てこれた。女性の人権侵害は許せないとフェミニズムも保守派も感じるからだ。男性の人権侵害(女性の利益との対立によるもの)に関してはフェミニズム及びフェミニズム系リベラルは男性を加害者階級としてみなしているから、認めないし、既存保守派は性役割の名の下に正当化しようとする。社会を維持するために男性は文句を言うな、男らしくあれ、または男女は違うから仕方がないんだと。これらが、男性が受けるダブルスタンダートな社会構造の原因である。
ちなみにマスキュリズムや男性権利運動は、当たり前だが、保守派の男が全ての原因だ、とか男社会が原因だというようなパトリアキー理論には与さない。なぜなら、これらの保守派の男はそもそも性役割の奴隷であり、その性役割によって利益を引き出しそれらの社会構造を作り出してきたのが女だと認識しているからだ。正確に言えば、社会の性役割の内、男に不利益をもたらし女に利益をもたらすものは、だが。
あるいは、我々は「性的消費することを強いられている」存在といえるかもしれません。これは男性の自己省察として言っているのではありません。それを強いているのはあなたたち女性たちなのです。だから、そこに我々は抗議しなければならないのです。

どういうことなのかを、これから話していきたいと思います。

高い地位に追いやられる男たち

最近、こんな小説が話題になっているようです。詳しいことを私は知らないのですが、地方から出稼ぎで上野駅に来て、ホームレスとなった男性の物語だそうです。昭和から平成にかけての、上野駅の情景も細かく描かれていると聞きます。

私も何度か訪れたことがありますが、本当に上野駅公園口というのは弱者男性の中の弱者男性とでもいうべき、底辺男性のたまり場です。東京への夢が破れ、かといって帰る場所もなくなった人。倒産やリストラによって家賃が払えなくなった人。妻に裏切られて自宅を追われた人までいます。

そんな人々を尻目に通り過ぎて行ったのが通勤客、観光客、そして地方へ旅に出ようとする人々でした。その中には、ナイスミディパスを片手に寝台特急の女性専用車両に乗り込もうとする女性客グループも少なくなかったでしょう。また男性の場合は、まかり間違えれば自分もそうなるであろうにもかかわらず、彼らに目を向けることはできませんでした。なぜだったのでしょうか。

その答えは、「敗北しないために、高い地位へ勝ち残るしかなかった」からです。それが男らしさの真髄であることは、間違いようのないことです。しかし、いっとき敗北すれば、妻や家族も含めて、すべての人から切り捨てられ、再挑戦の機会はほとんど与えられなかったのです(特に日本社会はこの傾向が顕著であるといわれます、アメリカだと少なくとも「再挑戦の機会」はそれなりにあるんだそうです)。

先の小説の主人公も、妻を含めた家族を養うために上野へ来たはず。しかしそこで稼げなければ、妻らに切り捨てられる運命にあったのです。

女性はその本能的・遺伝的性質から、弱い男性たちをちゃんとした人間として扱えないと言われています(ちなみに先の小説の著者も女性ですが、逆にこういう例は極めて稀と言えるのです)。だから男は強くなるしかないという消極的な言説が、草の根反フェミニズムの間で渦巻いているわけですが、これを一歩離れた所からあえて述べるなら、男たちは高い地位に追いやられていると言えます。そして男をその地位へ追いやったのは、紛れもなく男たちの妻、すなわち「女」だったのです。

詳しくは後々の記事で話しますが、(特に昭和~平成初期の)日本人女性の結婚観は、この「高い地位への追いやり」に拍車をかけるものでした。彼女らは夫に「自分と同等以上」の収入ではなく「自分の倍以上」の収入を求めてきました。現在でもこういう女性は婚活市場でよく見られます。

MGTOWは何を訴えているのか

繰り返しますが、反フェミニズムの間の「結局男は強くなるしかない言説」は、非常に消極的に言い出されているものです。そしてそれは、「自分が女にモテたいか否か」で意味合いが大きく違うことにも注意しなければなりません。

もし女にモテたいのなら、言うまでもないことですが、他の「女にモテたい男」を何らかの形で蹴落として、女に対して自分の甲斐性を示すしかないです。しかしそれは久米氏の言う「ジェンダー保守派」の軍門に、ひいては「男性フェミニズム(ガイノセントリズム)」の軍門に下るということをも意味します。これでは結局男性の権利獲得という方向性は捨て去らなければなりません。

一方で女にモテたくない側ではどうでしょうか。

また、twitterの有名反フェミアカウントをフォローすれば定期的に流れてくる定説があるが、女性は自分より弱い男性を包摂しない性質がある。一応「ヒモ男性」というのも存在するが、彼らは経済的に女性へ依存している一方、女性の好感情を引き出し精神的に上位に立っている強者なのである。つまりヒモ男性は女性にとって弱者ではないのだ。誤解されないよう。
また更に悪いことに、女性は弱者男性を排除する特性も持ち合わせている。包摂しない特性も合わせてこれらは自らが弱い男の遺伝子を避け、強い男を獲得しやすくする「遺伝子の乗り物」としての特性である。以上の事から男性が弱者であることは重篤なリスクなのだ。元々MGTOWは女性をリスクとして回避しているのだから、同様のリスクとして己の弱者性を捨てる必要がある。回避した先で今度は排除を受けるのは真っ平御免なのだ。

彼の言う「己の弱者性を捨てる」とはどういうことを指しているのでしょうか。まあ私も完全に理解しているわけではないのですが、「男にたかろう、依存しようとする女を避けるように、女に依存してはいけない、依存する必要がないほどの強さを持たなければならない」というのが近いものと思われます。

(彼らの妻という形で、女が密かに操っている)強者男性社会においては、恋愛・結婚奨励主義という強いプロパガンダがあります。そこへ対抗することは、マスキュリズム的に重要な意義を持っているというわけです。