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なぜ木を植えるのか

セックスしたくない話を書いた。

そしてもうかれこれ1年はノーセックスなライフを過ごしている。

わざわざ女王さましただけあり、この効果は絶大で、たしかに大きなストレスから解放された。
しかしそれで諸々問題が解決しましたかというと、そうは問屋が卸さなかった。

セックスから逃れることができたが、
自分が依然として女であることはなんら変わりないから。

毎月生理が来るたびに、このしんどさは子どもを産まないと回収できないのでは、という気持ちになる。
私はかけがえない時間と己の若い肉体から、妊娠できるチャンスを奪っている。

大学生の頃の私にとっての生理は、
避妊に成功したことを告げてくれる何よりめでたいものであった。
生理が来ると安心したし、少しでも遅れたら万が一妊娠していたらどうしようとノイローゼ気味になったもんだ。
25歳の私にとっての生理は、私がどんな理由でセックスしたくなかろうが、
自分は子どもが孕れる性であることを、肉体のほうは既に、とっくに準備が整っていることを思い起こさせる、突きつけられる、そんな期間になった。

別に一生独身で一人でもいい。私には好きな人がたくさんいるのでそんなことはちっともこわくも寂しいことでもない。

でも、自分の股からでた血を見ていると、
私の思考を無視して身体は備え付けられた生命活動をせっせと営んでいて、
なんか、むなしくなる。

生理前はメンタルがガタガタになって、やたらとクヨクヨし、仕事に向かう車の中で半泣きになりながら一日のことを考えて絶望し、狂ったように過食して、腰が痛くて寝付けなくなって、
耐えに耐えると「せっかく準備した子宮内膜が全部むだになりましたぁ〜〜」とばかりに毎月、毎月わざわざ身体が私に訴えてくる。

なんだ、この時間は。
この件、あと何回やらなあかんねん


これにはきっといろんな方法で対処できる。
生理痛・月経前症候群(PMS)の緩和のためにピルを飲むのもありだし、ミレーナを装着するといった手もある。
しかし、私は自分におこる生理現象を科学の力で食い止めることに非常に抵抗があるため、その手段を使いたいと思わない。

そんな私がこの状態でなんとか正気を保っているのは、
私には、木を植える、ことがあるからだ。

私は林業の現場作業員が生業である。
林業の分野でも木を切るほうではなく、植えるほうが私の専門だ。

木を植える楽しさはいくつかある。
一年目のころは自分の通った等高線上に植えた苗を振り返って、風にぴょんぴょん苗木が揺れているのを眺めるのが愉快な気持ちになって好きだった。

私が植えた木が、50年や60年経つと誰かに見上げられるくらい大きくなる、
その木はいつか形を変えて人の手に届く、と考えると想像力を掻き立てられてなんだかいいな、とも思った。

今は私が死んでも、私の植えた木は生き続けることに救われている。

人間の死亡率は100%だ。
私どころか誰一人例外なく人は必ずいつか死ぬ。

私は身体の付随機能をシカトし続け生涯子どもを産まないかもしれない。
私が書いたエッセーも一生日の目を浴びることはないかもしれない。
私から生み出せるものなど何もないかも。
では凡人の私は、この世に、何が残せるのか。

木は残せる

「林業の作業員をしています」というと森ガールだとか林業女子だとかいって自然好きのいい子ちゃんだと思われることがある。
なんも知らんくせにこれはただの役得やなと思いながら、そうではない事実と照らし合わせて嘘をついているかのような、申し訳ない気持ちになることもある。

たしかに林業は、というより山や自然に関わる仕事は、
自然のため、環境のため、もっというと、オゾン層の破壊を食い止めたいとか、空気中の酸素を増やすだとか、地球規模の話に繋げることがいくらでもできる。

いくらでも主語は大きくできるが、私にとっては、全部自分のためだ。
はっきりいってそれでしかない。
私のためを守れないやつが、一体誰のために何ができるというのだ。
私の欲望すら発散も解消もできないやつが、どこの誰のために生きれるというのだ。

私が低脳な役立たずでも、植えた木は違う。
私が女に生まれた意味などもはや皆無だが、植えた木は違う。

地面に植えて、根っこがはって、成長して、時間が経ったら植えた人のことなど誰も知らないし考えない。

誰が植えてたって、一本一本の木がちゃんと木として育つことができる(木のポテンシャル的な意味で)

そう思うと救われた。

私が何者でなくとも、木が向こう何十年か先に役に立ってくれるならそれでいい。

子どもは産めないかもしれないけど、
木だって人間とは違う時間軸のとてつもなく長い未来をもつすてきな存在だ。

それに再三書いているが、自分が死んでも生き続ける生き物を、地面に植えるのは、とても楽しいことなのだ。


私にとって木を植えるのは仕事あるので、
植樹祭のようにいちいち一本一本に思いを込めてというふうにはいかないが、
作業する心持ちとして非常に個人的な切なる想いがあるのも事実だ。

後世に何かを残したいと思うのは、肥大化した私の自己顕示欲や叶ったところで大したこともない自己実現願望のせいだけではなく、
妊娠・出産という役目を担った女の身体で生きる、本能的な、体の奥底から突き上がってくる欲望由来のエネルギーな気もしている。

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