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ロックンロールオリンピックとBOOWYと氷室京介と〔後編〕

先に〔前編〕からお読み下さい。


【第7回 R&Rオリンピック(1987年)】

- ①イベントデータ -

〔Rock’n’roll Olympic’87〕
宮城県スポーツランドSUGO SP広場
1987年8月9日(日)
開演 9:00
終演 22:30
(※1 P1)

(注)イベント終了後に掲載されたデータであるが、「Easy On」1987年8月号に記載されていた予定時刻は、開場 9:00、開演 10:00、終演 20:30であり、事前告知より1時間も早く開始する(開場予定と同時刻)は考えにくいこと、終演が予定より2時間も遅くなっていることから、この時刻が正しいか疑問が残る。

〔出演バンド(出演順)〕
KATTE
BLACK MOON
NEVER
リアクション
ローグ
アンジー
パーソンズ
ブルーハーツ
ザ・ロックバンド
レッド・ウォーリア-ズ
エコーズ
ナーキ&トマトス
竹田和夫&ボーイズオンロックス
じゃがたら
シーナ&ロケッツ
ARB
BOOWY

(注)出演予定だったウィラーズは欠場。
(※1  P2-17)

後に氷室氏のサポートメンバーとなった西山氏が在籍するROGUEと、本田氏が在籍するPERSONZも登場しているところに、不思議なを感じる。

- ②シークレット出演 -

1987年、BOOWYは三度目の出場を果たした。
昨夏の出演後にリリースされた5thアルバム「BEAT EMOTION」で初のチャート1位を獲得するなど、BOOWYは大ブレイク。87年のロクオリ前には、押しも押されもせぬ大バンドに化けていた。
当然、全国各地のフェス・イベントからのオファーが殺到したであろうことは想像に難くない。

ロックンロールオリンピックは、当時、東北有数のロックフェスだったとはいえ、過去にBOOWYが参加した際の動員は、第5回が4,800名、第6回は5,000名。(公式による発表)
今で言うと、東京国際フォーラムAホールの最大座席数(5,012席)とほぼ同じだと言えばわかりやすいだろうか。LAST GIGSが行われた東京ドームのキャパ(約55,000名)の10分の1以下

前出の『日記』でも、前年のステージの異様な盛り上がりを観た斎藤氏が「もう来年はこれないな」と思ったことが述べられているが、今をときめくバンドが他のオファーを差し置いてまで出場するイベントかというと、確かに首をかしげざるを得ない。もっと旨味のあるイベントや仕事があれば、そちらを優先するだろうな、と。
しかしながら、1987年の夏、彼らはロクオリに出場した。

第7回ロクオリは、それまでのロクオリと大きく異なる点が一つある。
それは、出場バンドが3回に分けて段階的に発表されたこと。
今では決して珍しくない手法だが、BOOWYが出場した1985年、1986年のいずれも、主催のフライングハウスが発行する「Easy On」6月号で特集が組まれ、一度で全出場バンドの発表がなされていた。
しかしながら、1987年6月号で発表されたのは、たったの4バンド(地元仙台のアマバンを除く)。
「RED WARRIORS」「THE BLUE HEARTS」「REACTION」「ECHOES」のみであった。

その理由について、「Easy On」誌上では、こう説明している。

〔R&R Olympic ‘87出場決定バンド特集(第1弾)〕
今年から、フライングの人選を信じてもらった上で(過去6回の人選、みんなを楽しませこそすれ、失望させたことはなかったよね。今年もそれは絶対!!約束します)。で、僕らの10年目の浪漫を実現させるために、今年から徐々にシークレットバンド(名前を出さないバンド)を入れていきたいのです。これ、当日までスリリングだと思いません?(意見を聞かせて下さい。)
(※2)

他方、前出の「日記」では「別の理由」が述べられている。
既に大きすぎる存在になっていたBOOWYには多くの野外イベントからオファーがあった。しかしながら、自分たちの活動に集中したいと、その多くを断っていた。それにもかかわらず、ロクオリだけは「3年出る」と約束したから出る、と。そんな特別扱いは全国のイベンターや同業者から反感を買いかねなかったため、悩んだ末に、BOOWYの出演をシークレット扱いにした、とのことだ。

実際には、シークレット・バンドを複数設け、「Easy On」7月号の第2弾発表ではさらに7バンド、8月号の第3弾発表では残り4バンド中3バンドの出場決定を発表。最後の一つのみ、「当日(8月9日)までやっぱりSECRET!」とされていた。オフィシャルプログラムとされた9月号でも「BIG SECRET BAND」と記載され、(※3)当日まで完全シークレット扱いとなっていた。(とは言え、ある程度「噂」として囁かれていただろうが。)
その最後の「BIG SECRET BAND」が「BOOWY」である。

前2回の出場の際は、イベント開催に先駆けて“東北の誇り”高橋まこと氏が「Easy On」誌上に度々登場するとともに、BOOWYメンバーへのインタビューが行われ、企画を盛り上げていた。
だが第6回の出場以降は、1986年12月号に「作詞家・高橋まこと(BOOWY)のデビューインタビュー」と称して、「BEAT EMOTION」のアルバムインタビューが掲載されたのを最後に、これまで行われていたようなインタビューやちょっとした裏話の紹介などはない
「歴史を作ったオリンピック名場面」というこれまでのおさらい企画で、1986年のステージが紹介された程度。

完全シークレット扱いだったので仕方がない、とは思うものの、当時のBOOWYを取り巻く状況に思いを巡らせると、なんとも切なくなってしまう。

当時のBOOWYは、アルバムチャート1位を獲得し、表面上は華やかに見えていたものの、その裏側では布袋氏が解散(または自身の脱退)をメンバーに突き付け、すぐにはその願いが叶えられないとみるや、妻の山下氏のツアーに氷室氏以外のメンバー全員を引き連れて参加しようと画策し、結果、解散の決断が下されるなど、バンドを取り巻く実情はなかなかハードなものだった。
1987年のBOOWYは、来たるべきその時に向け、解散を暗示させるようなヒントをその活動の中に散りばめている。それらを受けて、BOOWYが解散するというがファンやマスコミの間で囁かれるようにもなっていた。

『BEAT EMOTION』(1986年11月発売)の後ぐらいからは、メンバーがしゃべったかのように、マネージャーの土屋氏がインタビューを書いていたこともあるという話や(※4)、「BOOWYの解散が揺るぎない事実となって以降、氷室と布袋は互いに言いたいことがある時には、すべてマネージャーの土屋を通して伝えるようになってしまった」という高橋氏の証言(※5  P145)などもあり、そういった諸々も合わせて考えせると、ステージ外を積極的にはオープンにできない状態だったのかな、と勘ぐってしまう。
解散の噂が飛び交っていたのであれば、当然メンバーの一挙一動に注目が集まる。動静をオープンにしすぎず、ある程度情報をコントロールしないと、ちょっとしたことでも色眼鏡で見られ、勝手な憶測が生まれかねないから。

実際のところ、1987年にもツアーの密着レポートや打ち上げの様子などが音楽雑誌に掲載されており、(それらが土屋氏の創作でなければ)完全にNGではなかったのだろうが、この頃の記事は1985~1986年頃のものとは読んで受ける印象が全然違う。
何と表現したらいいのだろうか、以前は密着レポートなどでも4人の言葉の端々に、私が思う「ああ、これが『バンド』だよね」というような雰囲気を感じられるのだが、1987年頃は「見せてもいいもの」を厳選して掲載されているようで……。ステージそのものは(みんな別のところを見ている感じがするとはいえ)、格好いいけれど、ね。
勿論、無茶苦茶忙しくて全て今までとは同じにはいかないという事情もあるだろうけれども。
このロクオリでも打ち上げでのメンバーの様子の報告やメンバーによるライブの振り返り・感想などが見当たらないのは少々寂しい

- ③本番 -

感傷的な話はここまでとして。
第7回R&RオリンピックにおけるBOOWYの出番は一番最後
11番目→トリ前→トリと、3年掛けて上り詰めた。

いよいよラストのシークレットバンドだ。“誰が来るんだ?”ポーキーが登場、早口の英語でしゃべっていき、”B・O・O・W・Y、BOOWY!!“とシャウト。その瞬間、SP広場が何千人もの声で包まれた。まこっちゃん、松井、布袋、そしてヒムロックが出てきた。まさに最高潮!!
(※1 P17)

この登場部分は、GIGS BOXにも収録されているが、ポーキー氏の早口の英語部分、私のヒアリング能力では何を仰っているのか全くわかりませぬ。(苦笑)
ステージの様子とオーディエンスの熱狂ぶりは、GIGS BOXの映像でご確認いただければ。そして御自分なりの感じ方をしていただければ、

「Easy On」1987年10月号の「R&R Oympic ’87 夢の砦 完全ドキュメント」にも、1ページ使ってBOOWYのレポが掲載されているが、情報量はさほど多くない
前出の『日記』に書いてあったような「3回出ると斎藤氏と約束したから出る」という明確な表現は見つからなかった。
だが、マネージャーであった土屋氏が、雑誌媒体の話であるけれども、「売れない時代に編集者がBOOWYを気に入って、金にならないのに最大限紙面を割いてくれた雑誌を売れた時に最優先した」と話していたこともあり(※6)、「約束を果たすため」という出演理由は、非常に“BOOWYらしい”と思う。
主催者側も、BOOWYがビッグになっても戻ってきてくれたことに対して、喜び感謝を綴っていた。

どんなに人気が上がってもちゃんとSUGOに戻ってきてくれた。オリンピックは出ていく所でもあり、帰ってくる場所でもあるんだ
(※1 P17)

そうしてBOOWYは、その年のクリスマスイブに解散を宣言し、終焉を迎えた。

【第10回R&Rオリンピック(1990年)】

- ①イベントデータ -

〔Rock’n’roll Olympic ’90〕
宮城県スポーツランドSUGO SP広場
1986年8月12日(日)
8:00 ゲート開門 
9:50 開演
(※7 P1)

〔出演バンド(出演順)〕
9:50  LEGEND ・ THE WALRUS
10:35  グレイトリッチーズ
11:05  GEN
11:35  メスカリンドライブ ・ NEW ROTEeKA
12:50  MOJO CLUB
13:30  De-LAX
14:15  NEWEST MODEL
15:00  シーナ&ロケッツ
15:45  ボ・ガンボス
16:55  J(S)W
17:55  SP≒EED
18:55  RCサクセション
20:00  FINALE
(※8 P2-19)

- ②出場バンドについて -

1990年のロックンロールオリンピックは、記念すべき10回目
この年の目玉は、何と言ってもRCサクセション。第1回目に出場した彼らが、10回目の節目の年に再び戻ってきた。

この年のラインナップは、たった一つを除いて、事前に全て発表されていた。
全12バンド(アマバン除く)中、当日までシークレットとされていたバンド、それがSP≒EEDである。
SP≒EEDは、前年の「"NEO FASCIO"TOUR」から氷室氏のバックを務めていたメンバーで構成されたバンド、すなわち氷室京介のバンドだ。

- ③De-LAX(高橋まこと) -

なお、この年は、同じく元BOOWYの高橋氏が解散後に加入したバンド、De-LAXも出場している。(こちらはシークレットではない。)

De-LAXの出番は、全14バンド(アマバン含む)中8番目。プロ・バンドでは12バンド中6番手の登場。
暑かったのか、ボーカルの宙也氏は上半身裸(胸に“GOD”の文字が踊る)で、「ISOLATION」「GLOBAL STREET」「WORLD'S END -世界の果て-」と、7月25日に発売したばかりのニューアルバム「KINGDOM」からのナンバーを飛ばした。
「Hey!Hey!東北が生んだスーパースター、高橋まこと!」との宙也氏のMCでも会場を沸かし、最後は高橋氏が花道へ走り出て、スティックを大量にばらまくなどサービス満載で、大いに会場を盛り上げていたという。
(※9 P50-52)

第10回ロクオリ開催に先駆け、上越市でドラム・クリニック中の高橋氏に近況を聞いたインタビューでは、出場への意気込みをこう語っていた。

- なる程。さて、そのアルバムを引っ下げ、まこっちゃんにとっては久々のオリンピック出場ですが――。
M そうなんですよ(と嬉しそう)。'85、’86、’87とBOOWYで出て、'88年にはもうDe-LAXやってたんだけど、その時、'88年のオリンピックの時には名古屋のイベントに出てましてね。で、楽屋でテレビ見てたら衛星でオリンピックを生中継してて、ボ・ガンボスとか観たのかな、やっぱり燃えるよね。で良さん(編注・フライングハウス社長。まこっちゃんのアマチュア時代からの良き相談相手)に「早く出してよ」ってお願いしてたんだけど、マ、’90年代の幕明けに出さしてもらうことになって、非常にヨロシイのではないかと……。そして10周年おめでとう、と言いたいですね。
(※7 P4-5)

BOOWY初登場の時と同様に、高橋氏が斎藤氏へDe-LAXの出場を打診していた模様。
また公式も、新たなバンドを引き連れて、再びロクオリに戻ってきてくれた高橋氏に対して、感謝の意を表明している。

「ここは相変わらず気持ちいいネ。全然変わらないよネ。だからいい。変わらないからいいんだよね」――帰ってきてくれた事、新バンドで素晴らしいステージを演ってくれた事に感謝
(※8  P7)

- ④SP≒EED(氷室京介) -

氷室氏のバンド“SP≒EED”の出番はトリ前。
前述の通り、SP≒EEDはシークレット・ゲスト。事前告知には、11のバンドが並び、最後に「・・・・・・・」「これだけじゃ終わらない!」とされていたバンドだ。(※7 P1)

とはいえ、こういった情報はどこからともなく漏れるもの。
「会場は、“ヒムロックが出るってとっくに知ってるもんね“派と”えっ!? なに誰が出るわけ!?“派の両方がいる模様」というレポもあった。(※9 P54)

アナウンスに続き、まずはバンドメンバーがステージに登場。続いて氷室氏が登場すると場内は大歓声に包まれた。
「R&R Olympic ’90 完全報告」では、SP≒EEDの出演は「5:55PM~」とされているが、「PM6時過ぎ」に登場との情報(※9 P52-54)もある。いずれにせよ、18時前後の登場だったのだろう。

夕陽が差す中、ステージに登場した氷室氏は、通常のライブの時のような表情――極限まで自分を追いつめたかのような張り詰めたものではなかった。いつもよりややリラックスしたような表情と口調で「遊びに来たぞ!騒ごうか!」と観客に呼びかけ、次いで「ALL RIGHT!! ANGEL!」と曲名をコール。
そして演奏が始まった。

曲目は、
「ANGEL」
「TO THE HIGHWAY」
「STRANGER」
「LOVER’S DAY」
「ROXY」
「GIRL U WANT」
「SEX & CLASH & ROCK’N’ROLL」
「TASTE OF MONEY」
「SUMMER GAME」
(※10)

BOOWYのセルフカヴァー1曲、ディーヴォのカヴァー1曲を含む全9曲を披露し、夕闇迫る中、SP≒EEDはステージを去って行った。
次いで登場したのは、RCサクセション。イベントの最後を飾ったこのバンドがフィナーレに演奏したのが、10年前の第1回と同じ「雨上がりの夜空に」であった。
奇しくも、氷室氏がBOOWY結成を決意したライブがこのバンド初の日比谷野音で。この日比谷野音の半年ほど前にリリースされた、当時の新曲がこの「雨上がりの夜空に」で。
こういったちょっとしたところにも、ファンは感慨深くなるもの。

- ⑤10回目の約束 -

さて、前出の『日記』に書かれている「BOOWY秘話のオマケ」の話である。
BOOWYは一番最初に「どうせなら10回目も出して」と言った。
しかしながら、10回目を待たずしてBOOWYは解散。10回目の時にはBOOWYはもうどこにも存在していなかった
だが、1990年の正月明けの仕事始めの日に、斎藤氏の自宅へ元BOOWYのマネージャーから電話がかかってきたという。
「BOOWYは解散したので出られないが、氷室京介を出してくれないか」と。

当時の氷室氏は、1988年7月にソロデビュー。デビューシングル「ANGEL」は4週連続チャート1位を獲得した。ファーストソロアルバム「Flowers for Algernon」でも1位を獲得し、同アルバムでは第30回日本レコード大賞・アルバム大賞を受賞していた。(氷室氏は、ソロデビュー以降7作連続アルバム首位という男性ソロアーティスト記録保持者でもある。この他にも地味に凄い記録を幾つもお持ちだが、何せ露出が少ないため、世間にあまり知られていない。)
1989年に出したセカンド・アルバム「NEO FASCIO」でも1位を獲得し、早々に東京ドーム公演も成功させていた。そんなミュージシャンは、呼ぼうと思ってもなかなか呼べるものではない。なのに向こうからわざわざ「出してくれないか」と言ってきた。
「10回目に出る」という昔の口約束を守るために。
「氷室の90年最初の仕事は『ロクオリ』を入れたいんです」と言って。
しかもノーギャラで。

イイハナシダナー

このエピソードを前出の『日記』で知った時、感動したのは勿論だが、どうしてこんな素敵なエピソードが伝わっていないのか!とほんの少しだけ憤りめいた気持ちを覚えた。
……のだけれども、この『日記』をきっかけに、ロックンロールオリンピックとBOOWYと氷室京介の関わりについて、興味の赴くままに調べていた時のこと。

「Easy On」1990年10月号の「Rock’n’Roll OLYMPIC ’90 完全報告」の中に、SP≒EEDのライブレポを見つけた。

SP≒EED
10回目のオリンピックは、絶対出して下さい』―― 5年前、頂点に登りつめる直前。当社ボスとヒムロックの口約束だった。今年に入ってすぐ、事務所からTel。『今年のスケジュールは白紙状態、オリンピックを最初に入れたい』と…。ヒムロックはどんなにビッグになってもオリンピックを忘れていない。花道に飛び出た直後、『遊びに来たぜ!』。おかえり、ヒムロック。やはり彼はオリンピックの生んだヒーローだ!
(※8 P16)

『日記』の「BOOWY秘話のオマケ」の内容と完全一致
はい。スミマセン。
ちゃんと報告されていました。私が無知だっただけです。

でもこの話、もっと宣伝・拡散してもいいのになあ……。と、この時思った。氷室氏のファンクラブの会報ですら、そんなことは一言も触れていない。他の音楽雑誌では言わずもがな。
東北限定の音楽情報誌(一体発行部数はどのくらいなのだろう?)でひっそり報じられていただけでは、そりゃあ「秘話」にもなりますわ。
これが他のメンバーなら「美談」として嬉々としてプロモーションに利用するだろうし、何なら氷室氏が言ったこと・やったことであっても、それが世間から賞賛されることであると見るや、あたかも自分が言ったこと・やったことであるかのように吹聴し、いつのまにか自分の功績にしてしまう元メンバーだっているのに……。
ただ、そうやって敢えて自ら喧伝しないのが氷室氏側のスタンスであり、それが氷室氏自身のみならず、BOOWYの格好良さに繋がっているとも思うので、文句は言えないけれど。(と言いながら言っている(笑)。)

とはいえ、これで『日記』の裏も取れたと、自分の中では気が済んで、ロックンロールオリンピックと氷室氏との関わり合いについて調べるのはやめていた。

- ⑥永井氏の自叙伝 -

再びこの話を思い出したのは、2017年に出版された「ドラマー永井利光自叙伝『夢の途中に』」を読んでいた時のこと。
永井氏は、氷室氏のソロ初期のビートを支えていたドラマー。この自叙伝でも、多くのエピソードを交えながら氷室氏への想いが綴られている。
その中に、こんな一文があった。

氷室さんがソロになってから東北のイベント『ロックンロール・オリンピック』に参加したときだと思うんですけど、そのときに『氷室京介では出たくない』って言い出して。出たくないというか、バンド名でやりたいからバンド名を考えろって言われて。“SP≒EED”と俺が名付けたんです。SPには氷室さんを守るっていう意味があって。しかもメンバー全員スピード狂だったから、スペードじゃなくて、スピード。確かSP≒EEDでは日比谷の野音でもやってますね。
(※11)

何てことのない一文だ。この「10回目の約束」を知らなければ。
氷室氏は91年に出したサード・アルバム「Higher Self」でバンドサウンド回帰している。そのとなったのが、このSP≒EED。
前年のツアーの途中で受けたインタビューにおいて、氷室氏は「メンバーとの間にすごくいいバイブレーションを感じてる」「やりながらみんなとの連帯感みたいなものをとっても感じている」と、サポートメンバーへの想いを語っていた。そんな信頼関係が構築できたメンバーで固定し、さらに「バンド名」を名付けることで、それぞれ寄せ集めのサポートメンバーとしてではなく、バンド――対等な共同制作者のように扱い、それが次のアルバムに繋がっていったのだと思えば、何ら不思議に思う話ではない。

だけどこれは、『ロックンロールオリンピック』への参加に際しての氷室氏の発言だという。

彼は言ったのか。
BOOWYで「10回目も必ず」と約束したイベントに。
自ら「氷室京介を出してくれないか」と言ったけれども。
それでも、ソロ名義では出たくないと。
あの時約束したバンド――BOOWYはもうないから。
今、自分を支えてくれているメンバーと一緒に。
バンド名義でで出たいと。

彼は、バンドで、ロクオリに、出たかったのか。

永井氏の自叙伝で「SP≒EEDでは日比谷の野音でもやってますね」と言っているように、実際のところ、SP≒EED名義で出たのは第10回ロクオリが最初ではない。少なくとも、7月7日の「GOLDEN AGE OF ROCK’N’ROLL(ロックンロール黄金狂時代)」から始まる90年夏のイベントツアーは、全てSP≒EED名義での出演だ。SP≒EEDのメンバーも前年のツアーからのメンバーで、ロクオリを機にメンバーが集められたわけではない。
だからといって、ロクオリに参加するにあたってバンド名を付けたというのは永井氏の勘違いだと即断するのは些か早計に過ぎる。

まず、SP≒EEDがいつ結成されたのかだが、前述の通り、バンドメンバー自体は前年(1989年)から始まったツアーメンバーと同じだ。
残念ながら私は所詮後追い。当時の状況なぞ知る由もない。ならば、リアルタイムではどのような情報が流れていたかを調べるため、当時の資料にもう一度目を通してみた。しかしながら、私が所持する当時の文献をいくらひっくり返してみても、1989年時点では「SP≒EED」なんて名前は見つからない
では、このバンド名はいつから使われているのか。

当時の雑誌等々で「SP≒EED」の名が出てくるのは、概ね1990年春以降のこと。
ファンクラブの会報を例に挙げると、1989年冬号(恐らく1989年12月頃発行)では、単に「バンドのメンバー」としか呼ばれていなかったのが、1990年春号(多分1990年4月~5月頃発行)では、「SP≒EEDのメンバー」「SP≒EEDと名付けられたバンド」に変わっている。
であれば、「SP≒EED」と名付けられたのは、1989年末から1990年始めの間なのではないか。

マネージャーから「氷室京介を出してくれないか」という電話があったのは、「1990年の正月明けの仕事始めの日」で、「氷室の90年最初の仕事は『ロクオリ』を入れたい」と言われた、と斎藤氏が話していたとのことだ。
年明け早々、まず他のイベントに先駆けてロクオリへの出演が決定し、それからすぐに氷室氏が永井氏へバンドの名付けを依頼して、そこから(年始明けのNEO FASCIO TOUR公演か、追加公演であるNEO FASCIO ENCORE TOUR ARENA ' 90か、或いは夏のイベントツアーから)この名称を使い始めたということであれば、時系列的におかしなところはない。

なので、氷室氏が“ああ”言ったのは第10回ロクオリ出演にあたってであるというのは、永井氏の記憶違いではないと私は考えている。

永井氏の自叙伝のこのくだりを読んだ時、私が真っ先に脳裏に浮かんだのは、高橋氏の書いた「スネア」の中のこの一節。

毎回、ライブの最後に「愛してるぜ、また会おう」と言い続けなくてはならない氷室の苦悩は、間近で見ていて痛いほどよく判った。「俺はまたをついた、もうやってらんねぇ」「でもBOOWYを待っていてくれるファンの前で解散を口にすることはできない」という狭間で何度も揺れ動いていた氷室の葛藤、その頃本人からよく聞いていた。俺も凄く悩んだ。氷室からそうやって吐露されることが何より一番堪えた。返す言葉が、いくら探しても出てこなかった――。
ホテルに戻った後、土屋の部屋にも氷室から頻繁に電話がかかってきたと聞く。「『解散します』って言わなくてもいいのか?」と氷室から訊かれたらしい。そのたびに土屋は「でもそれはみんなで決めたことだから…」と苦渋の思いで答えていたという。(※5 P156)

マネージャーの土屋氏(=音楽ライターの紺待人氏)御本人も「氷室も苦痛だったと思うよ。(中略)“ようこそ”つって、“また来るぜー!!”ってステージで言って、ほんとうのことは別のところにあるのに……」と話していたことがある。(※12)

多分、氷室氏は、もうこれ以上を付きたくなかったのではないかなぁ……。(あくまでも私の解釈だが。)
不遇時代のBOOWYを目に掛けてくれたという恩義に報いるため、というのは勿論大前提。でも、それだけなら「氷室京介」でいいはず。「氷室京介」をブッキングするなんて容易いことではないのだから、十二分な恩返しとなる。だけど彼は、バンドでの出演を望んだ。

ロックンロールオリンピックは、ソロで出演したミュージシャンがいないわけではないが、何と言ってもメインはバンド。だからバンドで出ることを望んだというのも多少はあるかもしれない。だが、その想いがメインなら「氷室京介では出たくない」なんて言わないのではないか。その場合は「氷室京介」よりはバンドの方がベターという意味でしかない。単に「バンドメインのイベントなのでバンドとして出よう」と言えば済む話だ。

BOOWY末期、もう二度とバンドでは来ることができないのに「また来る」と嘘を付き続けなければならなかったことがずっとに引っかかっていて。どんなにが苦しくても、スポーツ紙にプロデューサーの糟谷氏による解散匂わせ記事が載ってファンが騒然となっても、ファンと実際に対峙する氷室氏自身は「みんなで決めたこと」だから、最後の日まで嘘を付き通すしかなくて。それが解散によって氷室氏が背負った、背負わされた重い鎧の一つでもあって。だから「10回目も出る」という約束を守りたかった。約束を「嘘」にしたくなかった。約束したのはバンドとしてだけれども、BOOWYで「また来る」ことはできないから、せめて自分のバンドで、と考えたのだと思っている。

とは言っても、あくまでもBOOWYで果たせなかった約束の、その代わりとしての氷室京介のバンドの出演であって、BOOWYに成り代わってとは全く思っていなかったのではないかなぁ、きっと。氷室氏も土屋氏も。
もしもそんな下心が少しでもあったら、この話をもっと「美談」として触れ回るだろうし、同じイベントに(De-LAXとして)出演している高橋氏をゲストとしてステージに上げたと思うので。
そういう意味では、ただの自己満足だとの謗りを受けるのかもしれない。それでも、かつてBOOWYであった者のけじめとして、あくまでも自分で責任の取れる範囲BOOWYの後始末を付けた。

出演経緯を殊更喧伝せずにSP≒EEDとして出演したのは、前ツアーで確かな絆を感じられたサポートメンバー、それも「氷室さんを守るっていう意味」も込めてバンド名を名付けるほど自分に心を尽くしてくれた「今自分を支えてくれるメンバー」への敬愛と信頼に加え、BOOWYは「あの4人で作りあげ、あの時にしか存在し得ないもの」という想いが込められているのではないか、と。

まぁ、勝手な私の想像ですがね!

氷室氏御本人はこのことについて何も語っていない。本当にこういうことは何ひとつ話さない
事実は、「氷室京介がバンド名義で第10回ロクオリにシークレット出演した」ことのみ。あとは関係者の証言だけ。

私たちに出来るのは、彼の残した音楽言葉の欠片事実の破片、そういったものを幾通りも組み合わせて「こうであったのではないか」と想像を巡らせるだけ。それが正しいのか正しくないのかは、氷室氏のみぞ知る。でも、恐らくその真意について彼が今後も明かすことはないのだろうな、と思う。

だから、私の推測はもしかしたら全くの的外れなのかもしれない。それでも私は、氷室氏がそういう人だと思っている。だから、今でも新作を待っていられるわけで。

こんな場末のニッチな駄文をわざわざお読みいただいている方ならご承知だと思うが、「KYOSUKE HIMURO LAST GIGS」の最終日において、氷室氏は「ゆっくりアルバムでも作って……まぁ俺の場合もともとゆっくりだから、これ以上ゆっくりだとほとんど引退に近いんだけど」と冗談を交えつつ、「60くらいになったらアルバムでも出すか」と話した。

あの日から今年で7年。彼が還暦を迎えた2020年パンデミックの真っ只中。同年に大阪で開催された氷室京介展で、2月頃まで作曲に取り組んでいたものの、COVID-19の影響で製作が中断したことが明らかにされていた。
とはいえ、あれから3年。現時点では続報がない。まぁ、「制作を続けている」みたいなのはあったけれとも、御大の場合、時間的な制約がなければそれこそ延々と(永遠に?)制作を続けているタイプですから(苦笑)。そういう意味ではあまり当てにはならないというか。

パンデミックのせいで還暦という最高のタイミングでのリリースがポシャった以上、いつ出るかはわからない。けど、制作は続けているのだろうと信じられる、氷室氏風に言うのであれば「信じたい」から、今でも待っていられる。

結果的に「60くらいになったら」が守られてはいないが、ぶっちゃけると、私が東京ドームでこの言葉を耳にした時、一気にテンションがあがりつつも、「でもあの氷室京介だぞ?完成直前でほぼ全部没にした前歴もあるぞ?本当に還暦に出るのか?!」と疑う冷静な自分もいたので(苦笑)。それに「60くらいになったらアルバムでも出すか」で「60になったらアルバムを出します」ではないことにも気付いてしまっていた。
その時点で、1~2年は誤差の範囲だろうと捉えていたので、ある意味今の状況は予想どおりといえるのかもしれない。

こんな予想当たってほしくなかったー!

かといって、期限を守るために不本意なものを出す御方でもないし。逆にそういう人だったら、ファンの方も多分待っていない
待ち時間は長いけれど待ち続けた甲斐がある新作をずっと出し続けてくれた。何やかんや言っても最新作が一番格好いいし、すごく攻めている。年齢に似つかわしくない、それでいてあれだけのキャリアを重ねないと絶対に出来ない作品を提示してきてくれた。そんな新作を聴いてまた次の作品を聴きたいと思う。次はどんな作品なのか期待して心躍る。
なので、記念日的な何かを迎える度に「あー!!今回も何もなかったー!!」と(心の中で)雄叫びをあげつつ、たまーに氷室氏の友人知人の皆様が氷室氏と連絡を取った話を呟いたりするのをネット上で目にしては「良かった。生きてる!!」と胸をなで下ろしつつ、のんびり楽しみに待っていたいと思います。
氷室氏御本人の体調の問題もあるからね…。気持ち云々でどうにかなる簡単な話ではないので。
じっくりと御自分が納得いく作品を作りあげていただければ。

まぁ、公式も氷室氏を静かに見守っているばかりでなく、時折氷室氏の尻を叩きつつ、ファンに対してはたまには近況報告の一つでもしていただければ嬉しいですがね。こればかりは何とも。(苦笑)

【出典・参考資料】

※1 東北音楽情報誌「Easy On」 1987年10月号
※2 東北音楽情報誌「Easy On」 1987年6月号 P1
※3 東北音楽情報誌「Easy On」 1987年9月号 P1
※4 宝島 1990年4月24日号 P36
※5 「スネア」/高橋まこと著
※6 J-ROCK magazine 1998年4月号 P49
※7 東北音楽情報誌「Easy On」 1990年8月号
※8 東北音楽情報誌「Easy On」 1990年10月号
※9 KING SWING 1990 SUMMER №7
※10 ROCK’N’ROLL 1990年11月号
※11 ドラマー永井利光自叙伝「夢の途中に」 P108
※12 ROCK’N’ROLL 1992年8月号 P77

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