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氷室京介のこだわり②

お待たせしました(待っている方がいるかどうかは別として)。
執筆作業中に操作を誤って全文削除してから約1年、「氷室京介のこだわり①」の続きでございます。でもまだ完結しておりません。案の定、付け足したいエピソードやインタビューが後から後から湧いて出て、収拾がつかなくなりました。
ホント皆様、本文ではなく、最後の【出典・参考資料】に掲載している記事をどうにかして入手して、氷室氏のインタビューの全文を読んでほしい。私の駄文はどうでもいいんで!話の都合上、やむを得ず一部の切り取りでしか引用できないけれど、他にも色々興味深いことを言っているから!!
で、こんな風にあれも入れたいこれも入れたいと四苦八苦していたところ、「あ、このままじゃ永遠に完結しない」と気づき、取りあえず切りのいいところまでアップします。完結編は、今度こそ氷室氏のソロデビュー月の7月にアップできれば。(但し、予定は未定)

なお、今回はじめましての方は先に「氷室京介のこだわり①
からご覧ください。


【理想の歌を求めて】

自分が追求したい理想の歌を他人に理解してもらえない悩みを吐露するようになったのは、アルバム「SHAKE THE FAKE」の後あたりからだろうか。

客観的に他人が聞いた時にピッチとかリズム感とかでは違ったりしてる事もあるんですけど、自分の中の完成形というのは自分にしか分かってないんですね。哲学じゃないんでしょうけど、究極の三角形というのかな。それは正確なキチッとした角度になっているというようなものじゃないんですね。俺だけにしかわからないようなエリアなんで、求めているものは。だから周りは気を使いますよね。何を求めているのかわからないわけですから。でも、自分の中では違うから何度も何度もくり返したりするんですけどね。(※1)

「SHAKE THE FAKE」は、前作「Memories Of Blue」で数字の上ではBOOWYを抜いた氷室氏が「自分の音楽とは何か」と懊悩し、制作が長時間に及んだことで有名なアルバムであった。
このアルバムを受けたツアーのファイナルは、1994年12月24日、25日の東京ドーム2days。
「BOOWYが終わったあの日」から丁度7年目に、同じ東京ドームで開催されること、またかつての盟友松井氏がアルバムタイトル曲へゲスト参加したことなどから、「再結成もあるのでは?」というが当時囁かれた模様。(このあたりの話については別記事で。早く続きを書き上げたいけど、なかなか纏まった時間が取れない……。)
しかしながら、東京ドームのステージに立ったのは、当然のことながら「氷室京介」ただ一人。そこで氷室氏は『ファンへのクリスマスプレゼント』として、アンコールでBOOWYの曲を数曲歌った。
そして翌1995年、BOOWYとともに歴史を作っていった東芝EMIから移籍し、移籍先のポリドール・レコード内に自身のレーベル「BeatNix」を作った。
同時に、個人事務所を設立してユイ音楽工房からも独立した。

移籍先のポリドール・レコードからリリースされた最初のシングルが「魂を抱いてくれ」である。

「魂を抱いてくれ」のレコーディングでは、2日間1日8時間ずつ歌ったものを3日目に「気に入らないから全部消せ」と言って、エンジニアのニール・ドーフツマン氏に驚かれたとのこと。(※2)

1996年にリリースされた6thアルバム「MISSING PIECE」あたりの頃は、自身の限界を超える程、歌入れにこだわっていた。それこそボロボロになるまで。
煮詰まった末に自律神経をおかしくしてしまい、レコーディング中に見上げた天井がぐるぐる回る。苦しくてたまらないのに、翌日またスタジオへ歌いに行く。その繰り返しだったという。
傍から見ると、ぶっちゃけ病んでいたようにしか見えない。

とことん納得いくまで、ボロボロになるまでやって”今日はダメだ“って納得しないともう最高に後味が悪い」(※3)

「3回目に歌ったテイクが最高のように感じても、さらによいテイクを求めて250回歌ってしまうとする、で、結局3回目のテイクをOKにしたとしても、俺の中ではその作業のすべてが、自分に対するOKっていうことなんだよね。そんな積み重ねに真摯でいたいし、音楽に対する俺の距離感価値観は、いつもそこにある」(※3)

その時やれることをやり尽くしたかどうか。
それに彼は重きを置く。自分を追いつめ、時には自分の限界を超えてでも、自身が納得いくまでやり尽くす。
だが、そうやって何度も歌い直せば、必然的にレコーディングは長時間に及ぶ。そのため、レコーディングスタッフとの軋轢、といったらやや大袈裟かもしれないが、スタッフはレコーディングに集中している氷室氏に気を遣ってもの申せず、そのために予定していたスケジュールがぐちゃぐちゃになる、他方、氷室氏は氷室氏で、本当はもっと歌いたいけど、みんながいくらなんでも疲れているのがわかるから終わりにする、といったこともあったようだ。(※4 P5)
お互いがお互いに気を遣う悪循環

アルバム「MISSING PIECE」の収録曲の多くがシングルカットされる結果となったのは、レコーディングが予定通り進まず長期化し、けれどレコード会社との契約をこなさなければいけないがための窮余の策だったのではないかと疑ってみたり(苦笑)。

【スター扱いする周囲】

一方で、この頃に「周りのスタッフに何もかも依存している自分」に気付いたと語る。「いち人間としてインディペンデントな個人として、普通の人がやっているべきこと、当たり前のことが、どんどんできなくなっているのではという不安感が自分の中で大きくなってきた時期」だった、と。(※6 P24)

当時の焦燥を「このままじゃ切符の買い方すら忘れる」と評したことさえある。

みんなが腫れ物に触るような感じで俺に接するんですね。三十何歳っていってもまだガキですよね――いまよりは若いという意味で。俺をプロテクトする人たちがいて、スター扱いする人もいっぱいいて。周囲に自分を映すものがなくなった。見渡しても誰もリアルな自分を映してくれない。俺が言ったことに”そうですね”って返すだけ。裸の王様になる危険をすごく感じていたんです。しかも自分には音楽しかない。このままじゃ切符の買い方すら忘れるな、ヤバいな俺、って思ってた
(※17 P119)

「『YES』という人間だけが居ることと、周りに誰も居ないことって一緒じゃないですか」
そう言い切る彼だからこそ、裸の王様になりかけている自分にいち早く気付き、葛藤した。

【渡米】

そんな不安を抱える中、彼は「魂を抱いてくれ」のミュージック・ビデオの撮影でアメリカを訪れる。
その際、現地のスタッフの仕事に向かう姿勢に感銘を受け、「今の氷室京介は、外からみたら成功を収めているように見えるかもしれないが、それが本当に自分の辿り着きたかった場所なのか」と自問自答したという。
そうして出した答えが、「今手にしている安泰な生活を失ってしまったとしても、今がリセットする時期」「音楽との距離感を、自分なりのスタンスで作りたい」であった。(※6 P24)
「日本にいて、自分が自分じゃない姿で周りと波長を合わせてたら、絶対後悔するだろうって思った」と。(※17 P120)

自身の音楽への飽くなき探究心や自身を取り巻く環境への危機感、そういったものがいろいろ重なって、渡米を決断。
1997年頃に氷室氏は家族とともに本格的にアメリカへ居を移した(と言われている)。

御本人は、アメリカへ行ってしまうことで、「アーティストとしてはいなくなるだろう」と思っていたという。それに対する恐怖感はあったけれど、「自分で選んだことだから、そこに向かって泳いでいくんだってことですよね」と、後に述懐している。(※17 P120-121)

この時期はいわば、ミュージシャン「氷室京介」にとってのターニング・ポイントでもあった。

渡米後はじめて制作されたアルバムが「I・DÉ・A」である。
「I・DÉ・A」の頃に行われたインタビューを読むと、「MISSING PIECE」の頃の鬱々とした状態が嘘のように、スコーンと突き抜けている。
御本人曰く「いろんな景色がすごいスピードで脇を駆け抜けていったあと、暗いトンネルからバンっと明るいところに出た状態。群馬からバンドで成功するぞって東京に出て来た頃のデジャヴューみたい」だと。(※5)

また、渡米して自身の創作活動を始めるに当たり、スティーヴ・スティーヴンス氏を共同作業のパートナーに迎えたことも、氷室氏の音楽活動にとっての転機の一つと言えよう。
「ずっと憧れていた、いちばん好きなギタリスト」であるスティーヴ・スティーヴンスと一緒にやることで、「忘れてたビート感とか、忘れてたエネルギーとか、音楽をやる楽しさとか」を思い出した(※9)とか、とにかく制作することが楽しくてたまらない(※8 P82)とか、自信に溢れ、何か吹っ切れたというか、楽しんで音楽活動をしていることが伝わってくるインタビューがこの頃散見される。
正直なところ、威勢の良さを通り越して、はしゃぎすぎのような印象を受けるインタビューもあったり…… 。(笑)

それはそれとして、ソロ活動25年の歴史を振りかえったインタビューでは、スティーヴ・スティーヴンス氏への感謝と、彼と共同で作りあげたアルバム「I・DÉ・A」の持つ意義を以下のように述べている。

日本で俺を取り巻いていた環境から180度まったく違う環境に自分の身を置いて、まったく今までと違うレコーディングの方法……、とにかくスティーヴのところに連絡を取るのも自分なら、スケジュール管理も自分、スタジオ・ワークをすべて進めていくのも自分全部自分だけが走り回ってレコードを仕上げていく作業をするという。アマチュア・バンドの頃に戻ったようですごく自分をリフレッシュさせてくれました。アメリカにきて最初の自分の活動を始めるときに最もラッキーだったことは、近くにスティーヴ・スティーブンスがいたことです。彼は音楽的な才能がずば抜けているのはもちろんなんだけど、ミュージシャンとしてのアティテュードが素晴らしい。まさに生活の100%がミュージシャンの人なんです。こんな人がたまたま近くで俺を支えてくれたというのはすごくやりやすかったですね。言葉もたどたどしい、自分でレコーディングのオーガナイズをすることも初めてな経験ですから。そんな俺に対して、いちミュージシャンとして、音楽が運んできてくれる共通の喜びを、言葉や文化の違いを超えた上で共有してくれる相手になってくれたスティーヴには本当に感謝してます。
(中略)
「I・DÉ・A」は、アメリカにきて一番最初に自分がすべてをオーガナイズして、それこそ音楽のことだけしかできない自分が、音楽のことだけにしかフォーカスしていないアーティストと作り上げた最初のアルバムという意味で、新しい一歩として非常に自分の中で大きな意味を持っています。
(※6 P25)

日本にいた頃は氷室京介という名前やブランドに対するプレッシャーで無意味にストイックになりすぎてしんどかった(※7)、日本にいると氷室京介という存在に対して妙に構えられてしまうけれど、アメリカではそれがなく自然な付き合いが出来るのがいい(※8 P81)、などとも語っていたことがあり、創作活動の拠点をL.A.に移したことが精神的にも良い結果をもたらしたようだ。

【制作の長期化】

他方、自身のこれからの音楽活動への抱負責任感について言及する場面がしばしば登場する。

「これまでの経験論である程度の数字(セールス)を出すことはできるけど、俺がやりたいのはそれじゃない。売るためのテクニックで作られた音楽とは別の作品として、クオリティの高いものを追求したい」
「俺の作品に責任を持つのはスタッフではなくて俺自身」などといったように。

そういった意識が下地にあったためか、渡米後は音楽活動のペースが落ちた、というか、次のアルバムが出るまでの間隔が空くようになったり、アルバムをリリースしたからといってツアーをやらなかったり、といったように、かなりマイペースな活動にシフトしていった。

実際、1997年12月にリリースした「I・DÉ・A」の次のオリジナルアルバム「MELLOW」が出たのは、(途中ベストアルバムやライブアルバムがあったとはいえ)2000年2月である。
それだけ時間があった(と素人考えでは思う)のに、ギリギリまで曲順が決まらず、「MELLOW」の歌詞カードは実際の曲順ではなく五十音順になるなどのエピソードも。

いや、それだめでしょ。(真顔)

それが許容される立ち位置を築いてきたのは確かにすごい。すごいと言えるのかもしれないけれども!
小学生の夏休みの宿題じゃないんだからさぁ……。

「毎回毎回マスタリングの前の前の日くらいから寝ないで気が狂いながらやってます」と後に仰っていたように、曲順はミュージシャンサイドからだと非常に重要なポイントなのだろう。それはわかる。
アルバム全体を一つの作品と捉えた時、曲順次第でどう聴かせたいかが変わってくるので、並べ方に悩む気持ちはわからないでもない。

だとしても、歌詞カードの印刷が間に合わないレベルまで引っ張るのは、正直どうかと思います。(笑)

「プロのアーティストとしてこれ以上は許されないっていうギリギリの期限まであがいてあがいて」と仰っていたこともあったが、ギリギリのラインを軽く突破してませんかね?正直、貴方の「許される最終ライン」がどこに設定されているのかわかりません。(でも完成した作品を聴くと、それも仕方がないかと受け入れてしまうんだな、これが。悔しいけど。)

ツアーも1998年7月から9月にかけて行われた「TOUR ”COLLECTIVE SOULS”1998 One Night Stand」の次は、2000年10月に始まった「TOUR 2000 ”BEAT HAZE ODYSSEY”」。いずれも「次」まで2年以上の時間を掛けている。ついでに言うと、1998年のOne Night Standツアーは前の「SHAKE THE FAKE」から3年7ヵ月ぶりに開催されたツアーであった。

このように段々と音楽活動のサイクルがゆっくりとなり、アルバムのリリース間隔が延びていった氷室氏だが、制作期間が長期化する一因となったのが、制作におけるコンピューターの導入である。

【Pro Tools】

当時のインタビューでは、自分の頭の中にあるイメージをカタチにするために、Pro Toolsを使って色々試みていると楽しげに話す姿がいくつも残っている。

プロトゥールズでは、本当に音が良いし、歌のシェイプとかはいろいろなことにトライできるんで、自分が最初にイメージしてるよりも、本当にいい形のモノ、歌い方とか、センテンスとか、メロディを変えてみたりとか、臨機応変にできるからね。何テイク追求しても残しておけるし、アナログのテープでやるように、たくさん録っちゃってからデータの整理が大変、なんてこともないし、病的だね、限りなくエンドレス、って言う感じ(笑)。
(※4 P6)

ものを作っていくうえで一番大変なところって……基本的に自分の中でイメージしてるものを自分がプレイするわけじゃないでしょ?そして、他人が100パーセント自分のイメージに沿ったことなんかできるわけがないんでね。そこでいつもレコーディングの時に緊張するのは、どれだけ自分のイメージに近いことを他人がやってくれるかっていうところ。それにドキドキするわけ。でも今回は、道具としてのプロツールズ(コンピューター・ソフト)が入ってくれたおかげで、イメージに近いことをミュージシャンにも何テイクもリクエストして。で、その中からあとで自分で“コレとコレを繋げばどうなる”っていうのがイメージできるんだよね。だから、そういう意味ではすごく楽しい。それをやってること自体も楽しいしね。もともと何かをいじったりして組みたてていくことが好きだったりするし。
(※10)

- 音楽に関してはどうでしょうか。
氷室 根本的なところでも変わってきてはいるんじゃないかな。以前発表した作品を聴き返すと、どうしてここでこの音を入れたのかとか、このポイントで歌ったのかを考えたりするからね。それはたぶんこっちで知り合ったミュージシャンやアーティスト達の影響だけじゃないと思う。
- そんなL.A.でのプライベートタイムは。
氷室 数年前からハードディスクレコーディングにはまりましたからね。好きな釣りとかにも出掛けずにスタジオに篭っている日が多かったかな。まさにプレイグランドっていう感じ。新しいモノが出てくると放っておけない(笑)。「MISSING PIECE」あたりからのトライがここにきて100%カタチになりましたね。
- 「MELLOW」はセルフプロデュースで完成されていますが。
氷室 ハードディスクレコーディングを取り入れることで、頭の中で創っているイメージを100%カタチにすることができますからね。今回は素材集めからすべてやったわけですが、おかげさまでいつもより時間はかかったかも知れない。
(中略)
- ファンの反応とかは気になりませんでしたか。
氷室 ならない(笑)。というか、現在の自分にとって自信を持てる作品がすべてなわけですよ。“こんなの氷室じゃない”って言われてもそれはそれで仕方がない。イメージに寄り添っていつも似たような作品を創っていかなければいけなくなるもんだとしたら、もうミュージシャンをやっている意味は無いですよね。自分自身が胸を張れる作品をリリースする。その後、媚びを売ってまでして、聴いてもらうような真似はしたくないですよね。それは作品にも失礼なことだと思うし。
(※11)

アルバム「MELLOW」において、氷室氏は初めてPro Toolsを使用して歌録りを行ったとのことである。
この少し前から氷室氏は制作にPro Toolsやハードディスク・レコーディングを取り入れており、1000分の1秒単位の表現が出てきたのはこの頃から。

そこまで拘る氷室氏の制作に対する姿勢を、「楽曲に加速感を持ち込むことを天才的な技量で氷室氏ができてしまったが故の”理想探し“」と音楽ライターの佐伯氏は評していた。

氷室京介という音楽家を語るときに、もうひとつ避けて通れないと思う側面は、“凝り性”である部分だ。もうずいぶんと前から氷室はレコーディングにコンピュータを導入して、自分の歌を“調べながら表現して”いるのだが、そうした方向に向かったのも、彼が“速いエイトビート楽曲”において、天才的な技量で”加速感“を持ち込むことができたからだ。ものすごい速いビートで歌えば、加速感が出るかというと、僕はそうではないと思う。200キロで走っている新幹線よりもスポーツカーのスタートダッシュの方が加速感を感じるのは、スピードに乗っているのではなくスピードを出しているからだ。それを一定のエイトビートでどのように感じさせるか?僕はJ-ROCKのエイトビートに加速感を注入したのは氷室だと確信しているのだが、それを天性の技量でできてしまったがゆえの”理想探し“を氷室はずっとやっている。だから、必然的に凝り性になるのである。
(※12)

自分の作る曲が、自分が歌う歌がどうしてこう聴こえるのか。
天賦の才により感覚でできてしまっていることをコンピューターで分析し、きちんと理論として理解する。その理解のうえで、頭の中で鳴っているイメージを100%カタチにするために試行錯誤して、裏づけある歌として再構築していく。
しかも、そういった試みの中で氷室氏が追求していたのは、ピッチや音程を「ぴったり寸分違わず合わせる」ことではなかった。

- 氷室さんは、コンピュータを使いながら、わざと自分のわざとしてピッチを狂わしたりとかするでしょう?
わざと狂うっていうのは、自然に感覚の中でたぶんやってるんじゃないかな。だから変な話だけど、自分のチューンがどれだけ狂ってるかっていうのはグラフで見れるわけさ、コンピュータだから。見ると、かなりズレてるんだよ。でもズレてるからいいんだよね。それをオートチューンでビシッと直すとすっげえ下手くそに聴こえる。そういうもんなんだよね。それが分かるまでに時間かかったけど。でもそれが分かってからはけっこう、コンピュータとの巧い付き合い方もできるよね。最初勘違いしててさ。ピッチはかなりずれてるけど、ズレてるからいいんだよね」
- 逆に、ズレてる方が巧く感じたりするんですよね。
「絶対そうだよ。インタヴューで言うことではないかもしれないけどさ、だいたいもう自分の癖も分かってきたよ」
- どこでフラットするとか?
「うん。どこでフラットを無意識にさせてるんだな、とか。たとえば、低いキーの曲なんかの、感情を込めてちょっと暗めに聴かせたいときは、多少フラットしてたりとかね。あとサビは必ずちょっとシャープしたりとか、そこで高揚した感じになるとことか。ギターソロのあとはとってもシャープしてたりとか。いろんなが分かるよね。それも(コンピュータ・ソフトの)プラグインの中に氷室プラグみたいなのがあってバンって修正されちゃえばいいんだけど(笑)、そうはいかないからね」
- ただプロデュース・ワークの中でのコンピュータの存在は画期的でしょう?
「絶対に画期的だよねぇ」
- ねぇ。一番ハマるのは何?音の背景とか質感とか、そういうもの?
「そうだね。あとは、やっぱ自分の歌のグルーヴがどこにハマるとどう聴こえるかっていうのが簡単に確認できるじゃない?あとは……何にハマってるんだろうなぁ」
- 何にこだわって自分が作ってる、作ろうとしているのか?
自分の理想の歌。理想の歌には限りなく、細かく細かく、何度も録れるからね。同じ場所を」
- 1000分の1秒単位で(笑)。
「そうだよ(笑)。1サンプル単位で。あとはアレンジ。たとえばギターが弾いてるフレーズの3拍目4拍目だけをループさせるとどうなるか、とかっていうのも全部できるじゃない?それを試すのが楽しいんだよね」
(※12)

コンピューター技術の発達により、どんなに狂っていようともビシッと正確に「修正」することは可能となった。だけどもそうやって正確なだけの歌ほどつまらないものはないと仰る。某バンドの曲名ではないけれど「ズレてる方がいい」と。
近年のライブにおける「1000分の1秒単位の指示」も、こういった氷室氏の音に対する姿勢の表れなのであろう。

きっちりと全員の音が合うっていうのは、アマチュアでもキャリア長くなってくれば簡単にできる。でももっと上手になると、”いかに全員がかっこよくズレてくるか”が出てきて、その絶妙な組み合わせが音楽的なグルーヴに繋がっていく訳なんだよね
(※13)

「いかにかっこよくズレるか」
この言葉は氷室氏のインタビューにしばしば登場する。彼が求める理想の音、グルーヴがそれだからこそ、余計に周囲に理解されにくい

今まで歌入れで一番ネックになっていたのが、俺、不幸なことに喉が強いんですよ(笑)。エンジニアの精神力より僕の体力が強かったりするから、気まずくなってくるんですよ。僕の歌のフォルムって僕にしかわからないんですよ、今のところのピッチが気に入らないって言っても「どこが?あってるじゃん」っていう話になっちゃう。こっちからすればあってるから気に入らないわけで。ニュアンス、分かります?そのスタジオの人間関係が面倒だったところもあって。今回は、何時間でもやってられますから。コンピューターは文句言わないですから(笑)
(※14)

【よりクオリティの高い作品を求めて】

渡米して不要な人間関係の柵を排除し、「よりクオリティの高い作品を創りたい」という意志のもとで、レコーディングも何もかも自身がイニシアチブを取り、オーガナイズして。
ただでさえ凝り性で、とりあえず何でも自分でやってみたい性格なのに。
そんな人間がさらに、拘りを形にするための道具<Pro Tools>を手に入れてしまった。
しかもその道具は機械なので、人間のように疲弊したりなんだりがない。自分の体力が続く限り、納得がいくまで試行錯誤し続けられる。

「音楽なんて、簡単に……ましてやお金を出して買ってくれるものなんてのは簡単に出来てたまるかって感じがする」(※18)という言葉に象徴されるように、わざわざ金を払って自分の作品を購入してくれるファンに対する責任感として、時間がかかったとしても楽な方に流れずにできるだけ真摯に作品づくりに取り組もうとする姿勢
彼がそのキャリア全般を通じてよく言うフレーズが「俺はプロだから」「(自分のパフォーマンスを見せて)ファンから金取ってるんだから」だ。
苛烈なまでのプロ意識

そのうえ、色々と試行錯誤をくり返し、結果失敗したり、流されたとしても、その経験を自分の血肉とし、最終的に自分が行きたいところに辿り着くための筋肉となればいいというスタンス。
最終的に自分が行きたいところに辿り着けるかどうかが大事」という趣旨の発言を何度もしている。
さらには、それまでの音楽活動でキッチリ結果を出し、自分の好きなように制作できる環境を整えてきていた。氷室氏の音に対する拘りにもの申せる関係者が全くいない、というわけではないだろうが、相当限られるのではないか。
そりゃあ、制作に時間がかかるようになりますわ。
(なお、残念ながら、御大のプロ意識は「よりクオリティ高い作品(ライブ)作り」のみに発揮され、スケジュールを守ることや売るためのプロモーション活動などに対しては発揮されない模様。)

オリジナルアルバム「FOLLOW THE WIND」が出たのは、前作「beat haze odyssey」発売から3年経った2003年のこと。
このアルバムは、氷室氏にとって東芝EMIの復帰移籍第1弾であったが、その1年半位くらいには、1枚アルバムができるくらいまでレコ-ディングを済ませていた。しかしながら、「過去に、EMIで創ってきた、氷室京介というもののクオリティ太刀打ちできる曲が創れてなかった」との理由で、「SACRIFICE」以外は「これじゃだめだ」とボツにして、全部新しく創り直したと彼は語る。(※15)

お蔵入り作品が多いのは、このアルバムに限った話ではないと言う。「お蔵入りするには、それなりの理由がある」から、と。
ただ、「スタッフからすると、きっと迷惑な話」だと認識していながらも、「(ハードルが)高いのかどうかは知らないですけど、すごくわがままですよ。自分の主観で駄目となったら絶対駄目)」だと仰る。(※16)

創ってはボツにしてということは、氷室氏に限らずままあることだろうし、プロとして納得できない作品を出せない気持ちもわかる。だけども、アルバム丸々ボツというのはちとやりすぎではないの……?
だがそれこそが、ミュージシャン「氷室京介」にとってどうしても譲れないところなのだろう。


※「氷室京介のこだわり③」に続きます。

【出典・参考資料】

※1 R&R NewsMaker 1994年10月号 P24
※2 「20th Anniversary TOUR 2008 JUST MOVIN' ON -MORAL~PRESENT-」ツアーパンフレット
※3 PATiPATi 1996年12月号 P136
※4 KING SWING Vol.008 
※5 ザッピィ 1998年1月号 P44
※6 氷室京介ぴあ
※7 週刊プレイボーイ 1998年1月20日号 P222
※8 月刊カドカワ 1997年7月号
※9 スコラ 1998年1月8日号 P114
※10 What’s IN 2000年3月号 P77
※11 オリコン2000年3月6日・13日合併号
※12 UV Vol.52 2000年3月20日発行 P20
※13 KING SWING Vol.27 P7
※14 KING SWING WINTER 2000 №42 P16
※15 J-POP列伝 音楽の中に君がいる2/田家秀樹著 P130 : FM NACK5 「J-POPマガジン」 2003年8月30日/9月6日 ON AIR
※16 J-POP列伝 音楽の中に君がいる/田家秀樹著 P51 : FM NACK5 「J-POPマガジン」 2004年9月4日/9月11日 ON AIR
※17 R25 男たちの闘い
※18 UV Vol. 11 1998年発行



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