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【オランダ留学🇳🇱】留学準備と日本との別れ

2022年8月からオランダに交換留学に行くことが正式に決まった。幼い頃からぼんやりと抱いていた海外生活への憧れが現実へと変わった瞬間だった。

留学への思い

自分がいつ英語を習い始めたのかに関しては記憶がない。ただ近所のハーフの子(東大卒/現外務省勤務)と仲良くさせてもらったり、毎週親の送迎で英会話教室に通ったりと、小さい頃から英語に触れる機会は多くあった。将来は日本の外に出て外国人と英語で会話をしてみたいというのが当時の夢だった。

実際大学入学までは自分の語学力に自信があった。小4では英会話教室主催のスピーチコンテストで静岡県、東海地方のオーディションを通過し、TBSの全国番組に出演した。中3では市の代表に選ばれてスピーチコンテストの静岡県大会にも出場した。負けず嫌いな性格も相まって高校の英語のテストも1位でなければ気が済まなかったし、高2の時にも実力試しで河合塾の京大オープンも受けてみた。高校時代は模試を含めて自分が常に一番でいたいと思っていたし、周りの友達からも人よりは英語ができると認められていたかった。

ただ大学に入って自分がこれまで天狗になっていたことを痛感した。運良く第一志望の大学に入学できたものの、自分の周りにはスペックが高い人たちが山ほどいた。詰んでるエンジンが違った。初めて見る世界だった。トリリンガルの帰国子女や純ジャパなのに英語が堪能な友達。一気に自分の英語力に自信がなくなった。

大学入学までは自分の夢は外交官だった。自分の語学力を使って日本と外国を繋げる役割を担いたかった。外交官に憧れたのは小4の時。お墓参りからの帰りの車の中でふと外交官になりたいと思い親に伝えた。なぜこの時に外交官を選んだのかはわからないし未だに思い出すことができない。死んだおじいちゃんが孫に外交官になってほしかったのかもしれない。小学校の卒業文集にも将来の夢は外交官と書いた。気味悪い小学生だったに違いない。

ただ外交官という夢も大学入学と同時に味わった初めての挫折によって揺らいだ。自分の周りには自分より英語ができる人がたくさんいる。しかも複数の言語を武器に戦える人が一定数いる。その事実が自分から自信をなくした。なくしたとはいっても、ずっと自分は英語ができるんだと盲目的に自分に言い聞かせていただけで、自信なんて実際ほとんどないようなものだったが。

それでも外国への興味は薄れることはなかった。入学当初はちょうどコロナが流行り始めた時期で大学生の間に留学に行けるかどうかわからなかったが、実際に留学に行きたいという思いは心にあった。アメリカやオーストラリアなど様々な選択肢がある中で、自分はヨーロッパに行きたい気持ちが強かった。生粋のサッカー好きだからこその思いである。しかし漠然と行きたいと思っているだけで留学生準備は何もしていなかった。

親元を離れて一人暮らしを始め、思う存分羽を伸ばしていた自分は、大1の後期にサークルに出会った。小さい頃からサッカーが好きだった自分は大学でも続けたいと思い、サッカーサークルの1つに入ることにした。そこからサークルに没頭し、毎晩のように友達と遊び、徐々に授業もサボるようになり、大2の前期にはとうとう単位を落とした。留学のことはほぼ忘れ、英語学習にも力を入れず、ただただ友達と一緒に過ごす時間を楽しんでいるだけだった。

転機は大2の夏だった。親からそろそろ留学について考えた方がいいと言われ準備を始めた。夏休みに生半可な気持ちでTOEFLの勉強をしたためか、出願しようと思っていた大学の語学要件を満たせず出願を断念。これまで遊んでいたツケがまわってきたと思った。痛い目を見るまでわからなかった自分が情けなかった。

結局大2の冬に再度交換留学を申し込んだ。志望校を再考し、交換留学掛に申請書を出した。これで通らなかったら1年間の留学は諦めるしかなかった。語学要件を満たすために再びTOEFLを受けた。ボーダーラインの2点下だった。万事休すかと思ったが2月中旬に最後のチャンスがあることに気づき、急いで申し込んだ。約一週間死に物狂いで勉強した。春休みに入ったばっかりだったが図書館に籠って友達との遊びも断った。友達に何回試験受けるんだとまで言われた。背水の陣で臨んだTOEFL、手応えはそれなりにあった。一週間後、結果が出た。ちょうと親が下宿先に来ていたから親と一緒に見ることにした。サイトを開いたらボーダーラインより上のスコアが表示された。嬉しかった。やっと留学に行ける。その時はそこまで現実味はなかったがとにかく嬉しかった。急いでロードバイクに乗り、大学の交換留学掛に報告に向かったのを覚えている。

渡航日は8月9日に決めた。フライトを予約した時、ようやく自分は日本を離れるんだという実感が湧いた。これまでは留学行くのはまだ先のことだと思っていたけど、この日から日本出発までのカウントダウンが始まった。

大阪→アムステルダム

最後の大会

8月3日に前期のテストが終わり、急いで下宿先を引き払う準備と渡航の支度にとりかかった。後輩の誕生日会が4日、サークル最後の練習が5日、京大杯が8月6,7日にあり、9日に渡航する予定だったため、残された時間は少なかった。折り畳まれた引越し用の段ボール30箱が届いた時、下宿先を引き払うことに寂しさを感じた。荷造りは急ピッチで進めたつもりだったが、大2の時にサッカーの大会でもらった個人賞を眺めたり、サッカーの雑誌を読み耽ったりと、意外と時間をかけてしまった。持っていく服と持っていかない服の仕分けであったり、食器の梱包だったりとやることはたくさんあったが、段ボール1つ詰め終わるごとに思い出に耽ってしまい、結局荷造りが終わったのは出発する9日の早朝。最後まで段取りが悪かった。

ここからはサークルの話。最後の練習は宝が池の人工芝だった。もともと別の日に土のグラウンドでやる予定だったが雨が降ってキャンセルになったため、急遽大会直前に練習を入れた。回生対決は負けた気がする。1回生がフレッシュだった。利用時間を過ぎて管理人のおじさんが注意をしに来てくれたが、自分のわがままで最後にみんなで写真を撮ってもらった。

6日は京大杯1日目だった。大1の時は怪我で出れず、大2の時はまさかの全敗。チームで唯一ゴールを決めたものの自分を含め守備の脆さを露呈し最下位に終わった。三度目の正直として挑む京大杯。負けたら自分の大学サッカー生活が終わる。懸ける想いが違った。

1試合目は左SBでプレーした。納得のいくパフォーマンスができたからよかった。久しぶりの試合だったけど試合勘はそこまで鈍ってなかった。途中で自ら下がった。結果は勝ち。次はベスト4。

2試合目も左SBでスタメンで出た。相手は自分が最初に入っていたサークル。目移りして今のサークルに入ったからそのサークルに対しては申し訳なさがあったけど、今回は自分が今のサークルを選んで正解だったことを示そうと思い、強い気持ちで臨んだ。ただマッチアップしたのは4回生の先輩だった。左利きのやりにくい相手だった。何回かカットインを許してしまった。徐々に慣れてきたがチームとしてもやりにくい相手だった。運動量も何もかも上だった。前半自分のところでボールを奪われて中央を崩されて失点した。高校の頃にチームメイトから「1回ミスをしたらプレーがゴミになる」と言われるほどメンタルが弱かったから、この時もさすがに気持ちが沈んだ。その後2点目を決められて万事休す。試合は0-2の完敗。自分の大学サッカーが終わった。

その時は終わったと思った。

その日の夜、2回生が京都市内でAirbnbを借りてシェアハウス生活をしていると聞いたから、これまで仲良くしてくれたお礼を伝えるのと最後の思い出作りのために、近所に住んでいる同回の友達と一緒にシェアハウスに向かった。麻雀をしている横でこれがサークルのメンバーとしてみんなと過ごす最後の夜だと感慨に耽りながら何気ない話をしていると、1回生の後輩から突然電話がかかってきた。要件は京大杯決勝についてだった。

端的に言うと、決勝で左SBをやってほしいという内容だった。1回生チームは自分たちとは反対側のブロックにいて、決勝まで勝ち進んでいた。ただ左SBの子が怪我をして、代わりにそのポジションでプレーできる人が1回生にいないから自分に代打を務めてほしいという電話だった。一瞬後輩が自分に気を遣ってくれているのかと思ってすぐに断った。自分はその日の試合結果を受けて心の中ではもう引退を決めていた。しかも1回生でそこまで勝ち進んだのなら3回生の自分が入ることなく1回生だけで決勝に挑むべきだと思った。ただ電話をしている途中で自分の中で迷いが生じた。一旦整理をするために時間をもらった。麻雀している部屋を戻ってこのことを伝えたら、案外みんなあっさり「引き受けたらいいじゃん」と言ってくれた。吹っ切れた。引き受けようと思った。ただ自分が出ることで他の1回生が出れなるなることは代わりないから、その点だけ1回生みんなの了承を得てほしいと伝えた。リベンジのチャンスを、しかも優勝できるチャンスをくれた1回生には感謝しかなかった。興奮であまり寝ることができなかったからちょっとだけ荷造りを進めた。

8月7日。決勝。誰よりも早くグラウンドに着いた。相手は前日に0-2で負けたチーム。相手の特徴はわかっていたがアップの時から緊張していた。勝っても負けても最後の試合だと思ったら、逆に冷静になれなかった。緊張して笑うことすらできなかった。そんな中で試合が始まった。前半はプレーがかたすぎた。何とか相手のサイドハーフには対応していたものの、パスも思うように繋ぐことができず、1人だけ緊張しているのがわかった。ハーフタイムにも後輩から緊張しすぎだと言われた。いずれにせよ残り自分がプレーできるのは15分。思いっきりやってやろうと思った。後半は気持ちが吹っ切れたせいか自分的に満足のいくプレーできた。ポジショニングも前半よりよくなって、思い切りのよさも出てた気がする。チームとしてみたらもっとプラスな選択肢を選ぶことができたかもしれないが、体を投げ出して相手の前でヘディングしたり、予測して楔をインターセプトをしたりと、中学時代の全盛期を思い出すようなプレーができた。とにかくサッカーが楽しかったし、最後までやり切ることができた。

試合は両チーム得点を奪えないままサドンデスのPKにもつれこんだ。1人の後輩に自分に蹴らせたいと言われたが断った。1回生のキャプテンもそれは違うと言ってくれたからよかった。1本目は両チーム成功。2本目に相手が外した。後攻が自分たち。決めれば優勝。決めてくれる自信があった。相手GKの逆をつく形で2人目が成功した。泣いた。自分以外の後輩たちはみんなPKを成功させた選手のところに走って行ったせいで自分だけセンター付近に取り残されていたが、安堵と嬉しさで立ち上がれなかった。後輩たちが戻ってきて抱きついてきてくれた時もっと涙が出た。涙脆い先輩だと思われたと思うけどそれくらい嬉しかったし、こんなにいい終わらせ方をしてくれた1回生に感謝しかなかった。

ベンチを空けてピッチの外に出た。集合写真を撮ると言われたからユニフォームを着たまま待っていた。その間に後輩と個人的に何枚か写真を撮った。急に1回生から自分にプレゼントがあると言われて戸惑った。誰も目に見えるプレゼントなんか持っていなかったし、1回生が自分の周りを取り囲んだから、きっとみんなから水を浴びせられるんだろうと思って覚悟した。結局1回生は胴上げをしてくれた。最後は雑に地面に降ろされたけど人生初の胴上げだったから嬉しかったし楽しかった。そのあとみんなで集合写真を撮った。今でもこの写真はお気に入り。Instagramにも投稿してある。

送別会

その夜はお疲れ様会があった。自分としては最後のサークルのイベントだった。実は荷造りと並行して同回にお礼の手紙を書いていた。段取りが悪いせいで全員に書き終わらないまま京大杯2日目に呼んでもらったから、手紙を書く時間がほとんどなかった。結局書き終わらずにお疲れ様会には30分弱遅れて行った。

お疲れ様会で自分のために何かしてくれるだろうと心のどこかで思いながらも過度に期待はしないようにしようと思い、変に構えてはいなかった。同回と喋っていたら急に暗転して前のスクリーンにDear○○○○という文字が浮かんだ。びっくりした。約3分半くらいの動画だった。サークル入会時の伝統だった大声での自己紹介に始まり、大1から大3までの思い出が流れた。スライドショーかと思っていたら2分過ぎからビデオメッセージが流れ始めた。10場面で撮った動画が繋ぎ合わされてメッセージができていた。感動した。これまでこんないいものをもらったことがなかった。人に恵まれていると感じた。ここでウルッときたが耐えた。

動画が終わり、みんなの前に出された。自分の代が新歓した時に一番最初に入ってくれた後輩と、ほぼ毎日一緒に遊んでいた同回の副会長がそれぞれプレゼントを持って自分の前に立った。後輩からはメッセージ入りのアルバムをもらった。同級生の友達からはひまわりの花束を渡された。あとで聞いたらバックミュージックでひまわりの約束が流れていたらしい。鈍感すぎて気付かなかった。そのあと手紙を読んでくれた。最初の方は自分のZenlyを止める癖だとか家の外で片付けのために友達を長時間待たせることとかをイジられた。そのあと感謝を伝えてくれたけど、泣かないことで有名な彼が涙を拭いながら、声を震わせながら手紙を読んでいたから自分も少し涙腺が緩んだ。いいメッセージだったと思う。

プレゼントを受け取ったあと、自分にマイクが渡された。原稿は準備してなかったし、話すことは何も考えていなかった。とりあえず自分の心に思ったことをそのまま話した。話にまとまりがなかったし、仲良くしてもらった2回生へのメッセージは言葉足らずな部分もあったけど、それでも精一杯の感謝を伝えたつもりだった。そのあと3回ひとりひとりに手紙を渡した。直接同回に感謝を伝えることができたし、一緒に2人で写真も撮れてよかった。あげた手紙は家で読むように伝えたのにみんなその場で読んでいた。手紙で泣いてくれていた人もいて嬉しかった。全体で写真を撮ったあと、よく遊んでいた同回グループや後輩たちと写真を撮った。ずっと泣いている友達もいたし、初めて泣いているところを見た後輩もいた。寂しい気持ちが込み上げてきたけど意外と冷静で居れた。最後に自分が好きな女優も森七菜の歌を歌わされた。音痴な自分としてはみんなの前で歌うことほど嫌なことはないが、いい終わり方だった気がする。

荷造りがあったから二次会には参加しなかった。最後にみんなに挨拶してから帰宅した。家に帰って深夜まで部屋の整理をしたあと、もらったアルバムを何周も読みながら思い出に耽った。

出国

いよいよフライト当日。昼過ぎに京都駅から関空への直通バスに乗った。1年間京都から離れるのが寂しかった。バスの中ではアルバムを眺めたり今までの大学生活の写真を見返したりした。親は直前にコロナになったらしく見送りに来れないという連絡をもらっていた。友達が来てくれるかどうか分からなかったので、最悪一人で出国する覚悟はできていた。

関空でチェックインの手続きを済ませたあと時間があったので、祖母に電話して今から飛行機に乗って留学に行ってくる旨を伝えた。声を聞いた瞬間号泣してしまった。祖母は高校も出ておらず、英語を学びなくても学べなかったと聞いていたから、自分が留学を楽しむことがおばあちゃん孝行だとずっと思っていた。祖母の分まで頑張らなきゃいけないと思った。ちなみに祖母は数年前に脳梗塞で倒れたものの奇跡の復活を果たし、数年以内に喋れなくなると言われながらも今のところは一切の不自由なく生活している。ただいつ脳梗塞が再発してもおかしくないと言われており、もしかしたらこれが最後の祖母との会話になるかもしれないと思ったら涙が溢れた。

祖母との電話後、ふとZenlyを見てみると友達が関空に向かって動いていた。見送りに来てくれることを知って嬉しくなった。連絡をもらって一緒にご飯を食べることに決まった。来てくれたのは同じサークルの男子6人。ほぼ毎日一緒にいたような人たちでこの先1年間会えないと思ったらすごい寂しくなった。彼らが到着すると同時に和食のレストランに入り焼き魚定食を食べた。白米はおかわりした気がする。日本食の美味しさを噛み締めながら最後のご飯を楽しんだ。

レストランを出て出発ゲートに向かった。保安場に入る前に最後にみんなとハグをした。そこでも泣いてしまった。そのあと7人で写真を撮った。みんなに見送りに来てくれたお礼と別れを告げて保安場に入ろうとしたら、保安官にペットボトルは持ち込み禁止だと言われて止められた。直前に水を買っただけに捨てるのはもったいないと思い、一気飲みしたら友達に笑われた。最後にいい思い出になった。みんなの姿が見えなくなるまで手を振った。

手荷物検査をしていたら「○○さんですか?」と係員の人に聞かれ、何事かと思えば、フライトの搭乗時間の締め切りギリギリだと伝えられた。完全にフライトの時間を勘違いしていたのである。係員と一緒に搭乗ゲートまで走った。親に連絡するのを忘れていたため、搭乗ゲートまでのモノレールの中で電話した。親はスマホを握りながら待機していたらしく、ワンコールで出た。ビデオ通話に切り替えて親の顔を見た瞬間また涙目になってしまった。声が震えているのがわかった。時間がなかったので感謝だけ伝えて電話を切った。たぶんそれ以上電話していたら号泣していただろう。搭乗ゲートに着いて飛行機の写真を撮ろうとしたら係員に怒られた。「日本じゃなければ飛行機は待ってくれないですよ」とまで言われた。係員やCAに謝りながら飛行機に乗り込んだ。

そして迎えた19時55分。関西国際空港発アムステルダムスキポール空港行KL0868便が離陸した。夢にまで見た留学生活の始まりである。

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