”アフリカンサムライ”弥助伝説の誕生と拡散 ー とあるユーザによるウィキペディアへの貢献
”アフリカンサムライ”弥助に関する真偽定かではない数々の伝説の誕生と拡散には、2019年発行のトーマスロックリー氏らによる小説「African Samurai: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan」の影響が大きいと言われています。
一方で過去の英語版Wikipediaの内容を辿ると、小説「African Samurai」発行前からオリジナルエピソードが「信長公記」や「家忠日記」に追加され、”アフリカンサムライ”伝説の誕生と拡散に影響を与えていることが窺われます。
この伝説の誕生と拡散に影響を与えたと思われるタイトル画像のとあるユーザー氏のWikipediaへの貢献についてまとめてみます。(画像はWikipedia上のとあるユーザー氏のユーザー頁のスクリーンショットからユーザ名を隠したものです。)
Wikipediaへの貢献
参考文献は出版前の論文
2015年の9月、それまでアカデミックな参考文献に乏しかった”Yasuke”の項目に対し、過去に一度”Yasuke”記事に情報を追記したことがあるとあるユーザーにより以下の学術論文を参考文献として多くの編集がなされました。
2016年、つまり記事編集の翌年出版予定となっています。さすがにそのような未来の論文は誰も読めないのだから参考文献として相応しくない、と通常ならば突っ込みが入るところですが、当時は"Yasuke"の記事に対する注目度も低かったのか特に問題とされず、この参考文献の情報は結局2017年初頭まで(つまり実際に出版された後になっても予定のまま)放置されることになりました。
論文よりも一般書物
せっかくアカデミックな論文を参考文献としていた”Yasuke”の記事ですが、なんと2017年2月にとあるユーザーにより上記の論文を参照していた出典情報が全て下記の一般書物に変更され、参考文献から上記論文が削除されてしまいました。
今回はこの編集が行われるより前の2017年1月24日出版の書籍なので、参照不可能な未来の書籍という訳ではありません。一方で学術論文よりも信頼性の劣る一般書籍を重視することや、本文の記述が変わらないまま出典となる参考文献だけ変更するということは通常ありえないことのはずですが、当時は"Yasuke"の記事に対する注目度も低かったのか、この変更が問題とされることもありませんでした。
なお、この編集時に文法エラーがあったらしく、一部の出典はエラーとなってしまいました。このエラーとなった出典は約2か月後に別のユーザーによって元の論文を参照する形で修正されてしまったため、該当論文に対して最も詳しいと思われるとあるユーザーの削除すべきという判断に反して、この論文が現在に至るまで参考文献として残ることになってしまいました。
専門家の紹介
2018年10月、とあるユーザーによりWikipedia内のこの分野で世界で唯一の本(”the only book on the subject in the world.”)の著者である専門家氏のページへのリンクが追加されました。ところが、当時は”Yasuke”の専門家に対する注目度も低かったのか、翌11月に該当ページが特筆性なしとしてWikipediaより削除されてしまったため、このリンクも削除されてしまいました。
書籍の紹介
通常、Wikipedia上で発売前の書籍の宣伝が行われることは無いのですが、2019年1月にとあるユーザーにより今に至る弥助伝説を語る上で欠かせない書籍の販売が紹介されました。
なお、同書籍の発行は2019年なので記事の2018年というのは誤りです。当時は"Yasuke"の記事に対する注目度も低かったのか、宣伝目的として問題視されることもなかったのですが、この記述は一か月少々後に”Unsourced, originl reseach, or not notable.”として残念ながら他の様々な項目と一緒にまとめて削除されてしまいました。
なお、本書籍の紹介をもって役目を果たしたとの考えからか、とあるユーザーの”Yasuke”ページへの貢献はこれが最後になりました。
伝説の誕生
オリジナルエピソードによる文献の拡張
上記2015年に行われたWikipediaへの編集において、後の弥助伝説に繋がると思われる以下のような変更がいくつかなされました。
1582年5月とされる甲州征伐からの帰途における「家忠日記」記載内容が、信長と弥助との面会から約1か月後の(1581年)5月の出来事と約1年後の1582年初頭の出来事とに分離されました。
1581年5月の出来事は安土でのこととされ、非常に名誉なことに弥助という名前を信長自身が与えたと家忠が記していることになってしまいました。当然「家忠日記」にはそのような記載はありません。
身長などの本来の「家忠日記」の記載内容を上記1581年に消費してしまったためか、1582年初頭になった甲州征伐からの帰途における記載内容としてはいくつかのオリジナルエピソードが採用されました。当然「家忠日記」にはそのような記載はありませんが、弥助と信長との関係性が強化されることとなりました。
これら「家忠日記」への修正によって、信長との出会いから1か月及び1年といった節目における弥助の動向が判明し、弥助が信長の元で出世したとする伝説の形成に寄与したと思われます。また「家忠日記」を参照することで弥助がどれほど信長に重用されたかがわかることになってしまいました。
なお、これら「家忠日記」に追加されたオリジナルエピソードは2016年6月にとあるユーザーによって一部は削除され、一部は「家忠日記」とは無関係とされました。基準がよくわかりません…
フロイスの報告にある「彼に1万銭を与えた(lha deu dex mil caixas)」エピソードが何故か「信長公記」のものになりました。当然「信長公記」にはそのような記載はありませんが、弥助が信長に厚遇されたとする日本側の資料があるとの伝説の形成に寄与したと思われます。なお、この変更前からの解釈ではあるのですが、このエピソードは弥助を見世物にしたらいくら儲かる、といった話の後に出てくるので1万銭もらった「彼」は宣教師(オルガンティノ神父)だと思っていたのですが、ここでは弥助が受け取ったという解釈なんですね。
本能寺の変の際に助命されエピソードに関連して、光秀はイエスズ会を怒らせたくなかったからであるという理由や、日本の寺院ではBuddha(釈迦牟尼を指すのか仏像一般をさすのか不明)は一般には黒色なので黒人は称賛を得ていたとする謎の理由が導入されました。
このような様々なエピソードが学術論文を出典として追記されたことにより、Wikipediaを起点とする”アフリカンサムライ”弥助伝説の拡大につながったものと思われます。
きっかけはWikipedia
なお、小説「African Samurai」の著者の一人トーマスロックリー氏は、文藝春秋紙のインタビューにて以下のような発言をされています。
Wikipediaの記事の影響力の高さを身をもってご存じだったのかもしれません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?