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永遠(とわ)だけが存在しない世界:「大豆田とわ子と三人の元夫」感想

「大豆田とわ子と三人の元夫」は、なぜだか「こんなに愉しい時間は、もしかしたらいまだけかもしれない」という予感がつねに漂っているドラマだった。

このドラマの始まりで、主人公の大豆田とわ子はベランダの外れた網戸に苦戦しながら、「誰かが代わりにやってくれたらいいのに」とボヤく。網戸は物語のなかで何度も登場するキーアイテムだが、ここで描かれているのは「ふとしたときに寄り掛かれる人がいない」ということだ。疲れておうちに帰ったときに湯船が沸かしてあったらいいのに。自分でおいしいごはんを用意して食べるのもいい。でも、他人が作ってくれたごはんも食べたい。お仕事は充実していて、同僚に恵まれている。小さい頃からいつも一緒の友人もいて、休日はおしゃれなお店を巡ってたのしい時間を過ごす。それでも無性に「さびしい」瞬間がある。どうしようもなく虚しくて、目に映るものすべて空っぽのように思えてしまう。僕はとわ子が見つめるこの景色に、激しい共感を覚えた。特にこのコロナ禍に入って以降、そう感じる頻度は増えている。毎日それなりに楽しく、それなりに退屈な日々を過ごしたその先に、一体何があるというのだろうか。行き場のない不安をだれに吐き出すでもなく、両手いっぱいに抱えて呆然と立ち尽くす。そんなとき、側にだれかいてくれたらこの問題は解決するのかもしれないと考えるとわ子の気持ちは僕にもよくわかるのだ。

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しかし、大豆田とわ子も、僕たち視聴者も、だれかが自分を無条件に愛し、すべてを肯定してくれるなんて幻想だと知っている。本来は初恋が醒めた時点で、そんなことわかっておくべきなんだけど、それでも僕たちは「今度こそ…」と懲りずに可能性を信じてしまう。いや、信じたくなってしまう。じっさい、とわ子は三回結婚し、三回離婚した。プロポーズを受け取るときに別れを想定する人などいないだろう。それでも、彼女は運命のひとと三回出会い、三回別れた。その理由や経緯は、ぼんやりとした輪郭が示されるのみで、詳細には語られない。下手したらどちらから離婚を切り出したのかすら不明である。結局ここで大事なのは、ふたりの男女が出会い、いっしょに過ごすことを選択し、最後に別れた結果であり、とわ子は三回(門谷や小鳥遊との出会いを含めたらそれ以上!)も「この人となら幸せになれる」と信じたという事実だ。


それでは、大豆田とわ子の三回の結婚は失敗であり、僕たちは一生だれとも交わらず、「孤独」のまま死んでいくのだろうか。


「ソンナコトナイヨ!」と言い切りたいところだけど、僕たちは一度「さびしい」という気持ちを知ってしまったら、残念ながら死ぬまでそれと付き合っていかなければならない。三番目の夫・慎森が第9話で云っていたように、結局自分と向き合えるのは自分しかいないし、他人を頼っても根本的な解決にはならないからだ。いつから一丁前に「さびしい」なんて思うようになったのか自分でもわからないけど、いろんな人と出会い、がっかりしたり、逆に相手を失望させたり、あるいは裏切られて心に傷を負ううちに、だんだんと蓄積されたものなのだろう。とわ子が慎森に「僕はまだ君のことが好きだ。君は僕のことをどう思ってるの?」と訊かれたのに対し「元気でいてほしい」と答えたのは、そんな数々の出会いと別れ(それはとき子やかごめのように「死」の場合もある)を経た上にたどり着いた「せめてもの…」という諦めに近い希望の現れでもあったと思う。

しかし、僕がいま「さびしい」のは、その分、満ち足りた「愉しい」瞬間を知っているからだと言うこともできる。大豆田とわ子との結婚生活がしあわせなものでなければ、三人の元夫が彼女の家にあつまることもない。彼らの人生の大切な1ページに、とわ子との思い出が刻まれている。ああ、あのときは幸せだったな、また満たされた気持ちになりたいなと思うからこそ、そうでない現在を「さびしい」と感じてしまうのだ。たとえばそれはかごめと道端でばったり出会ってカレーパンを買ってあげた思い出かもしれないし、ダンスの大会に向けて一生懸命ふたりで練習をした日々かもしれない。あるいは、司法試験の勉強で追い込まれた自分をやさしく見守ってくれた笑顔かもしれない。とにかく、僕たちはそうやって「愉しい」と「さびしい」を懲りずに繰り返しながら、日々の生活を送っている。

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そして、最終回で明かされたとわ子の母・とき子の秘密は、そんな僕たちのめまぐるしく変化する「平凡」な日常に、もうひとつの示唆を与えてくれる。とき子には家庭を築いても忘れられない人がいて、しかもその人は女性だった。彼女は「解放されたい」という想いを抱えたまま死んだのだ。それでも、とき子の恋の相手・真は、そんな彼女の人生をやさしく肯定していく。大切なひとも心から愛おしく想う気持ちと、どっぷりと恋に溺れたいと願うことは一見矛盾しているようだけど、どちらも本物の気持ちで、嘘偽りはない。妻としての大豆田とき子、母としての大豆田とき子、そして、恋する人としての大豆田とき子。すべて本当の大豆田とき子なのだ、と。そして、真のことばは、大豆田とわ子と三人の元夫の関係、それからとわ子を裏切った部下の松林、しろくまカンパニーの買収を持ちかけながらとわ子にプロポーズした小鳥鳥など、このドラマに登場するすべての人びと、ひいてはドラマを見ている僕たち視聴者までをも包み込み、救っていく。どの顔も本物の「わたし」なのだという確信は、「女はおとなしく家庭に入るべき」だとか「だれだって恋愛に興味を持つはずだ」といった無責任な決めつけから、自分を護り、助けてくれるのだ。


「大豆田とわ子と三人の元夫」は、「ひとりで生きたいわけじゃない」という迷いに対し、なんら正解めいたものは示さない。いや、この問いに答えない態度こそ、まさしくアンサーなのだと言えよう。大豆田とわ子と三人の元夫の関係は、綿来かごめの死によってたしかに不可逆に変質したけれど、なにかが決定的に消えてしまったり、加わったりはしなかった。むしろ、かごめはその死のあともとわ子や八作の心のなかで生き続け、とき子はとわ子と真の人生を繋いだ(あきらかに真は「生きていてくれたかごめ」の未来の姿である)。出会いが永遠でないとすれば、別れもまた永遠ではない。そして、僕たちは一番目の夫・八作がつぶやいたように「こういう感じってずっと続くわけじゃないでしょうし」という終わりの予感だけを抱えたまま、この先の人生を歩んでいく。「永遠(とわ)だけは存在しない」という事実が、僕たちを傷つけ、揺さぶり、そして、癒やしてくれるのである。

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