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流動体について: 「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」感想

「迷おう。それが始まりだから。」のことばに誘われて、アイドルの世界の門を叩いた51,038人の少女たち。その中から選ばれた12人のメンバーが、幕張メッセイベントホールのステージに立っている。2023年2月11日・12日の二日間にかけて開催された「おもてなし会」は、そんな日向坂46 四期生が主役として舞台に上がる最初のライブだった。

見どころの多いライブだったけれど、中でも特に僕の印象に残ったのは、本編ラストのスピーチで正源司陽子が語ったことばだった。ここにその一部を引用する。

人生って選択の連続と思うんですよ。そんな選択の連続で迷ってる人もたくさんいると思うんですね。私もそうでしたし。そんな人たちの背中を押していけるアイドルっていうより、私の個人的な意見なんですけど、私はそういう時に私は隣に誰かいてほしかったんです。私は、もしそうなってるみなさまが誰かひとりでもいるのならそんな方の隣にいられるようなアイドルになりたいって思っています。

高校二年生。言ってしまえばまだ子どもの彼女の口から「人生って選択の連続」なんて大人びたフレーズが出たことに驚いてしまったけれど、考えみれば、それは当然のことだったのかもしれない。日向坂46 四期生のオーディション募集がはじまったのはちょうど一年前の3月。「日向坂で会いましょう」でCMが流れるその瞬間まで、アイドルになって多くの聴衆を前に歌い踊るなんて夢にも思わなかっただろう。それがいまや堂々と持ち曲である「ブルーベリー&ラズベリー」をパフォーマンスし、日曜深夜の隅っこでMCのオードリーに必死に食らいつこうとしている。あまりに劇的な時間を過ごす中で、たくさん「選択」の重みを実感したのだろうと思う。

僕がこのライブで感動してしまったのは、なにより12人の必死さだった。いまこの瞬間はじぶんたちが主役だ、ここから先に限りなく未来が広がっているんだと信じるその強い眼差し、観客の声にこたえる笑顔。「ドレミソラシド」や「青春の馬」など先輩メンバーの楽曲をやるにも彼女たちなりの解釈とエネルギーが宿っていたし、すべての感情をスピーチで吐き出したあとのアンコールで披露した「ブルーベリー&ラズベリー」には、いま・ここでしか出せない輝きにあふれていた。ふだんは飄々している平尾帆夏がパフォーマンス中に静かに涙を流すのを見て、僕は彼女たちの選択がどうかこのあとも幸多きものであるようにと願わずにはいられなかった。


僕も思い返せば進路選択のときに大いに悩んだ。大学受験では法学部と文学部で悩みに悩んで、法学部を選んだ。法学部のほうが偏差値高いし、法律を知っていれば将来つぶしが利くと思ったし、なにより興味のある政治が学べると思ったからだ。でも、僕の選んだ大学の法学部に政治学科がないと入ってから気づいた。それで仕方なく法学部の単位を取りつつ、社会学部で文学や政治の授業を受けて満足していた。

就職活動のときはもっと悩んだ。うれしいことにいくつかの会社から内定をもらった。ひとつは都内に本社があって家からオフィスも近い会社。給料は良いけど仕事の内容には若干の不安があった。もうひとつは世界展開しているけれど本社は地方で、そこで働くとなったら都内の生活は諦めなければいけない会社。でも、リクルーターからかなり熱心に勧誘されていたし、仕事の内容も面白そうだった。時間の猶予はあまりなくて1週間で決めなければならず、けっきょく選んだのは前者の会社。当時付き合っていた彼女と遠距離になるのが嫌だったし、いずれこの子と結婚も…と思うと、首都圏から離れる生活が想像できなかった。

いま振り返れば、後者の会社を選んだほうが冒険できたかもしれないと思う。そのあと彼女とは別れて結婚どころかまったく会っていないし、部署異動で社内でも珍しい地方担当になってしまった。立花隆が東大退官の最終講義で「数年以内に君たちは人生最大の失敗をする。」と学生たちへ語ったように、手元の情報も経験も少ないままに人生の大まかな道筋を決めてしまうような選択の波があれよあれよと押し寄せて、気づいたら修正の効かない位置にまで押し流されてしまう。僕もあれだけふたつの会社で悩んだのに、あとからエンタメ業界に興味が湧いて「どうしてテレビ局を就活の選択肢に入れなかったんだろう」って後悔した。当時はテレビ局の選考は早かったし、まわりで受ける人もいないから端から考えていなかったんだけど。選択とは、悩めば悩むほど、絶対に選んだあとに「もうひとつの道」のことを考えてしまう。仮にいまの道が正解で、この上なくしあわせにあふれるものだったとしても、だ。ないものねだりはいつまでも続く。


ダニエル・クワン&ダニエル・シャイナートによる「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」はマルチバースを舞台にした映画だけれど、ワン家の娘・ジョイがみずからのすべての可能性に同時に触れ(=Everything Everywhere All At Once)、「なにもかもどうでもいい(Nothing matters)」とニヒリズムに陥ってしまうのは、僕はすごくわかる気がした。

じぶんがいまなにをするべきか、どこに進めばいいのか、どういったことに幸せを感じるのかわからず混乱している最中に、あらゆる人生を提示されたとしたら。どこにも逃げ場がないと感じるかもしれない。じぶんの可能性を知ると同時に、限界もわかってしまうからだ。それなりに幸せだと思っていた日々を「あのときの選択を間違っていなければ年収二倍ですけどね」とか「人気小説家になる未来もあったのに」なんて言われたらショックだろうし。そういうのいいから放っておいてくれ!ってなると思う。

一方、ニヒリズムの誘惑に惹かれながらも、いままでじぶんが触れてきた愛を思い返し、たとえほとんどが無意味だったとしても、意味ある瞬間を大事にすればいいじゃないかと踏みとどまる母・エブリンの気持ちもわかる。僕だってアラサーに差し掛かって、さすがに「ビッグスターになれたかもしれないのに」とか「何者にもなれなかった葛藤が…」なんて思わないし、ふと振り返って幸せだったと思える瞬間、胸の奥に大事にしまっておきたい思い出がたくさんある。だからいまの人生をリセットしたいって考えにはならない。

エブリンの決断も、ジョイの絶望もわかる。僕の人生は、ちょうどこのふたりの中間にあるのかもしれないと思う。ジョイの葛藤の時期は過ぎたけれど、かといって結婚も子育ても経験がないし、エブリンのように人生煮詰まった状態でもない。どっちつかずの宙ぶらりん。「ほかの選択肢があっても、僕はエブリンとの人生を選ぶ。」と訴えるウェイモンドとエブリンのようにロマンチックな出会いがこれからの自分にあればいいなと思うし、その点はジョイのように未来への希望と現状への絶望でまだ混乱状態にあるかもしれない。しかし一方でものすごく狭いスペースで足踏みして悶々とするジョイには「そんなに焦らなくてもいいんじゃない」とも言いたくなる。その点は親目線と言わずともエブリンに近い感覚がある。

そういうカオスをカオスのまま受け取って、人生全肯定には至らなくても、とりあえずの現在地を確認して、なにが大切なのかを見つめる余裕ぐらいは与えてくれる、そんなおおらかさが「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」にはあるのだ。場末のコインランドリー、華々しい映画スターのレッドカーペット、高級食材を振る舞う鉄板焼のシェフ、木に吊るされるぬいぐるみ、アニメーション世界のキャラクター。世界の端っこで生きる僕たちが、たしかにそこに「存在している」と認めること。生命が生まれなかった世界の石ころのやり取りになぜだか感動してしまうのは、僕たちの地味で平凡な人生が、スクリーンの向こうと接続し、とてつもなく雄大で美しい宇宙の一部として意識されるからだろう。ミクロとマクロを行き来して、とんでもないところまでぶっ飛ばされ、いま・ここに帰ってくる、壮大なロードムービーとも云うべきこの映画を、僕は定期的に見返さなければならないと確信した。

もしも間違いに気がつくことがなかったのなら?
並行する世界の僕は
どこらへんで暮らしてるのかな
広げた地下鉄の地図を隅まで見てみるけど
神の手の中にあるのなら
その時々にできることは
宇宙の中で良いことを決意するくらい
小沢健二「流動体について」

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