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フィジカルの質を反転させるJD・ベックのドラミング

徹底的にフィジカルを磨き抜いた二人

 昨2022年に大いに話題を集めた作品として、ドミ&JD・ベック(DOMi & JD BECK)の「NOT TiGHT」を挙げないわけにはいかないだろう。

 二人は数年前からその卓抜な演奏テクニックを、インスタグラムなどの動画で公開して広く注目を集めてきた。ドミはポーカーフェイスでどんなすばやいパッセージでも完璧無比に弾きこなし、JD・ベックはうつむいたまま緻密なリズムパターンを黙々と繰り出していく。
 二人が作る音楽世界はストイックな緊張感と、それゆえに突き抜けた快楽性(=カタルシス)に満ちていた。

 個人的には、二人のうち最初に知ったのがベックのほうだった(その頃は16歳くらいか)。
 インスタはある意味フラットな場なので、プロだろうがアマだろうが、「おすすめ」で自動抽出されれば同じ目線で見られることになる。ギターやドラムのアカウントを追いかけるうちに、彼の演奏がポンとおすすめに上がってきたのだった。
 誰とも違うドラムセットで、誰とも違う音とリズムを出している……。特にドラムの「鳴らし方」という点でベックの特異性は際立っていると感じられた。調べるとすでに母国では注目されている存在だった。

 いったいどれだけ練習を重ねれば、ここまでサウンド、技術ともに磨き上げられるのか。ベックは柳樂光隆氏が担当したローリングストーン誌のインタビューで「若いミュージシャンとして一番大事なのは自分自身を研究することであり、自分のコンフォートゾーンから抜け出すために練習すること」と語っている。この言葉からも、子供の頃からひたすらに音楽家としてのフィジカルをいじめ抜いてきたことが想像できるだろう(だってまだ19歳なので)。
 また柳樂氏のnoteでは、同じくドミもいかに練習の虫だったかを日本盤ライナーノーツと先のインタビューを補完する記事が書かれている。耳を鍛え、イマジネーションを具現化するための努力を怠っていないのだ。
(そのnoteの記事の後半は、短くまとめられたカート・ローゼンウィンケル論としても読める。有料の価値ある、とても濃厚な記事だ)

「NOT TiGHT」は「楽曲」があまりにポップでスタイリッシュで、彼らがどれだけシリアスな音楽家なのかを束の間忘れてしまいそうになる。……いや、忘れてしまうように作られているのかもしれない。ベックのドラミング自体もそういう性質のものなのだ(理由を後述)。

 インタビューで印象的なのがベックの「大体セクションごとにしっかり曲を書いていて、その場の即興で作られている感じがあまり出ないように、インプロのための空間は注意深く作るようにしている。一方で、リハーサルを重ねているような感じがしないようにもしているね。」という発言と、それに続くドミの「書いたように演奏するけど、つまらなくならないように広げてもいくという感覚。常に自分たちとリスナーを驚かせたいから」。
 そうした発言からは、高度な演奏技術を自分たちの楽曲のために奉仕させる姿勢がうかがえる。ハービー・ハンコック(レトロ・フューチャリスティックな起用の仕方だ)まで登場するアルバムゲスト陣は豪華だが、彼らの扱いも同列に聴こえることも、彼らのマインドを証明しているだろう。
 テクニックを所与ものとし、いかにポップな音楽としてパッケージできるのか。そんな彼らの意図は、本作がまるでディズニー映画のオーケストラ曲のようなトラックで始まって、ラストもそのリプライズのように閉じられることでも補強されているようにも聴こえてくる(ドラム不在なのだから)。
 このスコアも彼らのオリジナルだし、ドミがフランス国立高等音楽院〜バークリーという経歴をもつのもうなづけるというものだ。

JD・ベックのドラミング

 2000年代は、これまでになくドラム〜リズムそのものが注目された時代ではなかろうか。それは、これまでに何度も述べているがJディラ以前以後、というリズム革新のくくりがあるからだ。
 しかし、ベックの指向性というのはそのモードとも異なるように思える。つまり、先述した「響かせ方」と「存在感」を塗り替えているのがベックなのではないか……彼がドラムにおけるフィジカルの質的反転を起こしたと、個人的に考えてみたからだ。

 ロックやソウル、はたまたジャズを考えれば、いつの時代においてもドラムにおいて重要視されてきたのは、複雑なリズムパターンを弾きこなせる演奏力やリズムアプローチ上のアイデアが生む「質」と、打音のアタック感、打音の重量感、ドラムキットの一体的な鳴らし方などの「(質)量」とを両立させることだろう。
 それはディラ以後であっても「ヴードゥー」にジェイムズ・ギャドスンが欠かせないように、ソウルクエイアンズにクエストラブが欠かせないように、「ブラック・レディオ」にクリス・デイヴが欠かせないように、2000年代に入ってドラムに求められるモードが変わったしても、質と(質)量の関係性で等価を保つことがよいドラマーの条件であることに変わりはなかったように思う。その等価性を担保にシグネチャーサウンド(=存在感)を練り上げていた。

 だが、ベックはその等価関係をさらっと乗り越えてしまった。 
 彼のドラムの鳴らし方は、軽い。しかし、上滑りするような軽さではなく、余計な響きを削ぎ落としてなお残る音……そんな「軽み」がある。これまでの重要な評価軸であった「手数の多さ」とは異なる「打音」の多さは、余白なくストロークを持続するためにたどり着いた表現方法なのだろう。
 彼のキットに余分なタムはないし、フロアタムだってハイハットの真下にある。オートパイロット状態になったときに、もっとも効率がよい配置であるはずだ。ほとんどの場合は腕を大きく振らず、力になるべく頼らず叩いてるように見える。スティックの自重で落とすようにすることで、スピードとグルーヴを両立させているのだろう。うつむいてとにかく集中を持続させないと、あっという間にコースアウトしてしまうのではないか。

 加えて彼のセッティングはどれも残響が短くなるようにチョイスされているし、バスドラムもスーパーローを蹴り出す楽器ではなくなっている。テクニックと道具の相乗効果で異次元の軽みと切れ味の鋭さが表現できるのだ。それを彼は自分のシグネチャーサウンドとして磨き上げた。
(大振りに叩くときでさえ、スコンと抜けないのはこうしたセッティングのせいもあるだろう)

一点突破の不器用さ

 「NOT TiGHT」を聴いていていちばん忘れてしまうこと(と同時に忘れてはいけないこと)は、ドラムが打ち込みではないということだろう。しかし、先述したように、それ自体JD・ベックの意図なのではと思わせる。
 完全な打ち込みやフィンガードラムによる演奏と聴こえてもおかしくないほど、「ありえない」フレーズが頻発している。そもそも、ベックがビートメーカーが作ったトラックであるかのように叩いているは誰の耳にも明らかだ。本作ではそうした音作りを以前にも増して意識しているので、より人力離れしたグルーヴに満ちているのだった。
 録音では人力であることを忘れてしまい、演奏を見て初めて度肝を抜かれるという事態が起きることこそ、彼のスタイルの肯定になりはしないだろうか。
 だがいっぽうで、シンバル一枚の叩き分けを聴けば、それが卓越したドラマーの演奏であることも理解できたりするのだった。

 それで思い出すのが、トータス のジョン・マッケンタイアの2007年のプロジェクト「Bumps」だ。サンプリングされたブレイクビーツの人力化を企図したプロジェクトで、エディットされたドラムループ「っぽい」グルーヴを生演奏で再生成することで批評性が生まれていた。マッケンタイアもベック同様に、そのドラムサウンドにエフェクトをかけて人工的なサウンドを作っていた。それもあって二人は、思想としては同一線上にいるといってもよい。

 しかし、ベックの演奏はマッケンタイアのようなねじれや批評性を感じるわけではない。彼の口から練習や努力という言葉が何度も聞かれるように、ベックのそれは必要に駆られて編み出したスタイルのような感じがする。器用を通り越した、一点突破の不器用さというべきか。
 ほかには、ネイト・スミスの2018年作「Pocket Chnage」も思い浮かぶ。スミスはフィアレス・フライヤーズではベック以上のミニマムセットで延々ファンキーなループを叩いているが、やはりベックのベクトルとは異なる力感がみなぎっている。また「Pocket Change」は完全なドラムソロでありながらメロディラインが浮かんでくるようなふくらみがあって、系譜としてはバーナード・パーディの流れにいるのかもしれない。

 繰り返しになるが、ベックの場合の質と(質)量の関係性は、質に振り切っている。作曲の際に「筋肉を忘れる」と先のインタビューで発言していたが、まさにそれは彼のドラミングそのものだ。脳から直接腕にパターンが出力されているかのようなのだから。
 私が「フィジカルの質の反転」と呼ぶのはこういうところで、ビートメイクを人力で再現するのではなく、ベックは自分を端末としたドラムマシンであろうと演奏しているかのように感じられてしまう。これまでの評価軸から大きく離れるこの反転をもって、JD・ベック以前以後で語られる日がくるかもしれない。
 Youtubeにはベックの奏法解説をする動画がアップされているが、どれも「ドラムの音」の域出ないし、技術的にも遠く及ばないのも言うまでもない。

 ところで、単なる語呂合わせなのだろうが、本作はDOMiの表記と揃えて楽曲名も「i」がすべて小文字表記している。「i=私」を背面化させて楽曲の完成度を至高とする二人のスタンスの現れと、つい捉えたくなってしまう。

 JD・ベックもスナーキー・パピーの弟子筋であるし、ダラスってすごい街だ……。

(了)

※写真はJazz Radioより

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