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チャールズ・ステップニーの未来とJディラの過去

*日本盤CDを聴いて若干の修正を施してあります。

ローファイの裏にある未来

 様々な方がすでに書いているように、発掘音源として発売されたチャールズ・ステップニーの「Step on Step」は素晴らしいアルバムだった。聴きこんでもよし、流しっぱにしてBGMにするのもよしで、Spotifyで夜な夜な再生している。
 1970年前後の一人多重の宅録なので、4chテープにピンポンしながら形にしたと思われ、決してハイファイではない。だが、インティメイトな質感をもった、チャーミングな作品集というトータルな装いには、その音質も貢献していた。
(たとえば、『That’s the Way of the World』のイントロ前には、咳払いにリヴァーブがかかっている)。
 ただ、ローファイとはいえ、ミッドの粘りはさすがという感じがする。聴き応えがあるのは、ここら辺に起因するのかもしれない。
追記:録音年代による差なのか、ダビング回数による差なのか、楽曲ごとの音質にばらつきがある。例えば7曲目『On Your Face』は飛び切りの鮮度感で、シンセのうねりが見えるかのよう。

 本作の第一の意義は、チャールズ・ステップニーという偉大な才能が、こうした「極めて個人的」な音源・音楽の断片を残していたこと、そしてそれが後の彼の作曲やプロデュースワークの萌芽を見せてくれていることだろう。
 EW&Fの『That’s the Way of the World』の自演版はもちろん、テリー・キャリアー緒作にも通じる内省的なサウンドを、この宅録からも十分に聴き取ることができるはずだ。

 習作であるものの、楽曲自体の素晴らしさは私が改めて書くまでもない。私がここで試みたいのは、「チャールズ・ステップニーの未来」を想像し、その先と接続させてみることだ。
 そのヒントとなるのが、本作の中でほとんど鳴り続けているドラムマシンと、冒頭と中間とに収録されたステップニーのメモ的な音源である『Roll Tape』と『Surround Stereo』の存在だった。

ドラムマシンとグルーヴの整理

 ドラムマシンを使ったブラックミュージックといえば、即座にスライ&ザ・ファミリー・ストーンの「暴動」や「フレッシュ」が思い出されるし、スライ・ストーンも宅録的・一人多重録音的な気質を持ったミュージシャンだった。どちらもベーシックトラックにスライが幾重にも自分の演奏を重ねたことが知られていて、その同期のための基準信号にドラムマシンが必要とされたのだ。
 その結果、「暴動」や「フレッシュ」が投げかけたのは、いま風に言えばファンクの「グリッド化」の促進だった。特に「フレッシュ」ではドラムマシンに加え、アンディ・ニューマークの比類なきドラミングを掛け合わせることで、揺れを極端に抑えてジャストのタイム感を追求することになった(ドラムマシンは当然アナログテープなので実際は揺らいでいたとしても)。
 それまでのブラックミュージックで必須とされた生のドラムを図らずも排除し、ドラムマシンで新しいファンク・グルーヴが生み出せる……。そう証明したのがスライ・ストーンだったのだが、ステップニーはそれよりも少しだけ早く、たった一人の実験を行っていたというわけだ。


 ローファイの中に漂う、メロウな鍵盤とコーラス、そして整理されたグルーヴ。当時のステップニーは少し先の未来を聴いていたわけだが、50年弱を経たいま聴くと、まるで現代で意図したかのようなサウンドで響いてくる。それこそステップニーの先見性の証明だろう。
 ステップニーというと、ロータリー・コネクションやテリー・キャリアーに代表される、ソウルとオーケストレーションの融合の側面が、レアグルーヴの文脈などで語られてきた。
 しかし、本作の登場によって少し聴かれて方が変わっていくのかもしれない。ステップニー版とEW&F版の『That’s the Way of the World』を聴き比べると、EW&F版は原曲の整理感をそのまま拡大かつ細密に投射したかのようだ。EW&Fを聴くときにはハーモニーの構造よりも、グルーヴの粒が見えるかのような音場に耳がいく。ジョージ・マッセンバーグの手腕も無視できないのはあるが、それはステップニーの意図の現実化と言えるだろう。

追記:日本盤ライナーには冨田恵一氏による『That’s the Way of the World』についての卓抜な分析・推察がある。私の解釈が逆だったことがわかるのだが、このままとする。
だが……EW&F版をもとに一人で録り直したということはそれこそ「整理」を進めていた、ということかもしれない。

ステップニーとマッカートニー

 そして「Step on Step」と同時期の一人多重録音・宅録作としてポール・マッカートニーの「マッカートニー」と比較しないわけにはいかない。もちろん、クリエイターの習作である「Step on Step」と、最初から商業作品として「素朴な手触り」を狙っている「マッカートニー」とはベクトルがまったく違うものだ。
 でも、その端的な違いこそがまたおもしろい。つまり習作なのに整理を狙っている前者と、商業作品なのに揺らぎを意図した後者という構図が見えてくるからだ。基準信号を外に求めたステップニーと、ドラムも自分で演奏して基準信号を内製化したマッカートニー。
 写真を見る限りステップニーはドラムが叩けるはずだし(15曲目にも生ドラムが聞こえてくる)、このくらいの一人多重でドラムマシンがかならずしもいるわけではなかろう。それでも、彼はドラムマシンを選んだのだ。
 ヒップホップ以後の現代に響いてくるのは、どちらだろうか。決して優劣の話ではなく、未来を幻視する力の話だ。

クアドラフォニックのアフロ・フューチャリズム

 そうするとやはり、未来を幻視する力=「アフロ・フューチャリズム」について考えざるを得ない(同名の著作は未読で、いつか読みたいのだが)。ステップニーにとって宅録機材は、フューチャリスティックな音の乗り物だったに違いない。オーケストレーションとしての「未来」が頭の中で再生できる程度に音を重ねられて、かつそれ単体での鑑賞に値するクォリティが生まれているのだから。そうした営為を可能にするパワーを持ったガジェットなのだ。
 その証拠が『Roll Tape』と『Surround Stereo』だ。本作をコンパイルしたときの肉声のSE的なおもしろさもあって、この2つの音声を残したのかもしれない。だが、これらは本来2つで1つのテスト音声だ。『Roll Tape』では「Left Channel , Front」が第一声で、『Surround Stereo』(そのままのタイトルだが)では「Right Channel , Rear」が第一声なのだ。だからこれは単なる左右の位相チェックではなく、クアドラフォニック(4ch)オーディオでのデコードを前提とした音声チェックだったと考えるとどうだろう(だから声の定位する位置も異なる)。
 つまりステレオフォニックが正統進化した未来として、クアドラフォニックに大いなる期待をしていたのではないだろうか。後者では足音が移動していき、「Surround Stereo!」と声を上げる(声の移動もある)。その楽しげな声こそ、未来のサウンドを夢見たステップニーの声だった。

 おそらくは4ch再生が製品化された1970年(またはその前年か)にオンタイムでクアドラフォニック再生を「体験した」ステップニーは、自身のオーケストレーションに包まれる聴取体験を夢想したのかもしれない。だが、それも技術的なブレイクスルーを果たすことができずに、各社が撤退して幕切れとなる。
 ステレオフォニックとは体験の質が異なる、真の意味でのサラウンド体験は21世紀を待たねばならず、ステップニーはその遥か手前で生涯を終えてしまう。
 いささか荒唐無稽かもしれないが、それだけの想像を掻き立たせるサウンドが「Step on Step」には収められていた。
※日本盤CDライナーにもそうした記述はないので筆者の推量となる。

Jディラとゴーストの基準信号

 ステップニーが一人多重録音で残した未来が着地した先のひとつは、Jディラだろう。サンプリングというのは、外に求めた基準信号を内製化するプロセスだからだ。その内製化から真に革新的なグールヴを精製した極北として、ディラ以前・以後が語られるようになる。
 同時に、音楽におけるサンプリング(や打ち込み)は、録音のゴーストの力を借りる芸術手法だ。録音のその成立動機に遡って「過去を現代にリクリエイト」する。それがヒップホップの生み出した価値のひとつだろう。
 ディラは基準信号の内製化の作業を、そもそもは地下室のチャールズ・ステップニー同様、ビートメイキングとして一人で行っていたはずだ。そのときに、クラシックとしてステップニーが手掛けた作品も聴き、一度ならずサンプリングしていたかもしれない。その想像は興味深いものだ(マッドリブやATCQはサンプリングしているわけで)。
 なにしろ、Jディラも故人であり「Step on Step」は、その断片すら聴きようがない。それでも、ステップニーとディラを並べずにはいられなかったのは『So Far To Go』のような、フューチャリステイックなサウンドが残されていたから。そしてビートメイキングの手法こそチャールズ・ステップニーが「Step on Step」で求めていたものではないかと、感じずにはいられなかったからだ。だが、これはあくまで私の主観的な妄想の類である。
 とは言え、リズムキングやドンカマのリズムに生音を乗せてグルーヴさせる手法は、おそらくヒップホップ以後に再評価されたはずだ。それならば、遅れてきた未来と先にあった過去が2022年に触れ合ったとしても、おかしくないかもしれない。

 あるいは、マディ・ウォーターズとハウリン・ウルフのアルバムを手掛けながらも全拒否されるという経緯も、単にエレクトリック・サウンド云々の話ではあるまい。そこには「グルーヴ観」の違いがあったのだろうし、己の信念のためにマディやウルフを「素材(ネタ)」として使いすぎたのかもしれない。やはり早すぎたのだ。

 チャールズ・ステップニーが「Step on Step」を残していたこと。音楽家でありプロデューサーであった人間が習作を作り溜めていた事実は、どうしてもビートメイカーがスナップのように音源をセーブしておく営為と同質のクリエイティヴィティを感じさせる。
 そんな意味からも、チャールズ・ステップニーの未来とJディラの過去とを、つなげて書いてみたくなったのだった。(了)

※タイムリーにデイヴ・クーリーへのインタビュー記事が公開されていた。とてつもなく興味深い内容で必読。いつもながら、柳樂氏の聞き巧者ぶりはすごいです。

 上記のインタビューに掲載されたスタジオ写真でどでかいATCのモニターが見える。ATCでモニターしているだけで信頼できる(ATC愛があるだけなのだが
)。ちなみに、カート・ローゼンウィンケルがATCを自宅用スピーカーとしていた。音楽評論家でエンジニアの高橋健太郎氏もATCでモニターしている。

※冒頭写真はringsより

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