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出産立会い記録

この記事は、ぼくが第一子の出産に立ち会った際の記録です。
記事作成時現在、出産から10日ほど経っています。

予定日

2024年1月3日(水)、予定日当日。
お腹は大きく、妻も「もうこれ以上は無理」と溢すほどに成長している。
それでも陣痛はなく、蹴り破って出てこようとしているんじゃないかと疑うほど元気に胎動している。
ここまで妊娠している時間さえ楽しんでいるように見えた妻にも、幾らかの焦りが出てきた。

定期検診日〜入院

出産予定日を過ぎても、特に動きがなければ毎週の検診がある。
1月5日(金)が定期検診の日だった。いつも通り車で送迎をした。
帰りの車で「41週超えたらダメだから、来週入院するって〜」と妻から聞いた。入院日は1月8日(月)になった。

家に着いて昼食の準備をし、一緒にご飯を食べた。
予定日以降、まだかな〜と呟く回数が増えていた妻の表情は緊張しているようにも見えた。
入院することが決まると、どれだけ赤ちゃんがのんびり屋さんでもお腹出てくることになる。
今まで待ち侘びていたはずだが、一転して大事な試験の日が近づいているような緊張を感じた。

入院日

1月8日(月)8:30、大きなバック3つ分の入院セットを持って病院へ。
この段階で、すでに妻の緊張は覚悟に変わっていた。「まぁどうせやるしかないし!」という感じだった。(すごい)

荷物を運び、早々に自宅に帰らないといけないぼくは、内心で「このまま2人とも失う可能性がある」という事実を改めて認識していた。
妻の前ではあくまで冷静で、妻と同じような気持ちでいるように振る舞った。

入院当日は検査を行い、子宮口の開き具合、子宮の硬さ、赤ちゃんの位置などを調べることになっていた。
検査の結果、陣痛促進剤を使うには子宮・子宮口の準備が整っていないらしい。
明日、子宮を柔らかくするお薬を投与して様子を見ることになった。

友人が安産祈願いってきたよ!と連絡をくれた。
人に祈ってもらえるなんて幸せなことだ。
妻にも伝え、にっこりしていた。

入院2日目

1月9日(火)
予定通り、子宮を柔らかくするお薬を1時間おきに飲み様子を見たようだ。
妻が心配だったが、連絡する限りではかなり余裕があるようだった。「お腹の中が心地いいからぷかぷか浮いてるって〜〜笑」と連絡をくれた。
火曜日と土曜日はフレンチが食べれると聞いていたのに、それは産後の入院期間中だけだということにやや憤慨する程度には余裕なようだ。

面会時間は15:00〜17:00と決まっていたが、産前は面会できないらしい。

夜、電話で状況を確認した。薬を飲んでも何の変化もないことにやはり多少は不安を持っているようだった。
明日、また別の薬を使ってさらに子宮・子宮口の準備を整えるとのことだった。妻はその薬が25,000円することがもったいないと嘆いていた。
この際お金なんてどうでもいい・・・

入院3日目(出産当日)

1月10日(水)
昨日の薬では思ったような効果がでず、別の薬を使うことになった。
自宅で悶々としていると色々と心配になるものだが、妻は色々考えずに済んでいるらしい。このメンタルの安定感はやはりすごい。

午後、薬を使用して様子をみているとの連絡を受けた。

16:00、「だんだん痛みが出てきている。薬が効き出すのは半日後だから夜から進むかもしれない。」との連絡を受けた。
いつでも病院に急行できるよう、準備をして待機。

20:00、聞いたことがない苦しそうな声で「これる?」と電話があった。
「すぐいく!」と答えて電話を切った。
ぼくは耳がキーンとして頭が真っ白になりそうだったので、安産祈願に行ってくれた友人に電話をし「行ってくるわ」と伝えた。「はよいけや!!」と言われて頭が再度動きはじめた。

20:30、謎に忘れ物をしてもたついていたら30分かかった。
急いで分娩室へ入ると、見るからに手練れの助産師さんが「がんばってるよー!」と元気に声をかけてくれた。
分娩台の上で、機械をつけた妻はすこし紅潮した顔を歪ませていた。
ぼくに気づいて「ありがとう」と一言。こっちのセリフだわ。

20:30の時点ですでに相当の強さの陣痛があったようで、分娩台の横に置かれた機械からは陣痛の強さを示すグラフが印字された紙が大量に垂れ下がっている。
ぼくの感覚で3分おきに10秒くらいの陣痛がきているようだった。
陣痛のたびに、今まで見たことがないような表情で苦しむ妻を見て胸がギチギチ痛かった。
分娩室は夫にとっては、無力痛感室という感じだ。

10分おきに助産師さんが様子を見にきてくれるが、それ以外は2人で分娩室にいた。

破水

21:20、陣痛の間隔が少しずつ短く、陣痛の長さが少しずつ長くなっているようだった。
突然、「ボフっ」と人体から出てはダメな音が聞こえた。破水した。
妻は「あっ、きた」「このボタン押して〜」とナースコールを押すように言った。分娩してる人とは思えないほど柔らかいトーンだ。できるだけいつも通りに「OK!」と応じた。

助産師さんはとびきり明るく「うん!いいね!綺麗に破水しました!」と褒めてくれた。この時に限らずベテラン助産師さんは常に妊婦さんの感情を適正な範囲に保つよう、選び抜かれたワードを組み合わせて声をかけてくれる。不安を煽らず、士気を保ち、自信を与えるようなワードと語気を持っている。プロだ。
「お水とか飲ませてあげてね」とぼくにも仕事をくれた。

破水以降、陣痛は強く、長くなっていった。
分娩台の横にある機械の数値と、陣痛の強さに規則性があることを発見し、陣痛がグッと強くなる前に機械の数値が上がり始めることがわかった。
痛みを強く感じ始めると妻の体は硬直し手を握ることはできなくなるため数値が上がり始めるタイミングで手を握るようにした。
陣痛の合間に妻と目が合うことがあり、ぼくは無理にでも口角をあげて微笑んで見せるようにした。

破水以降も助産師さんは間隔をおいて部屋に入り、骨盤が徐々に開いていることや、いきみの角度が正しいことなどを伝えてくれる。

こうしてあっという間に2時間が過ぎた。

22:45、赤ちゃんの頭が骨盤を押し広げるという重要なステップが完了したらしい。「髪の毛見えてるよ〜」と言っていた。(もうこの時点でぼくは物理を無視して進行する分娩に圧倒されている。)
ベテラン助産師さんが仲間を呼び寄せ始めた。
2人の助産師さんが入ってきて手早く準備を進める。いろんな機械のスイッチを入れたりしている。
助産師さん3名が替わりばんこに声をかけ、いきみを促す。この全員が声かけの内容で連携している。達人芸を見ているようだった。
おそらく最後まで「もう少し」などの言葉はかけないのだろう。代わりに「上手〜!」「赤ちゃんも頑張っているよ〜」などの声をかける。
ぼくは不用意な言葉をかけることがないよう、手を握り、口角を上げた状態で妻を見つめることだけに徹した。

出産

陣痛がおさまる時間が短くなり、ひっきりなしに陣痛がきている。
助産師さんが「弱いのは逃していい」と言っていた。
おそらく、この時点でいつ出てきてもおかしくない状態だったのだろう。
助産師さんのアドバイス通り、妻は1つの陣痛でいきまずに力を温存した。
次の陣痛、助産師さんの掛け声に合わせて妻が力を入れる。
「はいっ、う〜〜〜〜〜ん!」
「もう一回、う〜〜〜〜〜〜ん!」
「はいっ、休憩〜〜、ん??まだいける?はい!う〜〜〜〜〜ん!」「う〜〜〜〜〜ん!!」「旦那さん動画!」
「は〜い!出た〜〜〜〜!!」

23:00、言われるがままに動画をiPhoneを構えて動画を回した瞬間に、画面に赤ちゃんが現れた。
妻は上体を少し起こして、赤ちゃんを見た。いまの今まで、命をかけた戦いをしていたとは思えない穏やかで慈愛に満ちた表情だった。
意識ははっきりしているが、少し顔が蒼白な妻に酸素マスクが装着された。

ぼくは、一瞬涙がぐんっと込み上げて引っ込んでいくのを感じた。
あらゆる感情が同時に押し寄せ、感涙の出番が一瞬で終わったようだった。

産まれてきた、赤ん坊は体を拭いてもらい、保温機(?)らしきものに載せられている。

この間も助産師さんたちが猛烈に働いている。
医師が呼ばれ赤ん坊と妻の状態を確認していた。
医師の確認後、赤ちゃんは計量のため一時分娩室を出た。
その間、妻に何か声をかけたような気がするがあまり覚えていない。

1つだけ鮮明に覚えている。ぼくより先に妻が「ありがとう」と言った。
まじでこっちのセリフだろと思い、変な顔になった。
この数時間の間、妻がぼくを気遣っていることを何度か感じた。
理由はわからないが、口角を上げているぼくが不安げに見えたのか?
だとしても、ぼくに気を回す余裕などあるはずもないと思うのだがどういうシステムなのだろう。

出産直後

そうこうしているうちに、ラベルに体重が記載され赤ちゃんが戻ってきた。
【3,454g】立派な数字だ。この際、数字などどうでもいいが妻が大事に育てた宝物の大きさに誇らしさや感謝を覚えたと思う。

まだ体になにか付着している状態で赤ちゃんが妻の横に置かれた。
よく見るシーンだ。完全に母親の顔になった妻が、ありったけの慈愛を込めて我が子を見つめている。完璧じゃんと思った。

続いて胎盤の重さは「1kg」。助産師さんが教えてくれた。調べたところ大きい方らしい。出血量は450ml。中量らしい。(どこがだよ)この数分で、妻の体内から5kgほどのものが出てきたことになる。はやり物理的に無理なことをしている。

医師は引き続き、妻の容体を確認していた。いつの間にかいた看護師さんに何か指示をしている。縫合が始まるようだった。
物理的に無理なことをしているため、当然のように妻は裂傷を負っている。幸い(どこがだよ)綺麗に裂けているとのことで医師が一人で縫合を始めた。なるべく傷口は見ないようにしていたが、その縫合作業の長さでどれほどの傷があるかは想像できた。

出産後2時間

妻の傷の縫合、子供の処置が完了し集合していた助産師さんや医師は退室していった。
バトンタッチした看護師さんが何かを説明してくれて、少しの間分娩室で過ごすことになった。

赤ちゃんを抱いて、ゆっくり動いてみた。
15歳差の妹を抱いていたことがあったので、特に不安なく抱っこできた。
バスタオルごしにも伝わるくらい体温が高く、呼吸も脈も早い。
後頭部が尖っている。件の物理的な無理をクリアするためこの子も体の形状を変形させている。
すごい毛量とまつ毛の長さが印象的だった。

すこしぐったりしている妻は、にっこりと笑っていた。
「つかれた〜」「かわいい〜」などと話していた。
ぼくは子供と妻を交互に見ながら過ごした。

心配している友達や両家の両親に報告した。

退室&帰宅

1月11日1:00、分娩後2時間が経過し看護師さんからそろそろ帰りましょうと促される。
赤ちゃんは、看護師さんに預かってもらう。妻は体を拭いてもらい休むようだ。
病院を出て、大きく一息をついた。「全員生きてる・・・すげぇ」

風呂

家に帰り、風呂で感情の整理をした。

一番は妻への感謝と尊敬だった。
もともと小柄な妻が、あんなに大きなお腹を抱えて生活していたこと。
どう考えても、サイズの合わないところからあんなに大きな子供を捻り出してくれたこと。
ありえないことをさせている。
二人の子供なのになぜこんなに妻ばかり大変な思いをしないといけないんだろう。ちょっとくらい変わってあげられないものかと、思っていた。
こうした考えの末に、妻を大切にする決意を新たにした。

次に、子供と妻への誇らしさだった。
自分の体を変形させなんとか外に出てきて、息をして手足を一生懸命に動かす。これが生命力だと感じた。よく生きて産まれてきてくれた。よく頑張った。
この子はこれから、ぼくが守るべき生命なんだと思った。
そして、命の危険を冒してこの子を産んだ妻も、ぼくが守るべき生命だと改めて思った。出産を通して、ぼくにとっての妻の重みは増した。

さらに安堵だった。
2人とも深刻な後遺症なく生きていること。
子供に現時点でわかるような障害がないこと。
最悪も視野に入れていたぼくは、こんなに贅沢なことはないと思った。

最後に、自分の両親への感謝だ。
よく考えたら自分も同じように産まれた。
「親の心、子知らず」とはよく言ったものだ。親になるまで、親の気持ちはわからない。
親が子に対してどれほどの、大きな感情を持っているかようやく理解し始めていると思う。
そして同じように、ぼくを見てくれた両親に感謝した。

これから

ぼくは普段、女性にはなるべく親切でいようと思っている。
別に明確な理由があるわけではないが、父親にそう教えられたとか
姉妹たちとの生活の中でその方が良いのだろうと実感したたからだと思う。
それは、クラスの7割を女子が占めた高校時代や、女性の方が多い経理部での仕事の際に良い効果を発揮したように思う。

今回、出産に立ち会ってみて改めて女性、こと母親という存在を大切に扱わないといけないと思った。
妊娠中にもらう雑誌に、「パパへ」みたいなコーナーがあるがだいぶ優しい表現にしてあるなと思った。押し付けがましくしてパパのモチベーションを下げないようにとの配慮だろうか。立ち会ったらそんなこと言ってられなくなる。
妊娠〜出産において、ほぼほぼ何もできないぼくは、何とかして産後の妻のケアや子育てで貢献しないと立つ瀬がない。

この記録は、これからぼくが妻や子供のために何でもしてあげようという決意を確固たるものにするために役立つと思う。

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