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わたしのスーパーヒーロー!

「途中でポテトチップス食べたこと、ママには内緒よ。」と祖母は口に人差し指をあて私にウインクした。
私もポテトチップスを食べながら「ウン!」と真似してウインクしたら、両目をつむってしまい祖母が笑った。

畑の真ん中の小道にある、丸太のベンチに私と祖母はチョコンと座ってニコニコ休憩していた。

明治生まれの祖母は高齢で母を産み、私が生まれた時には、キレイな白髪のおかっぱ頭でぽっちゃりしていて愛らしいおばあちゃんだった。

共働きの母の代わりに、小さな小さな私を連れてスーパーに買い物へ行き、重い荷物を「よっこらしょ!」と置いて日向ぼっこしながら休憩するのが祖母の楽しみだった。

歌好きの祖母は、「♪北のぉ〜酒場通りにはぁ〜♪」と、渋い演歌や、ピンクレディーを一緒に歌ったり、
3時のおやつは祖母特製ぬか漬けやおせんべいを緑茶でテレビを観ながら食べる。
絵を描くのが大好きだった私に、おえかき帳がすぐ描き終わるので裏が無地のチラシを沢山束ねてホチキスで留め「いくらでも描いていいよ!」と言い、私の描いた絵を褒めてくれた。
3歳の誕生日には、カワイイくまちゃんのぬいぐるみをプレゼントしてくれて、ほつれると「これから手術しますよー。」と魔法の手で直してくれた。

祖母は、優しくて楽しくて可愛がってくれて、いつも私の味方でいてくれる。祖母は尊敬する、
わたしのスーパーヒーロー!だった。

ある日、家族みんなで夕飯を食べていたら、突然祖母が意識を失い、椅子から崩れ落ち、救急車で運ばれた。くも膜下出血の後遺症で認知症を発症し徐々に進行していく。
ご飯にジュースをかけて食べたり、包丁を手に持った祖母が小学校から帰った私に「お前はだれだ!」と言ったり、家からいなくなってしまい、探し歩いた兄がおんぶして連れて帰ったりしていた。

私は祖母に何もしてあげられなかった。

しばらくして、専門の病院へ入院し、一度だけお見舞いへ行ったが、変わり果てた祖母を見ることは子どもだった私には耐えきれず、次に会ったのは祖母のお葬式だった。

「オバケだぞー!」と祖母が元気な頃に冗談で言っていたので、亡くなった時「オバケでいいからさ、おばあちゃんに会いたいよ。」と空を見上げ、ほっぺたにポロリと涙が落ちた。

・・・・・

30代で、私は高齢者デイサービスの職員になり、祖母にできなかったことを、仕事でみなさんのお役に立ちたいと思っていた。

資格とりたてホヤホヤの私をベテラン職員さん、パートさんは温かく迎えてくれた。

パートさんの中には、親御さんの介護を終え、その経験を活かして働いている方もいて、私に「オシャレして来てね!ご利用さん達が喜ぶのよ。自分だって、キレイな格好でお話してもらえたら嬉しいでしょ?もちろん、動きやすくて、安全で、清潔にということを前提にね。」と言われ、目から鱗だった。

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(この後は、個人名を控えるため、ご利用者さん、ご入居者さん達をおじいちゃん、おばあちゃんと書かせていただきます。実際には一人一人の方を尊重し、「○○さん」とお呼びしていました。ご了承ください。)

おじいちゃん、おばあちゃんは、老いていくことへの戸惑いや、愛するご家族へ負担をかけることに悩みながらも、慣れるまでは、よくわからないデイサービスに通うことに不安のある方も多かった。

人生の終わりに向かう時間をどう過ごすか?
老いゆく自分をどう受け入れるか?
日々、葛藤しているご様子だった。

デイサービスは、そんなおじいちゃん、おばあちゃんに寄り添い、ご自分だけでは出来辛くなったことを手助けし、出来ることや得意分野を引き出して、日常に楽しみを持ってもらえるよう、サポートする場所である。
そしてご家族にもデイサービスの時間に、安心してお仕事や、家事をしたり、気持ちもリラックスしていただけるように。

デイサービスでは、

朝、車でお家にお迎えに行き、皆さんで会話を楽しみ、健やかに過ごせるよう体操やリハビリをしたり、ご利用者さんも職員も一緒に大きなテーブルを囲み昔の大家族のようにワイワイお昼ごはんを食べた。

歌いながらお風呂に入ったり、趣味の時間や、「今日のおやつは何だろな?」なんてニコニコ話しながらお散歩した。ティータイムの後、それぞれゆっくり過ごす。
帰りの会では、ある歌の歌詞を「♪あなた、な〜んだい」というところを「○○さん♪」「は〜ぁい!」と、名前を呼び合いながら歌い、帰りの挨拶をして、車でお家まで送る。

こんな日課だった。

いろんなおじいちゃん、おばあちゃんがいる。

あるおじいちゃんは一言も喋らなかった。
不安から施設の中をずっと歩き、いつもそっと横について歩いた。
そのうち私が廊下でつまずいたりすると、「大丈夫か?」と短く呟くようになった。
そのおじいちゃんは書道がお得意で、左利きで字の下手な私が「とてもお上手ですね!」と思わず口に出しても無言で書いていた。
そのおじいちゃんのお誕生日の日、他の皆さんとは一緒のテーブルにはつけなくて離れた小さなテーブルにケーキが置かれ、静かに座っていたが、他の皆さんがおじいちゃんに向け、「ハッピーバースデートゥーユー♪○○さん」と歌うと、おじいちゃんは 無言で涙を流していた。

あるおばあちゃんは、お昼ごはんの時、緊張と不安が高まり、手に持った熱いお茶を投げた。咄嗟に避けたが少しだけお茶がかかった。とてもビックリしたし、熱かったけど、ここがどこだか分からない、眼の前にいる私も誰だかも分からない、不安で辛いんだろうな、私の祖母と同じ気持ちなんだろうなと思った。時間をかけて慣れてくださり、「奥さん!」と言って歩み寄ってくださった時は嬉しくて涙が出た。

いつも元気で愛嬌があるんだけど、いろんなことを直ぐ忘れてしまうおじいちゃんは、長年彫刻のお仕事の職人で、その技術を活かし、お部屋の看板を依頼したら物凄い集中力で立派な看板を作ってくださった。
娘さんに送迎の時「ノーギャラですみません。」と謝ったら、「いいのよー、おじいちゃんとても楽しそうにウキウキしてたし。ありがとう!」と言ってくださった。

パートさんの発案で、みんなでおやつの桜餅を作った時、
おじいちゃん、おばあちゃんも目をキラキラさせ意気揚々とエプロンをしてバンダナを頭に巻き、分担した作業も怒ったり笑ったりしながら賑やかだった。
出来上がったピンク色の桜餅を口に入れた時、皆さん美味しそうな笑顔になった。

ある90歳を過ぎたおばあちゃんは、犬の散歩をしている人を見ては「犬も家族なんだよね。」と、涙を流し、並木道に咲く桜を見ては「来年も見ようね。」と涙を流していた。
大雪の中で必死に運転してお迎えに行くと、「こんな雪の中、お世話になるね、ありがとう。」と労ってくださった。

遠足の栗拾いでは、皆さん普段の動きからは全く想像できない、信じられないほどの素早さ!で栗のイガイガからプリッとした綺麗な栗の実を取り出し、嬉々とした表情で次々と、かごに入れる。
「そんなに拾ったら、栗代が高くなっちゃいますよ!」と静止したのも楽しかった。

お風呂も檜風呂の個浴があったりして、とても大変だったけど「いい湯だな♪」と歌ったりしながらお手伝いさせてもらった。

一番印象に残っているのは、あるおじいちゃん。
オシャレでお元気でお話好きだったのに、認知症の進行で日に日に会話が困難になっていく。
大きな送迎車には沢山の人がいて不安で乗れない。でも、個別の送迎車で朝お迎えに行くと私の顔を見ると安心して、言葉は「あー、あー」しか出ないけど、満面の笑みで手を振ってくださり、車に乗る。
献身的な介護をされていた奥様も安堵の表情をされる。
デイサービスに着くと、お話が出来なくても、いつも通りピシッとしていてニコニコ皆さんの話を聞いていた。

ある時は、おばあちゃんが「今日もやる?」と、近寄ってきて、オセロで真剣勝負をした。何度やっても私の完敗で、本気で悔しがり、おばあちゃんが「まだまだひよっこね!」と勝ち誇り嬉しそうだった。

いろんなことがあったけど、私は、
おじいちゃん、おばあちゃんからたくさんのお話を聞かせてもらい、笑顔や、幸せ、癒しをお裾分けしたもらった。

デイサービスのおじいちゃんおばあちゃんも私のスーパーヒーロー!だった。

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40代になり、私は老人ホームの職員になった。
時間と体力との闘いで、毎日大変だったが、それ以上に癒されることも多かった。

オムツ交換の合間に廊下を早足で歩くときも、食堂で椅子に座っているおじいちゃん、おばあちゃんに冗談を言ったり、祖母に教わった懐メロを歌いながら話しかけていた。
すると笑ったり、一緒に歌ったり、冗談を返してくれたりする。

不安や寂しさを感じやすいおじいちゃん、おばあちゃんに、ほんのつかの間でも笑顔でリラックスしてもらいたいと、祖母にできなかったことを皆さんにしていたが、私も笑顔になり疲れが吹き飛ぶ。

寝たきりで、お話のできなくなったおじいちゃんには、(私の母が末期がんで会話もできず、寝たきりになった時に病院の看護師さんがとても丁寧に母にしてくださった時のように)おじいちゃんに話しかけ、お食事のお手伝い、お着替えや、おむつ交換、髭剃りをさせていただいた。お昼ごはんにおじいちゃんに会いに来られる奥様ともいろんなお話をした。

おやつの時間に、皆さんでテーブルを囲み、面会に来ていたご家族も一緒にささやかな歌会をして、喋れなくていつもうつむいて車椅子に座っているおばあちゃんも、18番である♪高原列車♪だけは歌えた。

ある日、夜勤明けに、美術高校に通う息子を連れて二人で大量の画材を持って、老人ホームへ向かった。私は、フロアーの壁の飾り付けをする係だったので、5月の飾りは鯉のぼりを描こう!と決めていた。息子は一緒に描くことを快く引き受けてくれた。

朝食の時間から、昼食の時間までかかり私は鯉のぼりを、息子は紫陽花を、壁いっぱいに描いた。おじいちゃんもおばあちゃんも興味を持って見ている。

頭はハッキリしているけど足が不自由で、普段はお部屋に籠りがちなおばあちゃんが車いすに座り、息子が描く様子をずーっと見ている。「ウチの旦那はね、昔は絵描きだったのよ。」と、初めて教えてくれた。たまたま廊下をお散歩していた仲良し二人組のおばあちゃんたちにも、鯉のぼりの下の菖蒲の色塗りを手伝ってもらった。

私の描いた鯉のぼり(模造紙2枚分の大きさ)

息子の描いた紫陽花(隙間から子どもが見ている)

夜勤では、100歳を超え、たまにしかおしゃべりできないおばあちゃんのお着替えをお手伝いしていたら、私の着ていた水色のTシャツに、赤い字で「MAR○EL CO○ICS」と書いてある文字を見て、「やっぱり、女の子は明るい色の服がいいわね!」とニッコリした。昔は女の子で、おばさんになりつつあった私は、笑顔が輝くおばあちゃんに褒められて嬉しくなり、その日の夜勤は軽やかに動けた。

私はガンになり、手術と治療をして復帰したが、体力が低下し、夜勤の時、肩に痛みが走り、おじいちゃん、おばあちゃんを支えきれなくなってしまい、老人ホームを辞めることになった。介護の仕事はもうできない。

勤務最後の日、ベットに座ったおばあちゃんのお着替えをお手伝いしていたら、急におばあちゃんが私を抱きしめてくれた。おばあちゃんは認知症が進んでいたが、落ち込む私の様子を感じてなのか、「人生、上手くいかないこともあるさ、あなたの笑顔大好きよ。」と言ってくれた。おばあちゃんの胸の中で嗚咽して泣き、顔を上げてから二人で笑った。

言葉が通じなかったり、会話が出来なくなっても、気持ちは伝わる。

私は介護の仕事をしながらも、いつもおじいちゃん、おばあちゃんに支えてもらっていたのだ。

「老人ホームにも私のスーパーヒーロー!がいたよ。」空を見上げ祖母に話しかけた。

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ある晴れた日の夕方、
洗濯物を取り込みに外に出たら、ご近所の仲良しおじいちゃん、おばあちゃん達がワンちゃんのお散歩をしており、ワンちゃん達に「こんにちは!」と、じゃれつかれながら、つかの間の会話を楽しんだ。
「あら、マスク自分で作ったのー?」「洗濯物落ちてるわよ!「チューリップきれいに咲いたわね!」「息子さん元気?」たくさんの笑顔に囲まれ幸せだった。

おじいちゃん、おばあちゃんはいつでも私にとって、

尊敬する大好きなスーパーヒーローだ!

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始めの絵は、スーパーヒーロー!である空飛ぶ祖母の絵を描きました。

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とても長い文章の記事を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

この記事は、デイサービスの看護師さんをされている沖山りこさんのnoteを読み、沖山さんとのコメントのやり取りの中で、デイサービスでの体験を書くことにしました。

この「わたしのスーパーヒーロー!」では、自身の祖母のこと、デイサービスや老人ホームで、私がどんな思いや関わりをしたかを書いてみました。

以前の私の記事でも、「寝込んでいた私は起き上がり、本屋へと走った」の中で、同級生に介護職を「大変な仕事だな、お下の世話なんてできない。」と言われたことを書き、きっと体験したことがないからわからないんだろうな、と思ったり、
「真冬に思い出す夏祭りの思い出」では、入居者さん達との浴衣のファッションショーでの経験を書きました。

核家族化が進み、高齢者との接点が少なく、高齢者ってどんなことを考えてるのかな?介護って何?と思われたり、実際にご家族の介護や、介護のお仕事をされている方に、こんなことがありましたよ。と話しかけるような気持で書きました。

実際には辛くて苦しかったことも数えきれないくらい沢山ありましたが、私が最終的に思ったことは、「わたしにとって、おじいちゃん、おばあちゃんはスーパーヒーロー!だ」とういことでした。

(マガジン「娘訪問介護日記」には、ひょうきんな父と反抗期の私との現在のおとぼけ訪問介護日記を掲載しております。
よろしければこちらもご覧ください。)

真冬に思い出した夏祭りの思い出|じゅんみは @junmihappy #note #いま私にできること 



読んでくださりありがとうございます! 嬉しくて飛び上がります♪ 私の心の中の言葉や絵を見て何か感じてくださればいいなと願いつつ。