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【分野別音楽史】#08-1 ロックへと繋がるルーツ音楽の系譜(ブルース、カントリー)

『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。

本シリーズのここまでの記事

#01-1「クラシック史」 (基本編)
#01-2「クラシック史」 (捉えなおし・前編)
#01-3「クラシック史」 (捉えなおし・中編)
#01-4「クラシック史」 (捉えなおし・後編)
#01-5 クラシックと関連したヨーロッパ音楽のもう1つの系譜
#02 「吹奏楽史」
#03-1 イギリスの大衆音楽史・ミュージックホールの系譜
#03-2 アメリカ民謡と劇場音楽・ミンストレルショーの系譜
#03-3 「ミュージカル史」
#04「映画音楽史」
#05-1「ラテン音楽史」(序論・『ハバネラ』の発生)
#05-2「ラテン音楽史」(アルゼンチン編)
#05-3「ラテン音楽史」(キューバ・カリブ海編)
#05-4「ラテン音楽史」(ブラジル編)
#06-1「ジャズ史」(草創期)
#06-2「ジャズ史」(1920~1930年代)
#06-3「ジャズ史」(1940~1950年代)
#06-4「ジャズ史」(1960年代)
#06-5「ジャズ史」(1970年代)
#06-6「ジャズ史」(1980年代)
#06-7「ジャズ史」(1990年代)
#06-8「ジャズ史」(21世紀~)
#07-1 ヨーロッパ大衆歌謡➀カンツォーネ(イタリア)
#07-2 ヨーロッパ大衆歌謡②シャンソン(フランス)

今回はブルースやカントリーの系譜について見ていきたいと思いますが、その前にここで、筆者のスタンスを再表明しておきたいと思います。

現在一般的に「ポピュラー音楽史」といえばその中心にある視点が「ロック史」となっていて、「ポピュラー音楽史」を調べるとルーツミュージックからロックへと連なる物語は非常に多くの方が語っています。

これを読んでいる方も、このあたりに既にお詳しい方はたくさんいらっしゃるでしょう。

しかし、ポピュラー音楽史の語り口がロック史に独占されてしまっていることによって、「ポピュラー音楽そのものがこの範囲だけである」というように視野の狭まった認識をしてしまい、それ以外の分野は「まるでブラックボックスのような考古学的な前史」「知る必要のない範囲」という感覚になったり、酷ければもしかすると「ロック史より前の部分は全て『クラシック音楽』である」というようなとんでもない誤認知をしている方もいるかもしれません。

ですが、この分野別音楽史の冒頭の記事から書いているように、クラシックというのは非常に限定された範囲の音楽のことであり、逆に「それ以外はポピュラー音楽」という定義になります。

「クラシック史」と「ロック史」がそれぞれの視点を独占していることで何が起こっているかというと、「クラシックからはポピュラー的だとされているが、ポピュラーからはクラシック的だとされてしまっている範囲」が発生してしまっているのです。

さらに、「クラシック」も「ロック」も、しばしば自分野の優越性を主張するため、他分野を俗物・低級なものだと攻撃し、歴史記述から排除し、隠蔽します。

すると、板挟みになってしまった分野は無かったことになり、自然とジャンル間の格差が生まれ、価値観の摩擦に繋がっていきます。

クラシックの範囲について誤認している方がもし居れば、是非この『分野別音楽史』シリーズのはじめから読み直していただきたいのですが、一般的に「クラシック史」とは一番初めに書いた記事の範囲だけであり、それ以降たくさん書いてきた「吹奏楽史」「映画音楽史」「ミュージカル史」「ラテン史」「ジャズ史」「シャンソン、カンツォーネ」などは全てポピュラー音楽史の範疇であるという認識を持っていただければと思います。

その前提に立った上で、数あるポピュラー音楽の系譜のうちのごく一部として、ブルースやカントリーについてもここから見ていきましょう。


過去記事には クラシック史とポピュラー史を一つにつなげた図解年表をPDFで配布していたり、ジャンルごとではなくジャンルを横断して同時代ごとに記事を書いた「メタ音楽史」の記事シリーズなどもあるので、そちらも良ければチェックしてみてくださいね。



◉ヨーロッパの海洋進出とアメリカ植民地の歴史

まずは世界史の確認です。ヨーロッパの端っこ、イベリア半島は長らくイスラムの勢力下にありましたが、キリスト教徒達による「レコンキスタ(=イスラム追い出し運動)」が起こり、15世紀にはイスラム勢力がいなくなりました。ここに15世紀後半、スペインポルトガルが誕生。この二国が、中東の大国であるイスラム・オスマン帝国(トルコ)を通らずにその先のアジアと貿易するため、海への進出に乗り出すこととなります。

※雑な図ですみません

「地球が丸いならば大西洋を進めばインドに着くのではないか?」と航海した結果、1492年にコロンブスは偶然アメリカに到着します。ここをインドだと勘違いしたため、先住民達は「インディアン」と呼ばれ、カリブ海の島々は「西インド諸島」と勝手に名付けられてしまいました。

ポルトガル人とスペイン人たちは中南米に侵略・植民を開始し、それまであったマヤ文明、アステカ文明、インカ帝国などを一瞬にして滅亡させてしまいました。アフリカから黒人奴隷を調達して働かせ、富を得ます。

そして北アメリカ大陸へは、17世紀にイギリスやフランスが植民地進出に乗り出しました。17世紀初頭、イギリス人の「ピルグリム・ファーザーズ(1620)」「ピューリタンズ(1630)」などの植民により、大量移民が始まります。ネイティブアメリカンを虐殺し滅ぼしながら、開拓・侵略していきました。17世紀後半には、アフリカからの黒人奴隷の輸入が始まります。

18世紀のあいだ、イギリスの植民地だったアメリカにもオペラなどヨーロッパ音楽は流入。その一方で、スコットランド民謡を基調とした作品も親しまれていました。フィドル(バイオリン)が輸入され広まっていました。イギリスの奴隷船の船長が歌ったとされる「アメイジング・グレース」ヒム(宗教歌)として白人・黒人それぞれの間に広がっていました。

その後、18世紀末にアメリカはイギリスから独立となります。1775年~1783年、アメリカ独立戦争が起き、1776年にアメリカ独立宣言が発表されたのでした。



◉プランテーションソング

18世紀末にイギリスからの独立を果たしたアメリカでは、ロマン派クラシック音楽が花開くヨーロッパとは別の複合文化として、ハイ・カルチャーとはずれたところでアメリカ的特徴が定着していきました。

既に一般化していた黒人奴隷制度ですが、19世紀にはイギリス産業革命の影響による綿花需要の拡大で、プランテーション農業のための奴隷の必要性がさらに高まっていきました。特にアメリカ南部の農園地域において、非人道的で過酷な労働使役が蔓延し、苦境に耐える中で黒人たちが時に叫び、時に踊り、時に祈り、と、発展させていった文化が、のちのアメリカ音楽に影響していきます。その音楽は大きく3つに分けられます。

①スピリチュアルズ(黒人霊歌)
白人たちから教え込まれたキリスト教の考えを、自らの境遇に取り入れ、音楽として表現するようになったもの。白人讃美歌から影響を受けつつも、違いが出てくる。
 
②ワークソング
集団で歌う労働歌。作業のリーダー役が先導する「歌の一節」で仲間をリードし、仲間たちは揃ってそれに応えてリズミカルに歌う、「コール・アンド・レスポンス」がここで誕生し、その後のゴスペルなどに受け継がれた。
 
③フィールド・ハラー(野の叫び)

労働中の叫び声や呼びかけから発展し、精神的苦痛や孤独を紛らわすために自由に歌われたもので、こちらはブルースの源流に。

これらはプランテーションソングと呼ばれました。

一方で、ミュージカルにつながる「アメリカ民謡と劇場音楽の系譜」の記事で既に紹介した通り、19世紀中盤になると、バンジョー、バイオリン、打楽器、タンバリンなどを抱えた劇団である「ミンストレル・ショー」が誕生しますが、これは当時の黒人たちの音楽を茶化して面白がり、演目に取り入れたことで発達したものです。白人俳優は「黒塗り」で黒人を装い、差別的な演劇を通じて白人たちは団結を深めました。

また、スコットランドやアイルランドから、アメリカ・アパラチア地方の山脈付近へ多数の入植民が流入し、スコットランド民謡やアイルランド民謡も持ち込まれました。このような音楽は「アパラチアン・ミュージック」「マウンテン・ミュージック」と呼ばれ、カントリーのルーツとされています。

このような背景にあって、「アメリカ音楽の父」とも呼ばれるスティーヴン・フォスターはミンストレルショーに多くのオリジナル曲を書きました。黒人の境遇などもテーマにされ、アパラチアン・ミュージックや黒人霊歌風の作風で作曲されましたが、歌詞中に黒人を表す差別的な単語が用いられていました。これらもプランテーションソングとされます。

もともとフォスターらがミンストレルズのために生んだ、黒人の憂いや苦さも含んだこれらの歌は、南北戦争頃に歌だけが独立して広まるにつれ、歌詞が変えられてアフリカン・アメリカン色が無くなることで、白人中心の郷愁的な国民唱歌、アメリカ民謡へと吸収されていきました。




◉南北戦争後の奴隷解放とブルースの誕生

1861~65年の南北戦争はアメリカの経済戦争でした。南部は黒人奴隷をおもな労働力として綿花のプランテーション農業を営んでいたのに対し、北部は工業化の時代に入っており、利害の対立から5年近くにわたる戦争につながったのです。結果、北部の連邦軍が勝利し、南部の奴隷は解放されることになりました。

しかし、奴隷解放は、新たな人種差別を生むことにもなります。奴隷解放後、そのまま労働力として雇われなおされてこき使われたり、教育されぬまま社会の荒波に放り出され、また「アフリカ」も遠い過去となってしまっていた黒人たちは疎外感の中にありました。

農園時代に「フィールド・ハラー(野の叫び)」として歌われていた労働歌は戦争後も歌われていき、やがてハーモニーが取り入れられ、「ブルース」として発達していきました。特にミシシッピ州のデルタ地帯で19世紀後半に発達していったこの初期ブルースは、デルタ・ブルースと呼ばれています。

20世紀初頭になると、W.C.ハンディ(1873~1958)というミュージシャンがにこのジャンルを紹介したことで、全米に「ブルース」の語が広まっていきました。ハンディは「ブルースの父」と呼ばれていますが、実は彼の功績は黒人たちの土着の音楽を楽譜に起こして紹介したということなのです。

ハンディはクラシック音楽の訓練を受けたミュージシャンで、ミンストレルショーなどのバンドリーダーとして活躍していました。活動を続けながら南部を旅していたあるとき、1903年に、弦に押しつけたナイフをスライドさせながらギターを弾く男を目撃し、衝撃を受けます。楽譜など無かったこのような音楽をハンディは分析・採譜し、楽譜出版したことで大成功をおさめたのです。

「彼らの音楽は、音階の3番目と7番目の音が下がっている(ブルー・ノート)」というように、西洋音楽的視点からブルースを解析・体系化し、1910年以降ハンディ自身もブルースの作曲に専念します。「メンフィス・ブルース」「セントルイス・ブルース」など多数のヒット作を生み出しました。

このようなブルースのヒットは、ティン・パン・アレーのシートミュージックを通じて広まったのです。つまり、ハンディの広めた「ブルース」は、ヴォードビル音楽と同じように、都会的な洗練された音楽として拡大していったのです。このもう少しあとに、原始的なイメージを持ったギターブルースの人気が起こることになります。

一般的なブルース史観では「原始的ブルースから都会的ブルースへ」という、逆の順番のイメージで一直線的な発展史観で語られることが非常に多いのですが、実はそう単純ではありません。

クラシック音楽史と同じように、「原始的なものから複雑なものへ」という一直線の歴史観で体系化するとわかりやすくはなるのですが、そこにはかならず、時系列的に不可解な疑問が発生してきます。実際のところは、ヴォードビルやラグタイムやジャズなどの同時代音楽と相互作用を起こしながら、ブルースは発展していきました。

ジャズも当時まだ「Jazz」というスペルでは無く、「Jass(売春宿音楽)」などと呼ばれる、音楽の正式ジャンルではなかったのですが、「初期ジャズ」の実態は、ブルースや黒人霊歌などを演奏するための演奏スタイルの一つが「ジャズ」だった、という言い方もできるのです。初期ジャズの曲名に『~~ブルース』というタイトルが非常に多いのもこのためです。

このあとジャズは、音楽のジャンルとしての地位を高め、ブルースから独立して別の発展をしていくわけですが、20世紀初頭のアメリカのポピュラー音楽は、ティンパンアレーの楽譜出版を軸に、ヴォードビルの劇場音楽、ブルース、ジャズがすべて渾然一体となって「新しい都会の音楽」というイメージで広まった、と考えるのが一番妥当でしょう。

1920年には、メイミー・スミス「クレイジー・ブルース」が発表されて人気となり、これが「世界初のブルース録音」と多くの文献に記録されています。

クレイジー・ブルース以前にも白人作曲によるブルース録音は先に存在していたのですが、はじめての「黒人」による録音であったために、クレイジー・ブルースが文献に多く記録されたのです。

さらに、その後登場したベッシー・スミスは「ブルースの女帝」と呼ばれました。

このように、この地点での「ブルース」とは、ジャズと背中合わせの都会的なサウンドの象徴でした。このようなブルースは「クラシックブルース」と呼ばれます。ブルース最初期のアーティストとして、メイミー・スミス、ベッシー・スミスのほか、マ・レイニー、アルバータ・ハンター、エセル・ウォーターズ、リロイ・カー、クート・グラント、クララ・スミスなどといったレジェンドたちの名前が残っています。


この時期の蓄音機はまだ、電気を使わない「アコースティック録音」の段階でしたが、マイクを使った電気録音によるレコードが1925年に開発されます。

そしてこの時期から、「ジャズ」が独立したジャンルとして大きな発展を遂げた一方で、「ブルース」の受容にも変化が起きていったのでした。



◉「レイスレコード」の人種的分断とブルース

「クレイジーブルース」のヒットをきっかけに、黒人購買層の存在に気付いたレコード会社は、人種レイスレコード」を立ち上げました。

もともと通常のポピュラー音楽と同様の並びだった「ブルース」は、1923年以降、レイス・レコードの部門が立ち上がってから「ブルース」「ジャズ」「ラグタイム」などと細かく分類され、白人市場に届かなくなってしまいました。

レコード会社のマーケティング戦略により、曖昧だったジャンルの境界が「人種的なもの」として明確に可視化されてしまったのです。また、マイクによる電気録音が可能となり、ギター弾き語りのレコーディングが容易になったことも影響し、それまでの「バンドを携えた華やかな流行音楽」から一転、「ぼろ着を身にまとい、悲しみの表情を浮かべた黒人が一人ギターを引っ掻いて・・・」といったイメージの原始的な"フォーク・ブルース"が音源として登場することになります。

1926年のブラインド・レモン・ジェファーソンのレコードがそういったブルースの最初の音源として認識されています。

その後、チャーリー・パットンサン・ハウスミシシッピ・ジョン・ハートスキップ・ジェイムズ、ブラインド・レモン・ジェファーソンなど、多くのレコードが発売され、1930年代以降になると、ブルースファンに最も評価の高いロバート・ジョンソンが活躍しました。レッド・ベリー、ビッグ・ビル・ブルーンジー、ライトニン・ホプキンスなども登場し、現在重要なルーツアーティストとして名前が残っています。

現在のよくある「ブルース史」では、これらのアーティストによるブルースが一番初めに「デルタブルース」として紹介され、場合によっては戦後のシカゴブルースなどとも合わせて紹介されます。そして、ジャズバンドを携えたアンサンブル的なブルースのほうが「商業化された結果」という形で後に紹介されるため、時系列が非常にわかりにくいことになってしまっていると感じます。

これは、ブルース史として原始的なサウンドのほうが最重要ルーツであり、ティン・パン・アレー的な「ヴォードヴィル・ブルース」は商業化された単なる一過程だ、という視点を強調したいがためではないでしょうか。

しかし、音源の時系列を丁寧に整理してみると、違ったストーリーが見えてくるのです。

ブルースの歴史は「ギター的な田舎のサウンド」と「ジャズ的な都会のサウンド」の双方が相互影響しながら複雑な時系列を構成しており、慎重に検討されるべき部分だと感じます。

このあともジャズ的なサウンドとギター的なサウンドの系譜の両方が登場しますが、「どっちが先でどっちが後だ?」という思考をせず、同時並行で音楽が発達していったイメージを持つと良いでしょう。

これは何もブルース史だけに限らず、クラシック史とポピュラー史全体にも適用すべき考え方だと思います。一方向的な進化論で物事をとらえると必ず歪みが起こります。同時並行で多様な方向性に複雑に絡み合いながら時代は進んでいくのです。



◉白人性が強調された「ヒルビリー」

このようにしてまとまっていった「黒人的フォーク」に対し、対比的に「白人」という統合を起こしたのが「カントリーミュージック/ヒルビリー」です。

社会の産業化が進むにつれ、アメリカ南部の農村地域では、牧歌的な過去を理想化して賛美する「反近代主義」の風潮が形作られていっていました。1920年代以降「レイス・レコード」としてラベリングされた黒人音楽に対し、南部白人は取り残されてしまいます。

アメリカ南部のマウンテン・ミュージックには本来黒人のブルース要素なども関わっていたり、移民としても種々のルーツが混在していたにもかかわらず、それらは隠され、フォークの「黒人性」に対する否定を媒介にして、アパラチアン・ミュージックやマウンテン・ミュージックをルーツとするカントリーの「白人性」が強調されていきました。

1925年、ヴァージニア出身のバンドを「ヒルビリーズ」と名付けられてレコーディングがなされ、このジャンルの初録音とされました。レコード会社のマーケット戦略によって「バンジョー」「マンドリン」「フィドル」といった要素が「ノスタルジー、自然回帰」のイメージが結びついて商品化していったのです。

このジャンルははじめ「ヒルビリー」などと呼ばれ、後に「カントリー」と言い直されることになります。ヒルビリーの初期の録音としてカントリー史に多大な影響を与えたカーターファミリージミー・ロジャーズの録音も、この時期に始まりました。

アメリカは国際政治の中心となり、「ヨーロッパの辺境」という位置づけから一転、「世界のリーダー」として存在感を高めましたが、その前提として「文化的なアイデンティティ」が必要になってきていました。

ヨーロッパとは違う、だがヨーロッパに匹敵する歴史的なルーツが探される中で、1929年の世界恐慌後のルーズヴェルト政権はニューディール政策を施行し、それが文化的にも影響します。地方のブルースやワークソング、エスニック文化などの採集が命じられたのです。

同時に南部農村の調査も進められ、フォークソングのアーカイブ化が進められました。こうして顕在化したルーツミュージックが、「ブルース」「ヒルビリー(カントリー)」としてアーカイブ化され、「正統」な文化として、再評価されるようになったのでした。

先に紹介した19世紀の「マウンテン・ミュージック」「アパラチアン・ミュージック」という概念も、実はこのとき出現した考え方なのかもしれません。



◉音楽業界の抱えていた問題

ブルースやカントリーといったローカルな音楽ではなく、20世紀前半のアメリカの中心的な音楽産業を支えていたオペレッタやミュージカルなどの「大衆流行歌の発信源」ティン・パン・アレーは、もともと「楽譜出版社」の集合体としてスタートしており、その著作権管理団体といえるASCAPの設立時は楽譜の売り上げが大きな収入源だったのですが、その後のメディアの発達によって人々が楽譜を買わずにラジオを聴くようになり、収益が落ちてしまいました。

1920年代に映画業界からの楽曲使用料の徴収開始に成功したASCAPは、1930年代、音楽産業の中心となっていたラジオ業界に対しても楽曲使用料の請求を増大させていきました。ラジオ放送から得られる収益をアップすべく、1932年にはスポンサーからの総収益の2%を、33年は3%、34年は4%、そして35年からの5年間は5%をASCAPへ支払うようにCBS、NBC、ABCの各ネットワーク親会社と契約させました。

「実際の楽曲の使用数に関わらず局の収入に対して定率の使用料を支払う」というこの契約形態をブランケット方式(包括契約)といいます。1937年地点で、ASCAPの徴収した金額のうち62%が放送局から、21%が劇場や映画館から、そして残りがホテル、ダンスホール、ナイトクラブなどからの収入、というような割合になっていたそうです。

このように、ASCAPの収入におけるラジオ局の位置付けは非常に大きなものとなっており、この巨額の使用料と、ASCAPが演奏使用料を徴収する団体として独占企業である、という事から、ASCAPとラジオ局側とのあいだに大きな摩擦が生まれ始めていました。

1939年、ASCAPはさらなる著作権使用料の大幅引き上げを発表します。それまでの金額の倍以上にもなった極端な要求に対し、放送業界側は大きく反発しました。主要なラジオ局ネットワークすべてが結託し、新たな著作権代行機関が設立されることになります。それが BMI(Broadcast Music, Inc.)です。

BMIの登場によってASCAPの独占状態は破られ、音楽利用者に選択肢が提示されることになりました。BMIは、ブランケット式の契約以外に、楽曲ごとのライセンスへの支払いも可能にしていきました。

1940年にASCAPとの契約期間が終了し、更新を迫られたラジオ局は、提示された使用料引き上げを断固拒否し、ASCAP管理下の曲の放送を禁止するストライキを実行しました。

ラジオ局はボイコット当初、クラシック、民謡など著作権切れの曲を放送していましたが、次第にBMIに登録された楽曲の放送を増やしていきます。当時ASCAPでは、アーヴィング・バーリン、ジョージ・ガーシュイン、ジェローム・カーン、コール・ポーター、リチャード・ロジャースといった大作曲家の作品をすべて管理していることで強力な体制を構えていました。

これに対してBMIでは、ASCAPが管理を避けて無視していたローカルな音楽、ブルース、ヒルビリー、ブラックゴスペル、ラテン音楽、黒人系のジャズなどを積極的に引き受けていました。やがて、ASCAPの大作曲家優遇に不満を持つ若手作家もBMIに楽曲登録するようになります。

こうして、19世紀末以来、常にメインストリームを牽引してきたティン・パン・アレーの楽曲がしばらくの間ラジオから一切流れなくなってしまったのですが、何よりの「問題」は、ASCAP楽曲をボイコットしてもBMI楽曲によって問題なくラジオ放送が継続可能だったことです。

1941年、アメリカでは本格的なテレビ放送が開始され、中産階級の白人ブルジョワ層らのラジオ離れが進みました。こうした文化的な分断が加速する一方で、第二次世界大戦終戦後は放送に対する統制も緩まり、独立系のローカル放送局も多く生まれていきました。

「ラジオでの音楽文化」の種類が大幅に変わり、これがブルースやカントリーの発達、そしてその後のロックンロール誕生の土台となったのです。

そしてさらに音楽業界の抱えていた問題が他にもありました。


1927年のトーキー映画の誕生以降、映画館でサイレント映画に合わせて生演奏していた職業楽器奏者の仕事は激減していました。さらに、1930年代のスウィングジャズのブーム時には、ダンスホールやナイトクラブからの中継放送がはじまり、ラジオ局専属の演奏家の仕事も激減してしまいます。それまで音質面の問題でラジオ放送での音楽は基本的にレコード音源ではなく生演奏だったのですが、電気録音レコードの登場と、このような仕事の激減、さらに大恐慌が重なり、演奏家たちの賃金や待遇が悪化して不満が溜まっていました。

そこで、AFM(American Federation of Musicians = アメリカ音楽家連盟)というミュージシャンの労働組合が、生演奏の仕事を確保するために大手ラジオ局に対してレコード音源の放送をさせないように圧力をかけ、専属オーケストラの設置と生演奏実演の継続を約束させました。

半ば強硬手段で承諾させられた大手ラジオ局側は、採算をとるためにバンドの規模を縮小させるようになっていきました。(一方、AFMが重視していなかったようなローカルの小さなラジオ局では、レコードを用いた自由な放送がなされていました。これがラジオDJの台頭につながっていきます。)

さて、AFMの不満はまだ続いていました。〈レコード録音に参加することでライブ現場の演奏機会が減少する〉 という状態に対して不満を募らせていたのです。そこでAFMは、今度はレコード会社に対して「演奏家のギャラと印税を上げなければレコーディングをボイコットする」と主張をしはじめ、ついに1942〜1944年、AFM会長のジェイムズ・ペトリロによって半ば強引にレコーディング・ストライキが決行されました。これにより、AFMに所属していたミュージシャンはこの期間、レコーディングに参加できなくなってしまいました。

レコード会社は初め、この要求には応じず、未発表の備蓄音源などをリリースすることでつないでいたのですが、長期化するストライキに次第に限界が訪れます。結局、レコーディングの待遇改善の要求は承諾され、1944年に和解されましたが、一連の対立とボイコット期の録音の空白がうまれることになり、先述したASCAPとBMIの問題に加えて音楽の流行に多大な変化を与えてしまいました。大編成のアンサンブル的な流行音楽が衰退し、小コンボ編成の音楽が主流の時代になっていきます。



◉「ジャンプ・ブルース」の登場

黒人市場向けの「レイス・レコード」による分断によって、ブルースは表舞台から一度隠れた形になりましたが、一方ではそれまでブルースと渾然一体だった「ジャズ」という分野は1930年代に「スウィング・ジャズ」がダンスミュージックとして一大ブームとなり、華々しく発展していました。

その後、1940年代に入るとビッグバンド中心のスウィングジャズは衰退していき、ジャズ史では「ビバップ」という段階に進んでいきました。ビバップは、聴衆のことはお構いなしに、奏者どおしの競争の側面が強いセッションの音楽でした。

一方で、エンタメ路線のジャズバンドは実は継続しており、ビッグバンドよりも編成は縮小されながらも、ブルースフィーリングを強め、黒人大衆に人気になっていました。

このような音楽は、通常の「ジャズ史」には一切記載がなく、かといってギター要素ばかりが重視される「ブルース史」でもジャズ的要素は軽視されがちなため、現在では忘却されがちな分野ですが、ビッグバンドジャズの流れを受け継ぎながらもブルースの一ジャンルとして存在したこの音楽が、実はロックンロールの誕生の一番重要な源流だといえます。

ジャズから分離する形で黒人市場向けのレコード「レイス・レコード」と呼ばれていた市場は、スウィングジャズの衰退につれて再発見されることになります。差別的な「レイス・レコード」という呼び名は改められ、これが「リズム・アンド・ブルース」となるのです。

ブルースやジャズの中でのピアノの演奏パターンのひとつとしてブギ(ブギウギ)というスタイルがうまれていました。

独自発展の道を歩み始めてしまったジャズでは、スウィング的な踊れるリズムから離れていってしまったのと反対に、「リズム・アンド・ブルース」では、より踊れるようにブギのリズムが強調されるようになりました。ブギを取り入れたこのようなブルースの分野を「ジャンプ・ブルース」といいます。

「ブギ」はピアノ演奏の一形態から、スウィングにかわるポピュラーなリズムスタイルとしてより様々なジャンルの楽器演奏者、歌手に幅広い解釈をもって取り入れられていったのです。

このようなリズムアンドブルースのアーティストとしてはプロフェッサー・ロングヘア、ルイ・ジョーダン、ワイノニー・ハリス、ビッグ・ジョー・ターナー、ロイ・ブラウン、ルース・ブラウンらが挙げられます。そして、ギターの進化とともに徐々に大音量化し、サックスなどのホーンセクションも荒々しく派手になり、ドラムによるバックビートも強化されていきます。



◉政治性と結びついていった「フォーク」

上で触れたように、1930年代はアメリカのルーツミュージックを遡る調査も進み、民謡フォークとして、アメリカの歴史文化の体系が形成されていきつつありました。 地方のブルースやワークソング、エスニック文化、南部農村の調査によって、アメリカ民謡のアーカイブ化が進められましたが、こうしたルーズヴェルト政権下での公的な動きのほかに、一般市民の間でも民謡・フォークへの関心は高まっていきました。

これが第二次世界大戦の戦時中、さらに左翼的な政治性と結びついていくことになります。ここでは、ウディ・ガスリーが重要な働きをはたしました。

各地を回りながら土着の古い民謡に新しい歌詞をつけて広めていったのです。労働運動にもかかわり、貧困をテーマにした曲も残しました。同じように政治運動、環境活動などに精力的に取り組みながら活動していたピート・シーガーとともに、アルマナック・シンガーズを結成し、「歌う新聞」として知られました。

このような「民謡フォーク」は、音楽的には、16世紀ごろのイギリスを起源とし、アメリカ植民とともに伝えられた民俗音楽から連なるものと考えられており、ヒルビリー(カントリー・ミュージック)と同じルーツであるといえますが、「フォーク」という場合の性質としては、社会問題を提起する政治的・左翼的「プロテスト・ソング」の性格がより重視されました。

戦後、40年代後半~50年代前半、共産主義者を公職から追放する「赤狩り」が横行した時代には政治性はさらに先鋭化していきました。このような南部起源の民衆音楽がニューヨークに持ち込まれて流行したのが「アーバン・フォーク・ムーブメント」です。ピート・シーガーが中心となって1948年に結成したザ・ウィーバーズがその代表です。

米ソの冷戦構造の最中、ザ・ウィーヴァーズの面々は共産主義者として容疑をかけられ、音楽活動を制限されたりしまいます。アメリカ共産党に入党したピート・シーガーも活動の場を制限されてしまいました。

しかし、ウディ・ガスリーやピート・シーガーの音楽が、後に「フォークロック」を生み出すアーティストにとっての重要なルーツとして、大きな影響を与えたのでした。


◉「ヒルビリー」から「カントリー」へ

「白人の心のふるさと」として統合化されていったジャンル「ヒルビリー」もまた、1940年代に入り、市場の再発見により、差別的なニュアンスを訂正し「カントリーミュージック」と呼び変えられて注目されるようになりました。

「カントリー」は、黒人に対する否定性だけではなく、「フォーク」に対する否定性も含んでいきました。1930年代にはフォークミュージックは民衆の音楽として共産党に評価されており、第二次大戦後の冷戦開始で共産主義者に対して「赤狩り」が横行するようになると、メディアは共産主義と結びついた「フォーク」の語を避けて「カントリー」という言葉を流通させるようになったのです。

都市の音楽( =「ユダヤ人のティン・パン・アレー」「黒人のジャズやブルース」)や、「共産主義者のフォーク」に対して、「地方の白人こそ本来のアメリカ人である」という、愛国心、保守的価値観、ノスタルジーを内包していったのが「カントリー」となっていました。

カントリーは、ナッシュビルが中心地として注目され、ローカルラジオ「グランド・オール・オプリ」が成功して全国放送されるようになり、定着していきました。

アーティストとしてはハンク・ウィリアムズなどが登場し活躍したほか、作曲家としてはフレッド・ローズが多くのヒット曲を産み出しました。

さらに、カントリーミュージックのサブジャンルとして「ブルーグラス」という音楽も誕生しました。フィドル、マンドリン、ギター、ウッドベースなどの楽器による伝統的なバンドで、従来のヒルビリーよりもテンポが速く、楽器のソロ回しなどもなされ、難度の高い演奏が特徴です。ビル・モンローが創始者とされ、アール・スクラッグスもそれに続いて人気となりました。



◉1950年代、エレキギターの導入

1940年代以降、ギターという楽器にも進化が起き始めていました。それまではアコースティックギターだったのが、40年代になるとエレキギターの原型といえる様々な種類のものが各社から発表されていきました。

この段階ではアコースティックギターに音を拾うピックアップをつけるだけというスタイル(いわゆるフルアコ)で、中の空洞がハウリングを起こしてしまうため、そこまで大きな音は出せませんでした。そこで、空洞のないソリッドギターが開発されることになったのです。

1948年にフェンダー社が「ブロードキャスター」というテレキャスターの原型が誕生します。1950年代に入ると、現在でも使用されているタイプのエレキギターが続々と発表されます。1952年のフェンダー「テレキャスター」やギブソン「レスポール」、そして1954年のフェンダー「ストラトキャスター」などです。

さらに、低音楽器もそれまではウッドベース(コントラバス)が役割を担っていたのですが、1951年に「フェンダー・プレシジョン・ベース」が発売され、エレキベースの誕生となりました。

こうしてエレキギター・エレキベースの発展により大音量化が進んでいき、1930年代までの大編成のアンサンブルに匹敵する迫力を小人数のバンドでも実現できるようになったのでした。

このような楽器の進化に伴い、1950年代に入ると、デルタブルースにエレキギターを持ち込み、バンドスタイルに発展させた音楽が登場します。それが、シカゴブルースメンフィスブルースなどです。

第一次世界大戦以来、南部から北部へと移住していった黒人の数は増え続けていて、シカゴ、メンフィス、セントルイスといったアメリカ中部の都市はその中継地点として栄えていたのです。こうして、これらの都市に黒人音楽の発展する土壌が出来上がっていたのでした。

マディー・ウォーターズ、B.B.キング、フレディ・キング、アルバート・キング、サニーボーイ・ウィリアムソン、T ボーン・ウォーカーなどがアーティストとして挙げられます。


さて、今回の記事では、従来のルーツミュージック史観の一直線的な視点を相対化するように、時系列に慎重になりながら広範囲の音楽に触れてきましたが、こうしてようやくロックンロールの誕生の材料が出揃いました。

次回からはロック史に突入していきます。

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