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変化する道徳

20240414

織田信長は、豊臣秀吉をサルという愛称で、呼んだことが知られている。

サル = 人間外の存在である。
例え、それが、かわいさ余るための呼称だとしても、秀吉は、どう感じたのだろうか。

歴史的根拠も何もないが、信長を殺したのは明智光秀とされるが、裏で糸を引いていたのは、秀吉という仮説が立つ。

その後、秀吉が、信長の野望であった天下統一を成し得たことから考えても、秀吉にとって信長は目の上のたんこぶであり、自分の秀吉自身の天下統一という野望の前には、邪魔な存在だったのかもしれない。だから、秀吉は、光秀を使って、信長を殺した。一農民であった秀吉の地位を上げたのは、確かに信長だった。その温情に背くほどの憎悪、それは、ただ、人間外のサルという呼び名がもたらした可能性を否定できない。

人種差別はないという程の社会、アメリカにおいて、白人が黒人をサルとして、人間外の存在として侮蔑し、差別している文化があるように。社会的道徳としては、人種差別はないが、歴史的文化としては、人種差別はある。

道徳は、誰もが持つ当たり前、常識のように捉えているかもしれないが、それは、自分の育った国や環境、そして、例えば、皮膚の色で変化していく。

世界を見たからわかる、アフリカは貧しい、ちゃんと貧しい。サンダルで歩いていると、街の人が、足元を凝視するくらいに、サンダルを履いていると、宿のバイトに、嘲笑されるくらいに。アフリカでは、サンダルは、靴を買えない人という社会なのだ。だから、外国に来るほど金はあるのに、靴を買うほどの金はないのかと、嘲笑されるのだ。

そして、これは貧しさというより文化に近いことかもしれないのだが、アフリカでは、赤ちゃんをおんぶするのは、バスタオルだ。バスタオルで巻いて赤ちゃんをおんぶする。落ちないのか?落ちないのだ。アフリカの女性のお尻は出っ張っている、出っ尻なので、赤ちゃんは落ちないのだ。体の構造が明らかに異なるのだ。

世界を見て、世界中の人を見たけれど、アフリカに住んでいる現地人は、私たちが目にしたことのある黒人と、明らかに異なる。身体的特徴も異なる。アフリカ人を差別ではなく、別の生物として区別する社会に、疑問を持たないくらいに。

私は、人種差別はいけないと学んだけれど、アフリカに行くと、そこにあったのは、人種差別ではなく、皮膚の色や身体的特徴による、区別という世界観だった。人種差別の根底を理解した。私の道徳は変化した。

所詮、道徳を含めた自分の価値観なんて、日本で生まれ育って得たモノだ、それは、世界を見ればわかる。そして、世界を見れば、自分の価値観は、変化する。だから、私は、異国が好きなのだ。自分の小ささを体験をもって経験していく過程に、至上の幸福を感じる。

「私は私を知りたい」という生涯の野望は、私じゃない人に、社会に、文化に、触れることで、パズルのワンピースが繋ぎ合わせられるように、完成していく、そして、私の野望は未完で終わることもまた、きちんと理解している。
「私は私を知りたい」けれど、私を知ることはできない。
「私は、存在しない」と、悟られている、仏陀に。
私が、存在しているのは、妄想なのだ。







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