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すばらしい新世界

20240412

何らかの全般的理解は持たなければならない。ただし、もし社会の善良にして幸福な一員であろうとするならば、全般的理解はできるだけ最小限に止めておくことだ。それは、専門的知識は徳と幸福を増進するが、全般的知識は知的見地からいって必要悪なのだから。

女性胎児の30%は正常に発育させ、残り70%は不妊性を保証された「産まず女」として発育させる。

幸福と美徳の鍵
自分がなさねばならぬことを好むということ。
すべての条件反射訓育が目的とするのは、人々をしてその免れたい社会的宿命を愛するようにさせることだ。

赤ん坊たちは、書物に対して『本能的』憎悪をもって生長してゆく。永久不変的に植えつけられた条件反射運動だ。彼らは書物からは生涯安全に守られることだろう。
下層階級の者たちに本なんか読んで国家の時間を浪費させたりはできない、またせっかく身についた条件反射的習性を不都合にも失わせるようなことを書物で読むという危険もある。

子どもたちは、野蛮な胎生時代には、国営条件反射育成所でなく、常に両親によって育てられた。

『万人は万人のもの』

せき止められた衝動は溢れ出る。この氾濫が感情であり、激情であり、狂気でさえある。せき止められない衝動は、幸福へと辿り着く。
感情は欲情とその満足との中間に潜んでいる。

キリスト教なるものが存在した。すべての十字架はその頭を切り落とされてT字型となった。また、かつて神と称するものが存在した。

老人も働く、老人も性交する、老人にも暇はない、快楽から離れる暇がない、坐り込んで考えたりする暇がない。これこそ進歩である。

言葉というものは正しい使い方をすれば、読む者の心に突き刺ささる。

僕はいっそう僕自身になったような気持がする。すっかり他のものの一部になんかなったりしないで、もっと自分は自分として独立したものになれる。この社会という機構のただの一細胞ではなくなるんだ。
もし僕が自由になれたら、条件反射教育で奴隷化されていなかったら、いったいどういうことになるのだろう。

とても素晴らしい時を過ごす自由を持っていて、今ではすべての人は幸福であるけれど、もっと別な方法で幸福を得るために自由になりたい、自分の思う通りのやり方で。

汝が今日持ち得る楽しみは明日に延ばすことなかれ。

個人が感動すれば、社会は動揺する。
感情や欲望は、幼児の知性である。

若さは60歳まではほとんど損なわれないでいて、そこへ来て、ぽっくり死ぬんだ。

不気味にもあたりはしんと静まりかえった。
生命が終わりを告げたかのように見えた。

僕は、我々が母親というものを持っていないということで、何かを失ったかも知れぬ、と時々思うんだがね。

母親、神、老齢、病気といった反社会的存在によって、別な天体の別な世紀に生きているかのように感じる。

彼は時と死と神とを見出したのだった。

永遠の月の世界へ旅立っていった。
再び時間の世界へ戻るには、十数時間かかるだろう。

多くの者が腐敗堕落するよりは、一人の者が苦しみを受ける方がいい。
殺人といったところで、たかが個人を殺すだけだ。個人とはなんだ?我々は新しい人間をわけもなくつくることができる、望むだけの数を。異端者は単なる個々の人間の生命以上のものを脅かし、社会そのものに打撃を与える。

若い人に孤立的娯楽は奨励しない。

幸福に対する信仰を失わせ、その代わりに、目標はどこか遥か彼方に、現在の人間世界の外のどこかに存すると信じ込むようにさせ、人生の目的は幸福の維持ではなく、意識の何らかの強化と洗練であり、知識のある種の拡張だと信じるようになるかもしれない。

もし、幸福ということを考えなくて済むのなら、どんなに面白いことだろう。

我々は、人々が美や古いものに惹きつけられることを好まないのだ。我々は、人々が新しいものを好むことを望んでいる。

社会は安定していて、人々は幸福である。欲しいものは手に入るし、手に入らないものはみんな欲しがらない。人々は暮らしが楽で、安全だ。病気にもならない。死ぬことも恐れない。激情や老齢は知らない。母親や父親に煩わされることもない。妻や子どもや恋人などという、激しい感情の種になるものもない。

我々は変化を欲しないのだ。あらゆる変化は安定を脅かす。

あの男は島へやられることになっているんだよ。つまり、この世でも最も興味ある男女の群れに出会える場所へ送られるということなんだ。何かしらの理由で共同体生活に適合するにはあまり自意識的な個人主義に陥ってしまった人間ばかりなのだ。 公認の思想に飽き足りず、自分独自の独立的な思想を持つようになったすべての人間だ。一言にして言えば、いやしくも人間らしい人間はすべてということだ。

あの時代に人々が科学の進歩について書いていたことを読んでみるとね。その頃の人たちは、科学がほかの一切のことに関わりなくどんどん無制限に進んでゆくのを許せるものだとばかり思っていたらしい。知識は最高の善で、真理は至高の価値で、他の一切は二次的で従属的だったのだ。

戦争後だ。その当時は、食欲の統制だって人々は喜んで受けたものだ。平和な生活のためなら何だって、というわけだ。それ以後ずっと我々は科学の統制を続けている。もちろん、これは真理のためには大いに結構なことだったとは言えない。しかし、幸福のためには大いに結構なことだったのだ。人は無償で何かを手に入れることはできないものだ。幸福にだって代償を払わなくちゃならない。

芸術に科学や宗教など、幸福のためにかなり高価な犠牲を払った。

年をとってゆくにつれ人間が宗教に関心を持つようになるのは、死や死後に来るものに対する恐怖のせいだといわれている。そういう恐怖や想像とは全く別に、宗教的感情は年をとってゆくにつれて次第に募ってくる傾きがある。それが募ってくるのは、熱情が静まってゆき、空想や感受性が以前ほど刺激されにくくなっていって、我々の理性の活動がより平静になり、昔はそれに心を奪われた想像や欲望や気ばらしによって曇らされることがなくなるからである。そこで神がまるで雲の後ろから出たように姿を現わす。

神は、機械や科学的薬品や大衆の幸福とは両立しないのだ。人はどちらかを選ばなくてはならない。私たちの文明は、機械と薬品と幸福とを選んだのだ。

哲学とは、人が本能的に信じることに下手な理屈を見つけることだと定義している。人は何でもかんでも本能によって信じる。人が何かを信ずるのはそう信ずるように条件づけられたからだ。人が何か誤った理由から信ずることに対して別な誤った理由を見つけること、これが哲学というものだ。神を信ずるように条件づけられたからこそ、人々は神を信ずるのだよ。

神の掟は、社会を構成する人間によって示される。神の摂理も人間から受け継がれる。

「自由を欲します。 」
「それじゃ全く、君は不幸になる権利を要求しているわけだ」
「それならそれで結構です、私は不幸になる権利を求めているんです」
「それじゃ、いうまでもなく、年をとって醜くよぼよぼになる権利、梅毒や癌になる権利、食べ物が足りなくなる権利、明日は何が起るかも知れぬ絶えざる不安に生きる権利、あらゆる種類の言いようもない苦悩に責めさいなまれる権利もだな」







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