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手塚治 「ザ・クレーター」「大当たりの季節」から学ぶ 「失敗」哲学

 今日も手塚治ネタです。 ネタばれ注意

 この物語は、馬鹿にツイてる モブ主人公「オクチン」の物語です。

 オクチンはテストで100点を取る。学園のマドンナと付き合うなど、かなりイケてました。
 
 ところが2年留年したガキ大将がこのことを不思議に思い、オクチンの後を付けます。すると、不思議なことが起こっていることを発見します。オクチンの靴が急に別の色に変わったり。



 理由は、秘密の土管の中に流れる時空の河でした。この河を遡っていくと、過去に戻れるのです。そして、人生を何度もやり直すことができるのでした。

 オクチンは失敗をすると何度もこの土管に足を運び、時空を遡ってはやり直しをしていたのでした。道理で万事うまくいくはずですね。

 このことを知ったガキ大将、番長はオクチンよりも前の時間に戻ろうとします。目的はオクチンよりも早く学園のマドンナと出会うこと。(残念ながら何度やり直しても顔で拒絶されそうな感じです。)

 ですが、オクチンもこれに負けじと遡ります。そうして遡っていくと、段々と体が小さくなり、やがて赤ん坊になり、泳ぐ力もなくなって、胎児へと帰っていくのでした。

 つまり、この世界に番長という存在は初めからいなかったことになる。といってこの物語が締めくくられています。

 この物語には、「失敗」に対する深い洞察を読み取ることができます。

 私は「失敗」というものに否定的な大人たちとたくさんであってきましたし、「責任」を取ることを恐れる大人たちもたくさん見てきました。

 皮肉なことに、この世界に産まれてくるということは、「失敗」の連続なのです。むしろ、「失敗しなきゃ、産まれていないのと同じ」なのです。

 人は行動するからこそ失敗します。胡坐をかいて他人のやることなすことに文句を言っているだけの人間は、自分が失敗をすることはないでしょうけれども、産まれていない人間なのです。

 もし私たちが生まれて、自分では指一本動かさず、ただ周りの人間たちの行動を見て、文句ばかり言っているような人間になると、失敗なんて全くしなくなります。でもよくよく見てみると、その人間は何もしていないことに気が付きます。

 たいていこういう立場に立つ人間というのは、経験を積んできた人間であることが多いのです。だから、そうだと認められた人間には、そういう立場に就くことが社会的に認められちゃったりします。

 しかし、この物語に言わせると、もうその人はそこで胎内へ回帰し、人間をやめてしまったということになります。もう失敗することもなくなりますからね。
 
 自分で手足を動かし、解決策を考え、何度も壊しては新しいものを作り上げていく。創造こそが人間の営みです。

 しかし、自分がただ人のやることなすことを上から見て、ああでもないこうでもないと論じるばかりなのは、何もしていないのと一緒なのです。

 ですが、こういう反論があるでしょう。

 そうはいっても、失敗されたら困ることも多いんですよ・・・。そういうとき、あなたは失敗してもいいとおっしゃるんですか?

 例えば病院の手術。失敗するからこそ人生なのだ!と息巻いて、堂々と失敗したら大問題です。だから、この著者は一体何を言っているんだ?と思われるんですよね。

 もちろん、わざと失敗しちゃいけませんし、失敗しないように行動するに越したことはありません。でも人間、それでも失敗しちゃうときは失敗しちゃうじゃないですか。

 でも、どうしても失敗が許されない時・・・。そういうときが来る。

 こういうことがあるから、失敗するからこそ人生だ、と言う言葉はすんなりと人の中に入って行かないのですね。

 そこで発想を変えてみます。手術は、実は失敗しても失敗しなくても、失敗ではないのではないかと。

 例えば寿命によって担ぎ込まれたとします。延命措置が行われました。しかし、甲斐なく死んでしまいました。つまり、病院があることがむしろ特別なのであって、病院がなければその人はそのまま死んでいたわけです。手術なんていうのは、特別な作業なのです。

 例えば車の運転。失敗するからこそ人生なのだ!と息巻いて、適当な操縦をしたら人を殺しちゃった。これも手術と同じく、わざとそんなことをしちゃいけません。しかし、私が過去記事で書いたように、車を動かせば交通事故の死者は100%誕生します。予言できますよ。明日、また誰か死にます。交通事故で。

 さて、何が失敗で何が失敗ではないか、と言うところを考え始めるときりがないわけですが、私はこう考えています。

 成功も失敗も、人間が勝手に決めつけた、結果に対する評価なのだと。

 例えば手術で失敗すると、それによって保険金が手に入った家内はうまくいったと喜ぶかもしれない。これはその人にとっては成功です。

 車の運転で事故をしても、新米警官が適切にその事件を管理し、新米弁護士が適切にその事件を管理し、新米裁判官が適切にその事件を処理すると、いくつもの成功が失敗から生まれるのです。

 つまり、失敗が発生したのではなく、単なる事実の発生にしか過ぎないのです。人のエネルギーが何らかの物理的な結果をもたらした。ただそれだけなのであって、私たちがその結果を見て成功だ失敗だと騒いでいるだけ、と言えばそれまでなのです。

 そして、うまくいってほしいことに対しては「成功」といういいイメージの言葉を与え、うまくいってほしくないことに対しては「失敗」という悪いイメージの言葉を与える。人間は悪いと思う結果を避けたいと思うので、「失敗」を避けようとして行動する。

 戦時中、「非国民」と言う言葉が使われましたが、「非国民」だと思われたくない人間たちは、こぞって「非国民だと思われないように」行動をしましたね。

 それと同じです。失敗だ!というのは、うまくいってほしい結果が出てこなかった。どちらもプラスマイナス0の事実の変化なのです。

 私たちがそれを見て嬉しくなるか、悲しくなるかの違いなのでした。

 そしてもう一つ、先ほど上で胡坐をかいている人間を例に挙げましたが、この人は、失敗をすることもなくなりましたが、この人自身が成功することもなくなったなと。

 失敗は成功の母であり、成功は失敗がつきものであるというのは、失敗も成功も、どちらも自分の目指したものに、必然的に伴うからなのですね。

 この物事の道理に反して、成功しか受けいれないという体制になると、実は多くの場合失敗という結果に終わります。

 成功しか求めず、失敗を受け入れないということは、成功の母を自ら殺したようなものだからです。

 

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