蒼天航路 勝手に解説⑤「董卓の真意」

 世界に名を轟かせた悪人 「酒池肉林」という言葉で有名な「董卓」。蒼天航路の物語でも、わやくちゃな行動に出ている・・・。ああ、やっぱり「董卓」ってやばいやつなんだな。と思ってしまうんですが、それは大間違い。

 やばいところ1
  
 自分の価値観と合わない発言を行うものには自害をさせる

 軍師が黄巾の乱に乗じて洛陽侵攻をするように進言すると、軍師に「自害せよ」と言う。理由は、「董卓は董卓の力で勝つから董卓なのだ。」

 やばいところ2

 野放しにされた蛮兵によって、洛陽は無法の都と化した。
 都で白昼堂々と暴行が繰り返される。

 やばいところ3
 
 皇族の墓を暴いて金を溶かし、「董」の字を刻印させた。
 
 やばいところ4
 
 
人間を食べる

 やばいところ5

 弁を殺害 母も殺害
 弁は天子だった

 やばいところ6

 洛陽(当時の都)を全焼させて長安へ遷都

しかし、曹操は董卓の「善政」を見抜いていた。
そして、蔡邕は董卓の真意を読み取るのである。

 やばいところ5について
 まず、やばいところ5から行く。張譲という悪の親分たる宦官を殺した董卓は、その後「弁」を殺害し、「協」を天子としてたてる。

 これは、中国の形式に真っ向から反し、世間の怒りを買う。しかし、董卓の行動の方が、理にかなっている。

 「形式」より「実」

 弁王子は、協王子と比べると愚鈍であり、霊帝に増して、暗愚の相。この弁王子を天子としてたてるというのが、しきたり通りの行動であった。

 しかし、董卓は天子として、弁よりもずっと聡明な協を擁立する。形式ばかりを重んじて、実を取らない中国の社会。私の目からしても、董卓の行動の方が正しいと感じる。

 殺しちゃうところはこの時代だから仕方がないとしよう。

 やばいところ4について

 人間を食べる。これは、やばい・・・。やばいけど、文化といえば文化。
例えば、世界には食人(カニバリズム)の文化を持つ人種がいる。だから、これ一つを持って、董卓がやばいと片付けることはできない。

 「ロビンソンクルーソー」と言う小説で、無人島にたどり着いたクルーソーが真っ先に警戒したのが、食人を行う人間が住む島かどうか・・・ということだったように、食人を行う人間は普通に居るのがこの世である。

 やばいところ3

 霊帝にせよ、弁にせよ、墓にある金品をそのまま眠らせておくのは無駄中の無駄。しかも、皇帝だからと言って漢を亡ぼした元凶のような存在。それよりは掘り出して役立てた方がいいに決まっている。

 やばいところ2

 実は暴行に見えて、悪政を行い、国を腐敗させた宦官の一掃。董卓は国に巣食う悪い宦官たちを殺しまくった。これが恐ろしい噂となり、世間にとどろくことになる。

 また、女を犯すのは確かにひどいかもしれない。しかし、結局この女たちは、悪辣な宦官たちの手籠めにされるのである。こんな奴らに渡すくらいなら、自分の子飼いの部下のものにした方が、女たちにとってもよいと考える。(そんな理由があるなんて女たちは知る由もないだろうけど・・・。)

 やばいところ1

 姑息な手段を使う人間の選別。董卓は、「真に強い人間」のみをこの世界に残し、人に阿(おもね)ったり、賄賂などを利用して保身を図ろうとする存在を一掃しようとした。

 例えば、蔡邕という高名な文学士が董卓の批判を書き連ねていた。それを告げ口した人間がいる。董卓は、蔡邕と二言三言言葉を交わし、その才能を見出す。そして、告げ口した人間の方を処刑するのだった。

 もし董卓が暴君ならば、自分の批判をしている人間を躊躇なく殺す。しかし、董卓は、能力の高い人間であるとみなせば、その人間を殺すことはない。

 荀彧の親戚である荀攸も、董卓批判を行ったが、投獄されたにとどまった。董卓は、人間の力を正確に見抜くのである。それだけの人物評価を行える力を持っていた。

 曹操も、董卓の「善政」を董卓の目の前で語っている。董卓は、自分の親族だからということで、官位に就けるようなことはしない。暴虐は、腐敗した宦官の一掃にある。

 しかし、弱い人間たちが使う手段は、いつの時代も「悪い噂」である。強い人間だけを残そうとする董卓は、とてつもなく恐ろしい存在。こんな人間、どれだけ正しくとも上に立ってほしくはないのである。

 だから、彼らに出来る抵抗は、「悪い噂」をボンボン流していくことだ。
そうして世間は「反董卓」に染まり、諸侯たちは董卓を討つという気勢となっていく。

 実は董卓自体は何の悪いこともしていないのだ。ただ、その政治が、宦官などを筆頭とした「腐敗者」たちにとって、とてつもなく恐ろしいものなのである。嘘があるからこそ居心地のよかった世界に、「実」をもたらすやっかいものなのだ。

 やばいところ1

 これも同じで、自分の力 「実力」というものを董卓は重んじる。姑息な手を使って勝利するということを嫌う。そして、そのような手段を持ち込む人間を殺すことで、この世界にはそうした人間たちがいなくなる。そのようにして、生かすべき人間と、死すべき人間の選別を行っていたのである。

 今の日本にも通じることだが、「本来ならば死すべき存在」がなぜか生き続け、「死すべきではない善良な存在」がなぜか早く命を落としていく。董卓はそういう世界が許せないのである。

 しかし、弱い者ほど頭の回転が速く、舌がよく回り、権謀術数を使うのがうまく、噂を用いて人を貶めることに長けている。

 董卓は、こうした連中たちの批判、悪評を一身に浴び、やがて世界にその悪名を轟かせることになったのだった。

 董卓は、形式ばった旧来の価値観に縛られた古い前政を、自身の「実」の価値観に塗り替えようとした。しかしそれは、残念ながら道半ばで終わることになるのだった。

 蒼天航路が描きたい最も重要なテーマは「悪人とは本当に悪人だったのか?」ということである。人が他者の悪い噂を立てるのは、自分が生き延びるためだ。

 これを思えば、悪い噂が立っている人間の中には、本当はとてつもなくすごい人間がいるかもしれない。董卓もその一人として描かれている。

 しかし、漫画を読んだ人たちは、あまりのむごたらしさに、そうした董卓の「確かな実のある行動」を見落としてしまうはずだ。

 曹操の「董卓評」さえも、董卓への悪口のように感じてしまうだろう。

蔡邕は、董卓の死、までの一部始終を目の当たりにし、うきうきとしてこのいきさつを後世に残し、自分の文学人生の集大成にしたいと考えた。

蔡邕は一体何を見たのか。それは、「董卓」以上にあくどい存在達である。自分の保身のために、噂という噂を捏造し、世間の攻撃性を一人の男に向けた。この愚かな人間たちの動き。

 
 国と言うものがなぜ腐敗していくのか。董卓という悪評の極みともいうべき男が、本来であればとてつもなく優れた男であり、この国を立て直すための最も重要な人物であったこと。

 しかし、この思いは、頓挫する。自分の評判を最も気にする男に、そんなもの残されちゃ困る・・・と考えられたから。王允だ。

 王允は、それを残されてしまうと、「善人」たる董卓を、自分が討ったことになってしまうのである。だから、王允は蔡邕の処刑を行ったのだった。


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