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頭の回転と判断のトルクは反比例する。という岡田斗司夫の仮説と、ノートに手書きで書くということ。

「頭の回転が速いと、トルクが弱くなる傾向があるんです。深く考えるためにも、人の話を聞くためにも、少し回転を落とすといいのですが、そのために手書きでノートをつけることは良い方法です」

というようなことを、岡田斗司夫がいっておりまして。

書くことは考えること、といえると思うのは、ただ頭の中で思っているだけで何かに書かないでいると、言語化されない。言語化されないと、ものごとを相対化したり俯瞰でみたり、それぞれの要素の相関を見ることができない。もしくは非常にむずかしい。したがって、言語化されないものごとは、考えることはできない。

ということが、たぶんほんとのことだろうと思えるからです。

そして、悩みの沼にあるような時、それを勇気をもって書き出し、いったん頭の中から外に出すことで、悩みに足をとられてもっとも大切な行動が鈍る、ということから救い出してくれるということも起こります。

それがスマホやPCでなく、手書きが良いというのは、書くということへの集中が上がり、言葉や要素を考えている時間が長くなる。細かくいえば、あるものごと(具体的には言葉)を頭の中に現像する時間が長くなることで、解像度が上がり、グラデーションが豊かになるということなのかなと。

刹那のことなのですが、「刹那的」とは逆のことが起こるようです。

原稿用紙に鉛筆やシャープペンで何か書く、というのが、私の社会人2年目から始まった暮らし方だったのですが、当時、書いた原稿をなくしてしまっても、10枚以内程度であれば、ほぼ同じ内容をもう一度書くことができました。

キーボードで書くようになって、それはできなくなりました。今この瞬間も、冒頭の書き出しのフレーズを忘れています。その理由も、たぶんそのへんのことなのでしょう。

私はコピペやAIで文章を書くことはありませんが、編集は非常に頻繁にします。とにかく、思いついた瞬間に、もしかするとそれ以上のスピードでキーボードを叩いていて、その後、おかしなところや足りないところを編集していくので、頭が考えているのか指が考えているのか、実感としてよくわからなかったりします。

キーボードが「静電容量無接点方式」という謎の方式で、叩くと気持ちがいいので、その快感のために書いているのかもしれません。キーボード中毒(笑)。

中3くらいから大学まで断続的に、大学ノートに日記を書いていたのですが、日記といっても、行動の記録ではなくて、その日、心に引っかかったものを書いていくものでした。だから、こっぱずかしい内容になるわけです。

誰にでもある、若き日の恥ずかしい思い出のネタとして、「日記」があったりもするのですが、あれでものを考える習慣や判断のトルクがついたのだとすれば、まことにありがたいことでした。

岡田斗司夫は、「スマートノート」という書き方を提唱していて、amazon Prime会員はKindle版が無料で読めるようなので、さきほどダウンロードしてきました。これから読んでみます。

あなたを天才にするスマートノート(岡田斗司夫)
https://amazon.co.jp/dp/B00E4U62PO


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