見出し画像

新海誠論


先月、新海誠監督の新作「雀の戸締り」を次男と観に行き、メタファーが多角的に且つ深層的に含まれているいる現代の神話と感じた。
その後、最寄りの図書館の新刊コーナーでふと目に入ったのが「新海誠論」。

新海誠論 / 藤田 直哉【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア (kinokuniya.co.jp)


最近は図書館に行った際は、新刊コーナーや本日返却された棚でふと目に止まった本を借りるようにしている。
この新海誠論もたまたま「雀の戸締り」を観て、新海監督の表現に関心を持ちはじめたからこそ出会えたように思う。

私が10代の頃のアニメでよく見た記憶があるのは、「ひょっこりひょうたん島」、「ジャングル大帝」、「サンダーバード」等で何曜日の夕方何時からはこのアニメがはじめるのを楽しみにしていた。
確か白黒TVからカラーTVになった頃で画像の美しさに惹きつけられた記憶がある。

新海監督の作品は、最近見た「雀の戸締り」と「天気の子」の2作のみで、改めて本書を読むことで、新海監督の歩んできた歴史や根底に流れる考え方に少し触れることができたように思う。

本書は新海監督の個々の作品や文章を根拠にして系統立てられて、とても読み応えがある充実した内容であった。
特に以下の著者の新海監督がとらえている概念の記述は興味深い。

それまであった神道などの文化と、外から伝来した仏教などを折衷して新しいものを作り出すことを「習合」と言うが、新海誠は、外来のメディアであったアニメーション、新しいテクノロジーであるパソコン・インターネット、そしてオタク時代の感性と、それ以前の日本の伝統的な感覚を「習合」しようとした作家である。


そして著者は、新海監督の作品の歴史を以下の3つに分けている
第一期 セカイ期「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」
         「秒速5センチメートル」
  閉ざされた世界における繊細な感情を描く時期

第二期 古典期「星を追う子ども」、「言の葉の庭」
       「君の名は」
「喪失」「探し求めている」というセカイ期における対人感情が歴史や過去や文化を対象に描かれるようになる

第三期 世界期「天気の子」「雀の戸締り」
 会いたい気持ちを、未知の世界や社会と「つながる」「出会い」と重ね、「古典期」より未来志向になった時期


古典期の「言の葉の庭」は、まだ観ていないが、私自身が今春から物語や神話を通して普遍的なものが伝わっていくという視点と一致しており、その同期性に驚かされた。「言の葉の庭」は、是非、一度観てみたいと思う。

言葉が必要なのは、自己と他者が別の存在だからだ。言葉は、愛の道具にも争いの武器にもなる。それは意識を得た人間の、個の孤独の自覚と関係している。
我々は、言葉という、非常に解像度の粗い、概念でしかないものを使って、心や、風景や、世界のような、無限に複雑な繊細なグラデーションのあるものを伝えるしかない。それは常に、言い足らず、不足のあるもので、だからこそ、表現するために様々な文学的な技法が模索し開発されてきた。
現代ともなれば、単に言葉だけでなく、絵文字や、映像や音声を使うことで不足を補うようにはなっているが、それでも言葉の本質からくる不完全は、私たちに、言葉なく自他がつながっていた時代への夢想を生み出す。
言葉によるコミュニケーションのしんどさと伝わらなさに疲弊した後、言葉なしに意思が伝わる世界を求めてしまう。





俳句の世界では、季語を通して俳句仲間同士が、共通のメタファーを感じ合うことで、敢えて言葉で説明することなく味わい会うことができる。
そこで生まれるものは、普遍的なものであり、それは知識ではない領域で感じ合うことであり、エネルギーが生まれてくる。

また、何度かnoteでも触れているホロスコープのサビアンシンボルという12サインを30分割したそれぞれの度数(全部で360存在)に対して、その度数に働く力の要素が象徴されている。12サインの原理原則を理解しつつ、それぞれの度数の要素を重ねていくことで、ひとつひとつの度数の働きが浮き彫りになる、サビアンシンボルは、まさにその度数をシンボルとしてそこに働く力を示している。従い、サビアンの言葉は神話的、物語的な言葉であり、知識としての解釈は成立しない。その奥に流れる比喩を感じていくことで、12サインでの位置づけや反転する度数の力との関係性等が浮き彫りとなる。

文学作品では、カズオ・イシグロ氏の作品の中にメタファー(暗喩)が存在している。
3年前に彼の作品を集中して読んだが「遠い山なみの光」、「日の名残り」、「浮世の画家」、「忘れられた巨人」、「わたしたちが孤児だったこと」、「わたしを離さないで」と場面は、戦後の日本であったり、英国であったり、また題材も私小説、SFであったり、サスペンスであったりと多岐にわたるが、根底にはあるメタファーが流れている。以前にイシグロ氏と大学生との対談の番組を観た記憶があるが、そこでイシグロ氏もそのようなことを語っておられた。なかなか解説されないとそのメタファーの存在が気づきにくいが、そのように意識して読むとがぜんと著者の心情に近づいていく感覚になる。

新海監督の作品においてもこのような詳細は解説がなければ、その背後にあるものはなかなか把握しにくい。また、解説を読んでもぴんと来ないものもあるに違いない。

何かを他者に伝えていくというとき、すべての人に同じように受け止めてもらうのは不可能に近いと思うが、新海監督は、それに挑戦されている作家であると思う。社会から忘れられてしまったことを、少しでも響いてくれた人に届かせたいという祈りのメッセージであるかと思う。




時雨傘エンドロールに畳みけり



※俳句と写真日記を毎日更新中

https://z-p15.www.instagram.com/junchan3926/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?