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親ガチャ外れ・貧乏家庭のニュートン。トラウマを抱く偉大な発明をした彼のその後

最も偉大な英国人の6位に選出されたニュートン。

アイザック・ニュートン(1643年 - 1727年) 物理学者数学者天文学者自然哲学者錬金術師、科学史上最も偉大な人物の一人と見なされている。

「万有引力の発見」「運動の3法則」「微分・積分法」などの人類科学分野における大発明をした偉大な科学者。しかも、それらは彼が24歳という若さで発表したもの。天才の中の天才と言ってもよいでしょう。

あのアインシュタインをして、ニュートンの功績なくしては、人類の科学はここまで進歩しなかったとまで語っています。

そんなニュートンの年収はどんな額だったのかを調べていきましょう。

貧乏のあまり「母親が身売り」

世帯年収300万という、今の日本でもかなりの低年収。
子供がいれば、とても教育にかける余裕はありませんでした。
このような苦境の中で彼は生まれ育ちました。
彼の父親は下級貴族でしたが、彼が生まれる3月前に亡くなってしまったのです。
残されたニュートンの母と彼は、農作業をして生計を立てるしか生きる術はなかったそうです。
彼は農業をやりたくなくて、母親は裕福な牧師と再婚します。
母親の女性として、事実上の身売りでした。
後年、ニュートンがお金に対する異常な執着を見せたのも「貧しさ故に牧師に母親を奪われた」というトラウマがあったからかも知れません。
そして、この夫婦に3人の子供が生まれると、ニュートンはこれを憎み、母親に対して「家に放火して一家を殺してやる!」とまでなじったとのことで、かなり複雑な家庭環境だったことが伺えます。

3大発見のあとで打ち込んだこと

その後、ニュートンはなんとかケンブリッジ大学へと入学します。小間使いのような下働き仕事をしながら、ハッキリ言って使いっ走りのようでした。
しかし、これで学費や食費はこの仕事で賄っていた様子。
その後、彼は物理学に開眼してめきめきと頭角を現していくのです。

彼の才能を認めた教授の支えもあり、26歳という若さで、大学教授に就任。
17世紀の大学教授の年収は年額100ポンド、現代の日本の貨幣価値で、
約1000万です。彼は講義で「光学」を指導するのですが、学生は彼の高度な講義が理解できず、だれもいない講堂で、一人で授業をするということもあったそうです。

ニュートンはこの時期から、変人であり、偏屈であり、学生や周囲の人には煙たがられていたようで、統合失調症的な症状が見られていたようですね。
不眠や、自制心のなさ、怒りっぽく対立する教授やライバルの科学者たちを論破することが生きがいという、性格の屈折さがありました。
しかし、彼の才能はさすがなもので、軌道に乗った実家の農業の収益と合わせて、年収は2000万ほどになりました。

昼は大学、夜は研究室で働きずくめの彼は、オカルトや錬金術の方面でも、その研究の手を緩めなかったようで、意外な一面を見せていました。

ニュートンの金運


お金に異様な執着を見せる彼は、さらに高収入を目指して、投資に励みます。奴隷貿易で暴利をあげていた「南海会社」での株に1万ポンドの大金をつぎ込み、巨利を上げました。そして、造幣局での仕事も引き受けていきました。

晩年のニュートンは年収が2億円までになり、その遺産は32億円にも達したということです。

また、彼には付き合っていた女性もいたようですが、事実婚で、生涯未婚で、後を継ぐ子供もいませんでした。
彼は大の猫好きで、二匹の猫を研究中に溺愛していたようです。
当時のイギリスでは、猫は野良猫が当たり前で、ペットとして飼う習慣はなく、それからしても、ニュートンが孤独で、猫に依存していたことが理解できます。というよりも、実父の死や母親の再婚などで、彼は女性や家庭に対して興味を失っていたとも解釈されています。

彼は80歳過ぎで亡くなりました。
当時のイギリス人は50代が平均寿命でしたから、かなり長寿です。
妻子がいない彼の遺産は甥や姪たちに分配されました。
しかし、平均以下の知能しかなかったと言われる彼らによって、有り余るほどの財産はすべて食いつぶされてしまい、天才科学者を受け継ぐ知的な後継者は現れずに、彼の科学者としての人生は一代で終わったということです。


参考文献「偉人の年収」堀江宏樹 イースト新書
ほかニュートンにまつわるエピソードの書籍など。

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