父の日


この週末の日曜日は父の日だ。

わたしは、実の父に父の日をお祝いしたことがない。もちろん母の日も。

それどころか自分の誕生日も祝われたこともなければ、家族の誰かの誕生日を祝ったこともない。

私が生まれた家は、クリスマスも、七夕もひな祭りも、端午の節句も、七五三も、子供であればだれもが喜ぶであろう季節ごとのイベントお祝い事を経験することなく育った。


エホバの証人の家に生まれたからである。



私の父は、私が子供のころは未信者であった。むしろ反対者だった。母とは宗教上の不一致なのか、性格の不一致なのか今となっては原因は不明だが、しょっちゅう激しい夫婦喧嘩を繰り広げていた。家は戸建ての一軒家で私の部屋は二階にあったが、一階のリビングでヒステリックに叫ぶ母の声で眠れなかった夜を幾度も経験した。そしてそれが今でも鮮明に幼少期の記憶として残っている。私や兄がさんざん鞭をされて、宗教活動に参加させられていても、父は全く無関心であった。本人はそんなことないと言うかもしれないが、子供の私にとってはそうとしか捉えられなかった。父との個人的な思い出はほとんど思い出せない。時折家族旅行には連れて行ってくれた。スキーにも行った。それでもそれは断片的で、父との会話で思い出せるものは驚くほど何もない。父への好きとかいう感情は一度も抱いたことはなかった。むしろ嫌いだった。離婚して欲しいとさえ思っていた。そうすれば家族全員一致してエホバの活動に勤しめると思っていた。やがて宗教上の不和が改善不可となった時点で、父は家を出て行った。単身赴任という体裁ではあったが、あれは間違いなくいわゆる”別居”だった。


しかしながら、私は20歳の時に脱会した。それを期に父は家に戻った。私がエホバの証人を辞めて、家を出て行ったら、母が精神的に崩壊することを懸念したことがきっかけだった。

正直家を出て行った後のことは本当によく分からないので実際の理由は違うのかもしれない。

何年か経って、父は入信した。

衝撃的だった。あれだけ反対していた父が、信者になった姿を想像することができなかった。あろうことか私に聖句付きの手紙をよこし、エホバの道に戻るよう説得してきたことが何度もあった。

2022年の7月に元首相が襲撃された事件をきっかけに、私のような環境で育ってきた宗教2世が世間でスポットライトが浴びるようになった。事態は急展開をして、今年になって私自身にもメディアで自ら発信する機会を与えられた。当事者たちの発信によってある程度の成果を収め、国をも動かす一大ムーブメントとなった。

このムーブメントをどう思っているのか自分の家族に問いたかった。

母にどういう気持ちで鞭をし、宗教活動を強制したのか聞きたかった。当時は必死だったのかもしれないが、今この報道を見てどう感じているのか知りたかった。そして既読無視を続けられているLINEに、メッセージを何度か送った。

そしてついに、この春に鞭による懲らしめについて直接話し合おうという趣旨のメッセージが来た。
そして2023年の4月8日に私は数年ぶりに実家を訪れた。母と二人で話をした。

その時の内容についてはいずれ後述しようと思う。この内容だけでもあまりに衝撃的で濃い内容だからである。

結論として、エホバの証人として生きることを辞めた家族との交流において、自分たちは勘違いをしていた。宗教上のつながりは断たれるけれども、家族としての関係は続く。しかしながら、親しい交流はするべきではない。共に食事や旅行なんかは親しい交流に含まれると思うから、そういうことはできないが、お互い新しい家族もいることだし、一度直接会おうということになった。

そんな久しぶりの息子の帰省でも、エホバの証人となった父とはほとんど会話をすることはできなかった。

4月に実家を訪れたなんとその翌日、父は病院にいた。検査の結果、悪性リンパ腫であることが分かった。しかもステージは3以上。無輸血での治療を保証できないと最初の病院で言われたために、かなり遠方の病院に入院せざるを得なかった。半年くらいの治療プランをこなしていく必要があったが、2週間ほどの入院で自宅療養へと移行した。

その間、私は兄とやり取りをしていた。恥ずかしい話、一度も父のお見舞いに向かうことはできなった。兄から容態を聞くことしかできなかった。それでも自分なりに父の病気についてある程度の情報を得ようとネットで調べたり、孫に会うことで少しでも活力になるのではないかと模索したり、実際に会う約束までしたのだ。

6月の23日に会う約束をしていた。私の両親と、兄夫婦。そして私の妻と息子。家を出て以来初めての出来事になるはずだった。私は兄の奥様には現役信者時代に幾度かあったことがあるが、正直顔も思い出せないくらいのコンタクトしかとったことはない。私の妻もそれ相応の心の準備をしてきてくれたつもりだった。

そんな矢先、昨夜のことである。急に父から電話があった。何事かと思って電話に出ると、「家族で話し合った結果、やはり今回お前たち家族に会うことは難しい。それはお前が組織に対して、家族に対してメディアで批判を繰り返し、我々を傷つけた結果だ。お前の気持ちと行動が改まらない限りは、会うことは難しい」

それでは今後も忌避し続けるということですね?自分たちがしてきた子育てに関して、息子に謝罪する気持ちはないということですね?
あなたはこれまで父として私に父親らしいこと何か一つでもしてくれましたか?無関心を貫いたあの時を一つも悔いていないってことですか?

お加減いかがですか?痛みはないですか?苦しくないですか? そういう言葉を息子としてはかけてあげたかった。

それでも気づいたら上述の言葉しか出てこなかった。

15分くらい話しただろうか。途中で母が代わって電話に出てきた。何を言葉として交わしたのか、あまり覚えていない。とにかく其方から家族としての関係は続くと言って、これからの関係を提案してきたのに、一方的に今度は会えないという。

和平交渉を勝手にしてきたのに突然国交断絶宣言をする。そんな外交戦術聞いたことがない。これがエホバのやり方なのだろうか。

こんな人たちに果たして愛を説く資格があるのだろうか。結局は自分が永遠の命を得たい、その欲望が信仰の根本にある、まさに自己愛の塊の集団ではないか。

自分なら、例えば家が火事になって息子が家に取り残されていたら、迷わず燃えさかる家に飛び込むだろう。しかしこの人たちは息子がハルマゲドンで死んじゃう。でも自分たちは助かりたいって人たちなんだね。親なら罪を犯してでも息子を取れよって思うけど、そういうマインドはあの人たちには全く通じないんですね。

息子をとったところで罪になるってどんな宗教なんでしょうね。そんな卑屈な心の狭い神様なんですねエホバって。

勘違いしないで欲しいのは、私自身が会いたがっていたのかと言われると、一切そんなことはない。むしろこの20年間親はいないものと思って生きてきたので、自分の人生において生きていくうえでどうしても必要な存在ではない。この先2度と会わなくても生きていける。死んでも涙はきっと出ないだろう。

これほどまでに振り回すくらいなら、いっそもう連絡してこないでいいです。そう伝えて電話を切ったことは覚えている。

こうして見事に忌避が再開をし、むしろさらに関係がひどくなったところで私たち家族としての交流は再び固く閉ざされることとなった。

これまで幾度となくこの宗教で傷付いてきた。
その度に誰にも頼ることなく生きてきた。
それでもこの歳になってもまだわたしを傷付けてくる。心に何度も鋭利な牙で切り裂いて、ズタボロにしてくる。

一度でも父と親子らしい会話をしたかったかと言われれば、したかったと答える。自分も父となり、こんなにも息子が愛しいから。息子には生きたいように生きてほしい。

どんな君でも愛しているって伝えたい。だからこそ自分の父に先輩としての意見も聞いてみたかった。


もう2度と叶うことはないのだけれど。



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