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第十二話 評論家たち 1

 絵を多くの人に知ってもらい見てもらうために、評論家、企画する人、美術館関係者、メディアの存在は欠かせない。
絵描き、ギャラリー、評論家、企画者、美術館、コレクターなどの互いの働きかけで絵の業界が動いている。

春陽会の会員になった頃、北海道から離れたことがない私の、銀座で個展を開きたいとの夢を叶えてくださったのが、SONPO美術館(旧安田火災東郷青児美術館)顧問であった並川汎氏だ。
春陽展の懇親会に出席されていた並川氏と帰りの電車で一緒になり、著書「ひまわりの画家ファン・ゴッホ」(ゴッホの手紙からゴッホにせまるユニークな書)をお送りくださったのが事の発端だ。
並川氏が美術年鑑社のHさんを紹介してくださり、春陽会の会員になったのを機に夢が実現したのだった。

並川氏は美術館を退職されてから株式会社 精神文化映像社の設立にかかわり、「スカパー!」の「ベターライフチャンネル」の番組「精神文化の時間」の撮影・制作をされていた。そのよき視聴者であった父との親交がはじまり、父が亡くなる三年ほど前までメールのやり取りが続いていたようだ。

東京で二回目の個展をギャラリーURANOで開いたときには、以前ウラノさんが百貨店の美術部に勤務されていたことから、別の百貨店に在籍されていた同業のMさんが個展に立ち寄って下さるようになった。コレクターでもあったMさんには絵も購入して頂いている。
ギャラリーURANOの閉廊後も、Mさんは制作にもたつく私を思い出しては企画されたグループ展のメンバーに加えて下さる。

鬼籍に入られた札幌芸術の森美術館館長であった笹野尚明(ささのたかあき)氏にもお世話になった。同郷の函館市谷地頭町に生まれ、35年住まわれていたとのこと。私は1963年から谷地頭町に住んでいたので思い出の風景が重なる。同じ谷地頭小学校の出身。(私は八雲町で生まれ函館で育った)札幌の美術展や企業の企画展への出品のお声をかけて下さった。また函館の美術館への所蔵を依頼する助言をして下さった。これは私の実力不足で叶わなかった。
もっと強く願うべきだったのかもしれない。「こうしたい」「私はこうなりたい」と意志と欲を示すべきであった。が私には自信がなかった。ここにはふさわしくないというブレーキが働いた。せっかく骨を折って頂いたのに
申し訳なく思う。

土地も人も縁だ。私がいくら函館を故郷に思っていても、その土地の風土を感じさせる作品や実力を伴った知名度がなければ片思いに終わる。
アーティストは自分の作品をプレゼンすることに慣れなくてはいけないし
その必要がある。自分を売り込む営業は悪いことではない。

ただ、親しくお付き合いするほど、その方々から絵に対する批評を受けたことがない。厳しい言葉が聴こえてこない。
批判されたら心穏やかでいられないだろうが、批評されないということは
それに値する作品が出来ていないことなのかもしれない。
自分自身で自作を問い続けるほかなさそうだ。

笹野尚明氏(1934-2011)



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