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第十六話 苦悩と光と

2010年を最後に個展を継続して開くことを断念した。
営業が合わない体質とわかりながら、保険営業の仕事は続けた。
大手の保険会社での法人営業から始まり、5年続けた後、家族経営の代理店に移ったが上手くいかず解雇された。どうしようもなくて個人事業主として一人で代理店をした。保険契約の手数料収入はわずかで生活できなかった。
営業手法はドブ板営業。ビルの上階から降りてきながら一軒一軒法人の飛び込み営業をしていくのだ。

「営業ができるように」なりたくて、飛び込んだ先の法人で「営業」のコンサルティングを受けた。世間を知らずぼんやりしていた私は、藁にもすがる思いだった。年収くらいのコンサルティング料を払った。
支払った分を取り返そうと人は必死になって成績を出すものだ、と言われたが、上達しなかった。
私がなかなか結果を出せないせいか、この法人の代表がいきなり連絡を絶ったため、税理士に相談し弁護士、警察を紹介してもらい、代金を取り戻した。怖い思いをした。

私はいったい何をしてきたのだろう。
絵を描くことに専念し力を注ぐべきところを、絵を描くための生活を立て直したいと大金と時間を費やした。投資はしたが目論見は大きく外れて失敗し痛い目に遭った。
自己啓発の意味さえ知らず五十年余り生きてきたツケが回ってきた。
「営業」の奥深さを学びはしたものの。

代金を取り戻しても生活が困難な状況は変わらなかった。雨の日も風の日も雪の日も毎日外歩きをし飛び込み営業を続けた。それしか知らなかった。
自分に自信がないから紹介営業の「紹介」を依頼できなかった。
その頃からFacebookを始めたけれども、SNSから集客し、見込み客をつくるという方法が金融商品の保険は合わないと感じた。金融の知識が追いつかないからブログを書くことなど思いも寄らなかった。

コンサルと反目しあう前に、保険ではなく絵を売ることを考えてはどうかとの助言を受け、どこに、誰に何を売りに行くのか必死に考えた。
私の絵は売れる気がしないから、多くの人のニーズに合うような明るい絵を描く作家の作品を売ろうかと考えた。また、病院や介護施設に絵を飾ってもらう筋道をつける方法がないか考えた。脳から血が出るんじゃないかと思うくらい、出来の悪い頭で考えた。
そして実際に行動に移した。名が売れている版画家に直に会って、販売の許可を得た。介護施設の設計をしていた法人担当者の引き合いがあり絵の展示について提案をした。また、作品の写真をファイルにしてインテリア関連の法人を訪問し、扱ってもらえないか直接交渉をしたり、思いつくことをいろいろと試した。しかし、どれも「違う」と感じた。

唯一、神の手が差し伸べられたのは、私設のH記念美術館のオーナーに絵を購入してくれないかとの手紙を書いた件だ。私の好みの絵が展示されているH美術館なら私の絵を理解してもらえるのではないかと思った。
手紙が届いたかどどうかくらいに携帯電話がなって、会ってくれるという。

オーナーの息子さんの館長が、絵を見て下さり展覧会を開いて頂くことが決まった。光が射した。
自分の作品を愛せずどうするのだ。暗い色調の一般受けしない作品が私のすべてだった。

コンサルティングを受けた日々を思い返すと、自分の浅はかさ、できない哀しみ、自分を変えることの難しさ、売れない苦悩、得たもの、失ったもの、さまざまな感情が押し寄せてくる。
コンサルティング料は取り戻したものの、人は同じ轍にはまってしまうものだ。二度目の大きな失敗の道は既に始まっていた。

この後も保険の営業からは離れず、中堅の保険代理店に拾ってもらい続けた。
絵も描いた。春陽会展は休まず出品した。通院しながら、絵と保険という相容れない仕事を十年間続けた。





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