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文章は書けないものだから心配するな

 さて、この春からばりばり書くぞ、と意気込んでいたのだが、「ものを書く」ということをあまりに本質的に考究した結果、ついに一丁字も書けなくなってしまったので慌てて路線転換する。ぐっと敷居を下げて適当に書いていこう。

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 しかし、この間考えていたこともまったく無駄ではないと思うんですよね。まずはそれについて述べますと、

 だいたいこういうことになります(念のために言っておくとこれは批評的文章、あるいは何かしらの思想性や作品性のある文章についての話ですのであしからず)。
 仮にあなたが〝お花畑〟ではないとすると、だいたいこういうことに思い当たるのではないでしょうか。「自分は無知だ」「自分はなんもわかっちゃいない」と。
 ただ知識が足りないだけではない。もしお花畑でないとすれば、この複雑怪奇、かつ混迷のきわみにあるような世界について何がしかの確信をもって語れるというのはおかしいのではないか。
 次の可能性として、職業的-習慣的-機械的に――あるいは深く考えずにルーティーン-手癖で書くこと(いま僕のやっていることです)。ここには職業文筆家のやっつけ仕事から、インフルエンサーのアジテーション的文章も含まれる。
 そして最後の可能性として、スラヴォイ・ジジェクのような本物の天才(てきとうに名前を挙げたわけではない。ジジェクはめちゃくちゃ健筆である)がいるわけだが、とりあえず自分がそれである可能性はない。

 ということで、天才でもお花畑でもないとするならば、あるていど(この「あるていど」がどのくらいか、っちゅう匙加減の問題もあるわけだが)ルーティーン-手癖で書くことを許容するか、あるいは何も書けなくなるかの二者択一になるわけで、僕は前者を選んだのでこうやって今日のところは書けているわけです。ま、当面は居酒屋おっさんのくだ巻きレベルでよしとしよう。

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 しかしこの躓き――無知の自覚や、世界に対して何も確信を持って言えない感じというのは、けっして悪いものではないのではないか。自分で言うのもなんだけどこれが誠実ってことなのではないか、と思うわけです。
 そうやって考え、世の中を見渡すとどいつもこいつも大した根拠もないのに確信を持って語りすぎじゃないのか。また偽預言者の自信ありげな発言にカリスマを感じてコロっといく人が多すぎなのではないか。

 ただ先程も述べたように、本当に躓き続けていたらなにも書けなくなってしまうので、そういう「自分はなにもわかっちゃいねえ」という自覚を持ちつつも、実践的にはあるていどルーティーン-手癖を許容してゆく、ということになるのでしょう。

 さてひとまずはこれだけにしておきます。ふう。やっと年度が変わってから一本書けた。それではまた(・ω・)ノシ


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