2017年7月の記事一覧
佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第8回:雨の詩の匂い
雨の匂いというとまっさきにアポリネールの視覚詩「Il pleut」を思い出した。
窪田般彌訳では「あめがふる」と表記された題の五行の詩で、活字は原文と同じく左上から右下へ、流れるように斜めに配置されている。その最初(左端)の行では
あめがふる おんなたちのこえが おもいでのなかでさえも しんでしまったように
と、いかにも湿った追憶がこだまする。
詩は匂わないけれど(詩集は紙の匂いがするけれ
現代詩手帖7月号「新鋭詩集2017」を読む
現代詩手帖の7月号をどうにか7月中に手にすることができた。最近のミュンヘンの郵便事情はだんだんイタリア化しつつあって、ときには日本から送った航空便が到着するのに一月近くかかることもあるのだ。
さて今月の特集は「新鋭詩集」。尾久守侑、金井裕美子、鈴木一平、十田撓子、仲田有里、永方佑樹、野崎有以、荻野なつみ、久石ソナ、村上由起子、山崎修平の11人がフィーチャーされている。
この中で会ったことのある
隅田有『クロッシング』:永遠の「よそ者」のためのパスポート
昨年、雑誌「びーぐる」31号の「土地の詩学」特集で、僕は隅田有の詩について次のように書いた。
この文章の最後を、私が読んだ限りもっとも新しいタイプの「地名詩」であると思われる作品で締めくくろう。隅田有の「ナリヒラ」である。その冒頭部分。
肉襦袢のような気泡緩衝材 もしくはプチプチ
好きなだけ潰しなさいって陽気にお前
いっこ潰しては雨上がりの白玉
またいっこ潰してはサクランボゼリー
次々と発送さ
佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第7回:斉藤倫詩集『さよなら、柩』評
斉藤さんの詩集はいずれも一貫して内気で繊細なのだけれど、本書では歴史上の人物ルドルフ・ヘスから「幹事」「男子中学生」まで、いろんな人たちが罪とか悪とかについてうらうら考えているというスケールアップ(?)がみられる。無垢というもののありにくさをさびしみつつ、なおも求め続けることが詩作であるというように。
「愛してるの/してるだけが/好きなんでしょう(中略)□してるの/□には何が入っても/気づきもし
『多島海』で江口節さんと再会する:呼ばれ、封じられ、再び呼ばれる名前
江口節さんに初めてお会いしたのは2013年春の、ある小さな詩の集まりだった。一応は出演者と聴衆に分かれているのだが、実はほとんどの人が自分でも詩を書いていて、正式なプログラムが終わると、むしろそれを待ち構えていたかのように即興の朗読会が始まる。そうやって自作を読んだうちのひとりが江口さんだった。
そのときの詩が何だったか、もう覚えていない。でも朗読に先立って彼女が物静かな、それでいて朗らかな笑み
小池昌代『ときめき百人一首』を読む:古典の岩肌に浮かび上がる現代詩人の忍摺り
河出書房新社の「14歳の世渡り術」シリーズのひとつとして書かれた「味わうための百人一首入門!!」という触れこみだけど、54歳をとうに越えた僕にとっても、衝撃的な一冊だった。
百人一首だけではなく和歌という詩形式を味わうための指南書でありながら、同時に小池昌代というひとりの現代詩人のアフォリズム集にもなっている。そしてそのなかから詩とその技法、そして生の諸相に関する深くて赤裸々な(14歳には早
佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第5回:高階杞一『夜にいっぱいやってくる』評
夜にいっぱいといえば、あれだあれ。おばけ。おばけの絵本をひらく気分で、五つのパートから成る表題作を読んでみたら、たしかに五つの奇妙な光景が部分的連鎖をなしてはいるものの、おばけの楽しさからは少々遠かった。そこには、口調はソフトでも、いわくいいがたい不安や不快が描かれていた。〈床に転がっている指を/一つ一つ拾い集めている椅子がいる//「どうするの そんなもの」/「二十本集めたら一人ができる」〉(5「
もっとみる佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第1回:私の好きな詩人――多田智満子――
教科書をはなれ、自主的に詩をさがすようになって最初に好きになった詩人が多田智満子ではなかったかと、なんとなく思いだした。
夏の少年
1
たくさんの裸足【はだし】の駈けまわった大地の上に
ぼくたちよこたわる
だれとも抱きあわないで
どんな未来よりも完全な子供になって
2
ぼくたちぶらさがる
ひるさがりのぶらんこ
熟れかけたあけびの実のような
ぼくたちのか