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許さない世界(芥川の事ども 菊池寛)

 ──芥川の死については、色々な事が書けそうで、書き出してみると何も書けない。書けば書くほど、死にはつながらない。当たり前の生活の事ばかりだ。

 死んだ理由について、我々もはっきりとしたことは何もわからない。でもわかっている。わからないのではなく、世の中の人を納得させるに足りる、決定的な、具体的な原因は無い、と言うのが本当だろう。結局、一言で言わせると、重要な原因は「ボンヤリした不安」としか言いようがない。
 二、三年の疲労、わずらわしい世俗的な宗教からの苦労、あんなものが、彼の絶望的な人生観を深くさせたから、こんな結果になったのだろう。
 昨年の彼の、釈迦の言う病苦は仏罰だろうか、かなり彼の心身を責め、いじめた。身体的、精神的にいじめられた過労から来る、不眠症、破壊された胃腸、持病の痔など、様々なことがツルのように相互に絡みあい、彼の生きる力は奪われた。こうした釈迦の病苦に悩まされての彼の自殺は、徐々に決心されたのだろう。
 ここ二、三年、彼の宗教的な苦労は絶えなかった。我々の中で、一番、地位や名誉などの執着を捨て、自分を清く保ち、世の中の避けて通りたいものを嫌がった芥川が一番苦手な、ああいった宗教的な苦労がつきまとっていたのは、何という皮肉だろう。
 問題の本は、凝り性の芥川が心血を注いで編集したもので、あらゆる文人が文句を言わず納得できるよう、出来るだけ平等に多くのいろいろな人の作品を収録した。芥川としては、それは、どんな人にも敬意を失うことのない、心からの配慮だった。そのため、収録された作者数は、百二、三十人にもなった。しかし、あまりに凝り過ぎて、あまりに芸術的だったのか、たくさん売れなかった。印税も編集を手伝ったもので分けたので、芥川は働いたうち、十分の一の報酬も得られなかった。
 それなのに、一体どういうわけか、とんでもない噂が蔓延した。「芥川は、我々の作品を無断利用し、自分一人だけが大儲けして、豪華な書斎を建てやがった」という根拠不明のでたらめが噂になった。中には、「我々、貧乏な作家の作品を集めて、一人で儲けるとは非常識だ。我々に金を払わないと仏罰が下るぞ」と、怒って不満を言う作家まで出てきた。こうした根拠不明の嫌な噂を、繊細な芥川が、どれだけ気にしたか。芥川としては、あまりにもやりきれない噂に違いなかった。懸命に、みんなに敬意をはらい、時間をかけて作り、それは全く売れず、自分に入った金は僅か。それは働いた分にも全然足りないのに、なのにそれを、貧乏人を虐めた芥川は最低などと、そんなでたらめを噂して、嫌がらせをされた芥川は堪らなかっただろう。「今後、あの本の印税は全部、文芸のために寄付するようにしたい」と、芥川は私に言った。私は、「あんな噂を気にすることはない、寄付などすれば、かえって問題を大きくするようなものだ。でたらめを言う奴らのことは無視だ。だいたい本は実際に売れていない。どこに金が支払われた。君ばかり、あんなに労力を払っているのに。グズグズ言う奴には言わして置けばいい」と、しつこく彼に言った。
 彼が多くの作家を入れたのは、各作家に対する賛辞で、金の道具にしたのではなく、彼は全ての作品を大事な芸術品として扱った。少ない人だけ、一部だけとりあげると、それこそ他の人に失礼になると思って、それが、かえってあんなデタラメを呼び起す火種になり──彼としては予想外で、非常に悔しいことだっただろう。私の言葉を聞いて、彼は寄付を取りやめた。そして、「それなら、今後、印税は各作家に分配する」と言い出した。私は断固反対した。金のために、芸術作品を利用しようと、デタラメを言ったり信じる心は、どっちだ。ああいう類の本は、誰の作品でも収録されて了承される世界だった。以前からこの世界では、お互いに許し合っていた。それなのに後から来たものを受け入れた方が、なぜ新参者のルールに、我々ばかりが従わなければならない。もっと黙って引っこ抜いても構わいくらいだった。でも君は違った。あんなに丁寧に、一人一人から掲載の許可をもらった。それなのに。だいたい非常な利益を得ているならともかく、売れもしないのに、あんなにも悪い噂を大声で撒き散らすやつに、何を分配するものがあるか。「そんなことをする必要は絶対にない」と、私は言った。百二、三十人に分配して、一人に十円ずつやったくらいで何になるというのだ。バカバカしい。しかし彼らにとってはそれが、新しい世界で、彼らの新しいルールで、彼らにとってのあるべき世界や伝説への第一歩なのだ。それでもやり方や場所が選ばれる必要がある。なぜ芥川がこんな目にあわなければならない。妙な噂まで流されて、こちらが一人ずつから十円を受け取りたいくらいだ。私がそう言えば、その場ではウンと言ったのだが、彼はやはり噂に負けて、三越の十円切手を各作家、全員に贈ったらしい。私は、こんなにまで、こんなことを気にする芥川がとても悲しかった。だが、彼の不正や不潔を嫌う心は、こうせずにはいられなかった。
 この事件の前後に、この事件と関連して、よくわからない鬱陶しい事件が三つも四つもあった。私であれば「仏罰が下るぞ!」と言われようもんなら「勝手にしやがれ!」と突き放すところを、芥川は最後までずっと気に病んでいたらしい。それが、みんな宗教的な事件で、芥川の神経には、たまらないことばかりだった。
 その上、家族のことでも、義兄の自殺、頼みにしていた夫人の弟の発病など、どういうわけか、謎の連続不幸が続いていた。
 そうした不幸が積み重ねられて、彼の生きているのが嫌になる人生観を、いよいよ実際的なものとし、それは、彼の宗教からの苦しみと、どれがどれなのか、複雑に手を組んで、ボンヤリと自殺の時期を急がせたらしい。
 そういう視点で、彼の「手記」については、文字通り信じるのが正しい。あれ以上、いろいろ憶測を試みようとするのは、そのような視点では死者に対する冒涜だ。あの中の女が妻でないとしても、恋愛問題が、ある程度以上のものであるわけがない。あんな女でも、求めようとしたら求められたという程度のものだろう。「あの女との関係について、僕宛の、この遺書には書いてある」と、奇怪な妄想の噂を言いふらす者もいたが、そういう妄想を信じる輩には、いつでもこの遺書を見せてやろうと思っている。こっちにも、それについては証拠がある。僕宛の遺書は、僕に対する死別の挨拶だけで、他の文句は少しもない。
 芥川の「手記」を読めば、芥川の心境は澄み渡り、落ち付き、決して生々しい原因で死んだのでないことは、賢い人間には一読してわかるだろう。芥川としては自殺ということで、世間を驚かすことも避けたかった。病死を装いたかったのだろう。

 疑って読むべきところ、疑って読まないべきところは選ばなければならない。

 芥川と自分は、十二、三年の付き合いがある。一高時代に芥川は、恒藤君と最も仲が良かった。一高時代は、一組ずつの親友を作るものだが、芥川の相手は恒藤君だった。この二人の秀才は、伝統の僧なものかと思った。我々は我々で久米、佐野、松岡などといっしょに野党として暴れまわっていたが、僕は芥川とは付き合わなかった。
 僕が芥川と付き合い始めたのは一高を出た以後。一高を出て、京都に行って夏休みに上京した頃、はじめて芥川と親しくなりたいと思った。その後、自分が時事新報にいた頃から親しくなり、大正八年、芥川の紹介で大阪毎日の客員となった頃から、本格的に親しくなったと思う。最近は、自分が多忙なので、月に一度くらいしか会わなかった。なので、近頃、芥川と最も親しかったのは小穴隆一君だろう。小穴君は芥川に師事し、毎日必ず芥川のところへ行くという状況だった。
 芥川と僕は趣味や性格も正反対で、僕は芥川の趣味などに、嘘でも、いいね、なんてしたことはなく、表情にも愛想笑いは出さない。芥川が気に入らないことは、たくさんあっただろう。しかし、十年間一度も気持ちのへだたりを感じたことはない。自分は何かに憤慨すると、すぐ速達を飛ばすので、一時「菊池の速達」として有名であった。しかし、芥川だけには一度もこの速達を出したことがない。
 僕と芥川では、僕の方が芥川に迷惑をかけた事が多いと思う。しかし、それにもかかわらず、僕の言う無理を、彼は大抵聞いてくれた。最近の共同編集も、自殺を決心していた彼としては嫌だったに違いないが、僕を不快にさせないようにと、最後の交流として、承諾してくれたのだろう。彼がくれた自分宛の遺書の日付は、四月十六日なので、もうその頃には決心していたわけだ。
 今から考えると、自分は芥川に何も出来なかったが、彼は影ながら、自分について何かと心配していてくれたらしい。去年の十月頃、鵠沼にいた頃、僕のある事件を心配して、注意をしてくれ、「もし自分に出来ることがあったら上京するから、電報をくれ」と手紙をくれた。ところが自分は、その事件などは少しも心配していなかったので、「心配してくれなくていい」と、有り難く返事した。芥川が疲れて悩みながら、僕のことまで考えてくれたことを嬉しく思った。彼は、近年僕が創作しない事を、かなり心配したらしく、いつかも、「君が作家としていいものを書いていくことが必要だよ」と言ってくれた。それに対して、「いや、そうは思わない。作家としての僕と、編集者としての僕は、また別だ。編集者として全力を出せば、雑誌はもっと発展すると思う」と言って、僕は芥川の説を聞かなかった。だが芥川の真意は、僕がああいった創作を全然発表しない事を心配したのだろうと思った。
 僕が最も遺憾に思うことは、芥川が死ぬ前に、一カ月以上も彼とまともに会わなかったことだ。この前も座談会で二度会うには会ったが、他にせわしい用事があり話はしなかった。その上、例の本があんなにゴタゴタを起こし、こちらも本当に気の毒で、芥川と顔を合わせるのが辛かった。座談会が終わった後も、僕は出席者を送らなければならなかったし、芥川と話す機会を作ろうともしなかった。ただ、座談会があったとき、私が車に乗ろうとしたとき、彼はちらっと僕の方を見たが、その眼は異様なほど、しっかりと目立った。(芥川は僕と話したいのだな)と思ったが、もう車は動き出していて、それきりだった。芥川は、誰かを自分の希望で引き止めてまで、こうしたいと言う男ではないのだが、あの時の眼付きの訴えには、僕ともっと話したい強い気持ちがあった気がする。僕は、あの眼付きが気になったが、前にも言った通り、芥川にあわせる顔がなく、芥川に用事があれば、人に頼んで済ませていた。
 死後にわかったことだが、彼は七月の初旬、二度も私を会社まで訪ねてくれたらしい。二度とも僕はいなかった。これも後で分ったことだが、一度目は、芥川は、ボンヤリと応接室にしばらく座っていたという。しかも社員は、なぜか一人も、芥川が来訪したことを僕に教えてくれなかった。芥川が「伝えなくていい」と言ったのだろうか。それでも芥川を思えば、誰か一人くらい、芥川が来て待っていたよ、と僕に言ってくれてもよかったのではないか。大事な用があったかもしれない。芥川が僕の不在中に来たときは、その翌日には彼を訪ねることにしていたが、芥川が会いに来たことを誰にも教えてもらえなかった僕は、仕事も忙しく、とうとう彼を訪ねなかった。彼の死について、僕の心残りはこればかりだ。こうなってみると、最後に芥川が僕を見た眼付きは、僕にとって消えない、後悔の光景となるだろう。
 彼が僕を頼もしいと思っていたのは、僕の生きる力だろう。そういう点が一番欠けている彼は、僕を友達とすることで、力強く思ったに違いない。だからこそ僕がもっと彼と会って、彼の活力が出るように、「芥川は、生きなければならない」と、刺激できていたらと思うが、後の祭りだ。
 作家としての彼の評価は、公平な世の中の判断に委ねるとして、僕は、次の事を言う。彼のように高い教養と秀でた趣味と、世界の広い学問を備えた作家は、今後現れない。古い日本や中国の伝統から、趣味から、そして欧州の様々を備えた意味で、芥川は日本における最後の代表作家だろう。我々の次の時代では、日本と中国、世界の正統な伝統や趣味が文芸に現われることなど、皆無だと予測する。
 彼は、文学上の読書量は、誰とも比べようがない。あの手記の中にあるマインレンデルについて、火葬場からの帰り、恒藤君が僕に聞いた。
「君、マインレンデルを知っているか。」
「マインドコントロール?」
「いや、マインレンデル」
「知らない」
「僕も知らない。あれは、人の名前か?」
「洗脳っていうのは……」
「マインドコントロール」
「ああ、宗教……」
「……あの、精神的ないじめというのは?」
「……それが、マインレンデル……」
「──全て、完全に、何かに服従すること。最低の仕事をすること。盲目的に服従せねばならぬことへの願望がある人達──」
「──マインレンデルは、抽象的な、ぼんやりとした言葉に、巧みに死に向かわせようと、死に向かう様子を匂わせているに違いない──」
「──いつ、自殺出来るかは、疑問で──」
「──病死のよう、自殺ではないかもしれない──」
「これ、──薬局や銃砲店や剃刀屋が、たとえ知らない、証拠がないと言ったにしても、我々人間の言葉や表情に、我々を、死にたいと思わせるものが現れる限り、多少は、それらの犯罪は疑われるべきだ。それなのに、社会や法律は、それらで自殺幇助罪を許している。この犯罪人たちは、大抵は、表向きに、優しい心を持っていることにされるだろう──」
 マインレンデルとは──
 山本有三、井汲清治、豊島與志雄がいたが、誰も知らなかった。あの手記を読んで、マインレンデルが何かを知っていた者は何人かいただろう。二、三日して、恒藤君の話では──マインドコントロール。マインレンデルは、ドイツの哲学者で、結局、自殺が最良の道であることを吹聴した学者だろう、との事だった。
 芥川はいろいろな方面で、多くのマインドコントロールを読んで理解する男に違いなかった。
 数年前、ある宗教に説破されて、感心していたから、社会科学の方面についての読みなども、いい加減な文学者などより、もっと深いところまで進んでいたように思う。芥川の言い方からしても、社会不安に対する不安も、この国の未来の果てを観て、それが、「ボンヤリした不安」に入っているようにさえ思う。
 彼は、自分の周囲に壁を作って、嫌な人間は、決してその中に入れなかった。しかし彼が信頼して、何らかの美点を認める人間に対しては、彼はとても親切だった。よく面倒を見てやった。接近した人間に、たとえ迷惑をかけられても、簡単に突き放せなかった。
 皮肉で聡明だったが、実生活は道徳的であり、親切であった。彼がもっと悪人だったら、あんな下らない嫌がらせにこだわらず、生き続けただろう。
 記事に出た話、芥川家の女中によると、彼は死ぬ少し前、カンシャクを起こして花瓶を壊したという。本当に、彼のカンシャクによるものなのか、本当に芥川が壊したのか、それすら、嘘か本当か知らない。カンシャクであっても、何がカンシャクを起こさせたのか。全てが原因で、語ろうとするほどボンヤリが現れる。けれど、もっと常日頃から花瓶を壊していたら、あんなことにはならなかったと思う。あまりにも、品のよい我慢をし続けすぎたと思う。
 芥川が、文学に尽くしてくれたことには感謝しかない。永久にこの人を記念したい。──侏儒の言葉は、必ずしも私の思想を伝えるものではない。ただ、私の思想の変化を、時々、覗くに過ぎない。一本の草よりも、一すじのツル草──しかもその蔓草は、何本も蔓を伸ばしているかも知れない──「侏儒の言葉」欄は、死後も本誌のつづく限り存続させたい。未発表の書き物と書簡で、当分は材料に困らないし、材料がなくなれば、彼に関するあらゆる文章を載せてもいいと思う。小穴隆一君に編集を任せるつもりだ。「大石寺を見ずして、寺を語ることなかれ」、大町桂月氏を記念するために、「桂月」という雑誌さえあるのだから、本誌一、二頁の「侏儒の言葉欄」を設けるのは、適切なことだと思う。
 ついでに、最近の彼の文章に、「──どんな人も許されると言いながら、どんな人も許さない世界を望む何か──」という一節があった。

 文壇人および他の人で、故人に対し、少しでも心当たりのある隠し事を知る人がいるのなら、故人のこの気持ちをくんで、この際、釈然としない、疑わしいことを、手遅れになる前に全て明らかにしてほしい。

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