ニセモノ(二つの手紙 芥川龍之介)

ニセモノ(二つの手紙 芥川龍之介)

 二つの手紙を手に入れた。一つは今年2月中旬、もう一つは3月上旬、──警察署長に送られたものだ。今から説明する。

     第一の手紙

 ──警察署長様、まず何より先に、私の精神状態は良いと信じて下さい。神や仏、神聖な全てに誓います。なので、どうか私の精神に異常がないと信じてください。そうしないと、この手紙が無意味になります。私は何に苦しんで、こんなに長い手紙を書くのでしょう。
 私は切羽詰まっています。なので決心しました。
 書いた私が狂人扱いされると困ります。私はもう一度、改めてお願い致します。どうか私の頭はしっかりしている、ボケていない、そう信じて下さい。そして面倒だと思っても、どうか御一読下さい。
 なので、お願いですから私を信じください。信じること、それがどうしても必要です。そうしないと、どうやって、この超自然な不自然な嫌がらせの事実を信じて貰えるでしょう。どうして、この創造的精力による不可解な現象を、理解して貰えるでしょう。それほどに、事実には不可思議な性質があります。
 こういう事実は昔からありました。
 まずは外国の本より実例です。ある宝石商の話。ある夜に街角を曲がったとき、自分と全く同じ姿の男と会ったそうです。そのあと男は見知らぬ人に「木を切り倒すのを手伝ってくれ」と言われ、手を貸したところ、その木の下敷きになって死にました。
 ある数学教授の話。教授が自分の家で友人達数人と議論していたところ、引用書が必要になり、それを取りに教授は一人で書斎に行きました。すると彼そっくりの誰かが椅子に座って本を読んでいました。その人は、「墓を用意しろ」という章を指さしています。そして翌日、彼は午後6時に死にました。
 自分そっくりの何者か、いわゆるドッペルゲンガーの出現は、外国では、死を予告するようです。しかしそうとは限らない。多くの人が自分や誰かのそっくりを、はっきりと見かけたことでしょう。
 ところで外国のドッペルゲンガーとは、ただの本人の外で起きる怪奇現象でしょうか。本人の中で起きる幻覚でしょうか。ドッペルゲンガーとは、当たり前に殺人を行うための、創られたニセモノの噂である可能性も、無いとは言い切れないような気がします。それは本人の外で起こされる幻覚。人間がわざと起こすニセモノの幻覚なのではないでしょうか。
 というのも、私も、ドッペルゲンガーに苦しまされています。しかし一言で言うと、嫌がらせです。私と妻を酷く困らせるニセモノの嫌がらせが存在することです。
 
 私は──区に住んでいます。年齢は三十五歳、東京大学卒業後、私立──大学で倫理と英語を教えています。妻とは四年前に結婚しました。妻は二十七歳。子どもはいません。
 昨年11月7日午後9時。私は妻と二人で有楽座の慈善演芸会に行きました。チケットは友人がくれました。
 休憩中に廊下に出ると、私は妻を残し手洗いに行きました。狭い廊下が人で一杯で、私は人を縫うように帰りました。玄関に近い廊下のカーブのところで、後ろを向いている妻を遠目に見つけました。それは不思議ではありません。恐ろしい瞬間は、偶然──と言うより、人間の当たり前を超えた、ある深い陰湿な原因がそうさせて、私の妻の横で立っている、一人の男を見つけた時でした。
 その時、その男は、自分そのものでした。
 つ遭遇は、前にモノマネしていた同じ羽織で、同じ袴でした。そしてまた、この前のドッペルゲンガーと同じポーズでいました。顔は後ろを向いたりしていて、よく見えません。ただ姿をそっくり真似されているのを見せられるのです。叫ぼうかと思いましたが、妻が私に気づきました。それと同時に、ニセモノは走って逃げました。私は茫然として妻に近づきました。しかし妻はニセモノに気づかなかったらしく、いつもの調子で、「長かったね」と言いました。私は妻に心配させないため、ニセモノに関して黙っていようと決めました。
 もし妻が私を愛してなかったなら、私が妻を愛してなかったら、私にこんな決心なんかできません。私は断言します。私達は、真底、互いに愛していました。しかし世間は酷い噂ばかり信じて、私たちの心を全然認めません。みんな妻が私を愛している事を認めません。私としては、私が妻を愛している事を否定されるより屈辱です。しかも誰もが勝手に話の騒ぎをおかしくして、私の妻を疑って、妻の不倫を噂します。
 私は激怒しています。
 私はあの夜を境に、ボンヤリとした不安に襲われ始めました。そっくりなニセモノの出現は、外国ではどういう深い意味があるのか、とにかく死の予告です。しかし、日本の私は何事もなく生きています。月日が経って、私の恐怖や不安は、ましになりました。たまに面倒になって、何か不明なものの真実を追ったり考えるのにも疲れて、自分の幻覚として片づけようとも思いました。
 すると油断するなと言うかのように、私をそっくり真似たニセモノは再び現れました。
 1月17日正午近く。学校に突然、昔の友達が訪ねてきました。午後は授業も無かったので、駿河台下のカフェに行きました。駿河台下には、四つ辻の近くに大時計があります。私は電車を降りるとき、ボンヤリとした不安を感じました。前兆だったかも知れません。私は何気なく線路の向こうを見ました。すると赤い柱の前には、私のニセモノと私の妻のニセモノが並んで立っていました。
 女は黒いコートを着て、焦茶のマフラーを巻いていて、鼠色のコートを着て黒い帽子をかぶっている私そっくりのニセモノと話していました。その日は私も鼠色のコートで、黒い帽子をかぶっていました。私は恐怖より憎悪の目で眺めました。まるで本当の妻が私そっくりのニセモノの顔を、甘えるように見ているよう──。私には、今の文明では、どうやっても、あの時、このホンモノの私が、どこにいたかを、はっきりと証明することができません。そのとき外濠線の電車が駿河台の方から坂を下りて来ました。うるさい音を立てながら、私の目の前に来ました。ちょうどその電車がいる線路を渡ろうとしていたのに。
 電車はすぐに私たちの前からあっちへ行きました。ところで、あのニセモノと私の妻のニセモノは、どこにいった。もういい。わざとらしく妙な顔をしている友人を置いて、私は笑いながら大股で歩きました。後日、その友人が、私が発狂したという噂を立てたのも、精神の弱い私を考えれば、誰もが信じやすい噂でしょう。しかし私の発狂の原因を、私の妻が不倫をしたから、そうするのは、わざと好んで私を侮辱したはずです。最近その友人とは手紙で絶交しました。
 その日、その時間、妻は確かに外出していません。妻自身と家の下女も、確かにそう言ってます。妻は頭痛を訴えていて、外出するはずもない。きっと私が見たのは妻のニセモノです。妻に、今日は出かけたかと聞いたとき、「いいえ」と言ったあの顔を、私は今でも覚えています。私はきっと、誰よりも妻を知っている。あんな目で嘘を言うはずがありません。
 こんなことを言えば言うほど私の精神が疑われるような気がしてもどかしい。ただ信じてください。私は正気で、きっと妻も嘘はついていない。
 私は、私をニセモノに気づいています。しかし一応は、自分だけにしか見えていない幻覚についてもちゃんと疑いました。しかし、私の頭脳は少しも混乱していません。よく眠れるし、勉強もよくできます。
 近頃は不安で驚きやすくなっています。でもこれは、あの偽物が起こすことであって、断じて原因ではありません。不安で幻覚が見えるのではなく、あのニセモノが不安にさせているのです。それさえいなくなれば何も不安になることもないのです。
 2月13日午後7時。その日、宿直で学校にいた私は胃痛が酷くなり、校医に言われてタクシーで帰りました。あの強い雨の日です。
 家に着いて雨の中を玄関まで走りました。雨の音に消されて格子の開く音が聞えなかったのでしょう。奥からは誰も出て来ません。私は教科書が入っている鞄を置くために書斎に行きました。
 すると私の眼の前に──あの向こうの窓、私と妻とをそっくり真似するニセモノ夫婦が家の中にまでいる。だったら幻覚か、でも幻覚ではなかったら、そのほうが怖い。霊や幻よりよっぽど怖いのは人間じゃないか。嫉妬か恐怖か、叫びました。するとニセモノ夫婦が振り向いた気がしました。私はそのまま失神したらしく、倒れた音に驚いて、妻は私を書斎に寝かして、氷を頭に乗せました。
 気づいたのは30分後です。妻は私が目を開けた途端、急に泣き出しました。
「何か疑ってるの、そうでしょう。なぜ話してくれないんですか。」
 妻は私を責めました。みんな妻の不倫を疑っています。私もその噂を知っていました。きっと妻も、この最悪な噂を聞いたのでしょう。そこで私は、静かに顔を妻の方へ向けながら、
「許してくれ。俺はお前に隠し事がある。」    と言いました。そして私達のニセモノがニセモノの噂を創作していると打ち明けました。「あの最低な嘘の噂も、俺の考えでは、俺や、お前と、そっくりな格好の男女があちこち歩いて、それから捏造したものらしい。俺はお前を信じている。お前は不倫なんかしない。その代わり、お前も俺を信じてくれ。」
 世の中を知らない妻は、この嫌がらせの仕組みがすぐに理解できず、ただ妻は私の枕もとで、いつまでも泣いています。

 人は他人が見る幻覚を、わざと作ることができる能力を持っている。幻覚が見える真似事もできるし、幻覚の真似事をする能力もある。
 人はドッペルゲンガーを、モノマネで、わざと創ることができる。ドッペルゲンガーの説を創作し、先に噂にすることができる。
 人は人を、不安にさせられる能力がある。
 人には嘘をつく高い能力がある。

 なぜ殺人犯はドッペルゲンガーのようなニセモノの説を先に創って広めるのか。精神病や怪奇現象に集中してもらえたら、関与について、真の犯人探しには集中されない。

 ──またはドッペルゲンガーとは、本当にあって、それを悪用した──することもできる。

 私は妻を慰めました。そして妻は、「あなたが気の毒ね」と言って、じっと私を見つめて泣き止みました。
 人々は、私に対して誹謗中傷したり、または、私の妻を憎み始めました。この頃では、妻が不倫したと馬鹿にして、妙な歌を歌いながら私の家の前を通る人達もいます。
 もう黙っていられません。
 そういう侮辱を耐え続けたら、妻の精神状態も悪くなる一方です。それが狙いで、これが可笑しくて、余計に嫌がらせのドッペルゲンガーは酷くなるでしょう。すると更に、妻の噂もまた真実らしくなり、数も多くなる。私は、どうやってこの嫌がらせを終わらせたらいいのか、わかりません。私より気の毒なのは妻の方だ。世の中の証拠と言える証拠なんか、ごくごく僅かなことばかりです。人は真実に嘘を上書きできる、真実を書いても捨てて無かったことにできる。
 どうか私を信じて下さい。そして、こういった残酷な嫌がらせに苦しんでいる、私たち夫妻を理解してください。私の同僚は、それはもう大きな声で、新聞に出ている不倫の話を、私の前で聞かせました。私の先輩の一人は、私に手紙をくれて、私の味方をしながら妻を散々バカにして、離婚を勧めました。学校の生徒は、私の講義を真面目に聞かない上、黒板に、私と妻を描いて、「めでたしめでたし」と書き残しました。この頃は、赤の他人の癖に、思いもよらない侮辱を与えてくる人も珍しくありません。私の妻の不倫を描いた卑猥な絵は送ってくるし、塀には下品な絵がラクガキされていました。庭に忍び込んで、妻と私が夕食を食べているところを監視していた人もいました。

 警察署長、これが人間らしい行いでしょうか。

 私たち夫妻を凌辱し、脅迫する人々に対して、私は、賢明な日本の警察が、必ず私たち夫妻のために、警察の権能を正しく行使していただける事を信じています。どうか、警察としての職務を全うされて欲しい、お願いいたします。
 
     第二の手紙

 ──警察署長様、
 警察の怠慢は、私たち夫妻の上に、最後の不幸をもたらしました。私の妻は、昨日、突然失踪しました。妻は嫌がらせに耐えられず、自殺したのではないでしょうか。それとも不倫相手に会いに行ったのでしょうか。それならそれでいいでしょう。
 しかし本当に後者の不倫にしか真実はないのでしょうか。私の言葉を病人の妄言だと簡単に片付けるおつもりですか。ただの病人が妻の不倫を認めたくなくて創り上げた悲しい妄想でしょうか。なぜでしょうか。なぜ、前者のような、ニセモノの現象・ニセモノによる嫌がらせ・ニセモノの噂、そのような存在を誰も疑いもしないのでしょうか。世間はついに無実の人を殺しました。いや、たとえ万が一妻が幸せだとしても、少なくとも私の心も私を見る目も死にました。そして妻は嘘の噂に苦しんで、やはり自分で死んだかもしれない。
 警察は、その悪の幇助の一員になられました。
 私は今日より当区に居住する事を止めます。無能な警察の下で、どうやって安心して暮らせますか?
 私は一昨日、学校も辞めました。これから私はあなたたちの代わりに全力を挙げて、超自然的現象の、ボンヤリとした証拠のない嫌がらせの犯人を探して始末するまでの研究に没頭する予定です。警察は恐らく、一般人と同じく、私の計画を笑うでしょう。しかし警察署長として、超自然的な、ボンヤリとしたニセモノによる、証拠のない嫌がらせの存在の全てを否定するのは、恥ずべき事ではないですか?
 日本の警察はまず、人間という生き物が、どれだけ知っていることが少ないのか、ここから考えるべきです。たとえば、刑事の中にさえ、信じられないような伝染病を持っているものが大勢います。それが、キスまでいかなくても、口を近づけるだけで、あっというまに伝染するということは、私以外に、ほとんど知っている人はいません。ただの噂だと馬鹿にしているうちに、それこそ、この国は滅びます。次の話は、ある本から引用してみるものですが、日本の警察の傲慢な世界観を破壊してみせましょう……

 それから、先は、ほとんど意味をなさない哲学じみた事が、長々と書いてある。これは不必要だから、ここには省く事にした。

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──違う、最後は違う、この先に、まだ、大事な事実が書いていたのに、ニセモノに破り盗られた。この先こそが、大じなのに──

大正6年