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宗教や信仰についての雑記 #107

◯調和について④

以前の投稿(#74)で「罪の自覚」ということを書きましたが、調和のという点から観た罪とは何か、ということを考えてみました。

まず思い浮かんだのは、この場合の罪とは調和への道を妨げること、ということです。
調和への志向を乱し、阻み、後戻りさせるような思いや言動のことだと思いました。

でも事はそう単純でもなさそうで、「調和を乱すな」という言葉のもとに個人の自由が奪われるといったこともありがちなようです。所謂「出る杭は打たれる」みたいなことですね。

言うまでもないことでしょうが、「調和」と「全体主義」とは異なります。
どちらも全体像を視野に入れ、秩序を重んじる点は共通しています。しかし、調和とは異なる要素が互いに補完し合い、まとまった状態のことを指します。一方で全体主義とは国家が目標達成のために個人の自由や権利を制限して、全てを統制することを指します。

そう考えると、調和という観点からの罪のもう一つの意味は、「調和」と「全体主義」とを混同してしまうこととも言えるのではないでしょうか。
言い方を変えれば目指すべき「調和」とは、個人の権利と全体の利益との間にも調和があること、ということなのだと思います(これも言うまでもないことですが)。

でも、この目指すべき調和を実現するのは非常に難しいことなのでしょう。
調和を目指していながらも、気づかぬうちに、他者の抑圧につながるような考え方をしてしまいそうな気がします。
常に自分の考えを点検し、採るべき道を模索する努力を絶やさぬような姿勢が必要なのでしょう。
それが、慈悲の反射光としての祈りの、ひとつの形のようにも思います。

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