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宗教や信仰についての雑記 #115

◯無我について

だいぶ前のことですが、「人間とは結節点である」ということを、何か仏教に関する本で読んだことがあります。
一人ひとりの人間は各々が、様々な因や縁によって織りなされた広大な網の結び目であるというのです。

でもそのことを言葉で表すと、「網」や「結び目」や、あるいは「糸」といった概念に分かたれてしまいます。
しかし現実はそんなふうに分かたれたものではないのでしょう。

また私は、人はみな大いなるものから「願い」をかけられている存在で、さらにその「願い」を担って誰かに渡してゆくものだと思っています。
ですがその考えも言葉にして表すと、「大いなるもの」や「願い」や「願いを担うもの」、「願いを渡されたもの」といった概念に分かたれてしまいます。
そしてやはりそのことについても、現実はそのように分かたれたものではないのでしょう。

言葉は世界を捉えられません。少なくとも、言葉による論理や思考は世界の全体像を完全には捉えきれません。
そして自分という人間もも世界の一部であるならば、自分自身をも言葉によって捉えることはできません。

自分自身についてあれこれと考えすぎることは、かえって自分を限定してしまうように思います。
自分自身へ思考を向けるのはほどほどにして、他者に触れるようにしたほうが、今まで気づかなかった自分を見つけることができるような気がします。
心の健康を保つためにも、そのような姿勢は必要なのかなとも思います。

仏教の言う「無我」には、そういう意味もあるのかなと、そして我々にかけられている「願い」にもそのようなことが含まれているのかなと、最近になってそんなふうに思うようになりました。

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