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「20代で得た知見」を読み切れなかった話①

◎はじめに

はじめに、この話は著者Fさんやこの書籍に関する批判ではないことをご承知おきいただきたい。

わたしは、病院の待合でこの本を読みながら、うつらうつらしていた。
体調が悪かったとか、そういう理由ではない。なんというか、退屈だったのである。

この本が悪いわけではない。
なぜなら、同じFさんの著書『いつか別れる、でもそれは今ではない』を大学時代に読んで、わたしはそれを好きだと思って、この26になる年までFさんの名前を覚えていて、ついにはこの本を手に取った、という動機があるからだ。

つまり、わたしはこの本も好きになるはずだったということである。
にも関わらず、わたしはその後を読むのを諦めてしまった、なぜか。

その理由について、考察してみた。

◎切実性の欠如

わたしがこの本の文章を読んで感じた印象は

「文章が全体的に地面から3ミリ程度浮いている」

というものだ。

どういうことか。

わたしはFさんが書く文章のひとつの醍醐味(1冊と少ししか読めていないので偉そうなことを言って申し訳ない。しかしここはスルーしてもう少し読み進めてほしい。)は、簡単に一言で述べると「エモ」にあると考えている。

(エモというのは、「エモい」などと言って若者の間で頻繁に使われる便利な言葉だ。しかしここでは敢えてその意味については言及しない。人それぞれの「エモ」があるだろうし、わたしにとっての「エモ」は後述するためだ。)

では、わたしにとっての「エモ」とは。

それは、「切実性」をはらむもの。

たとえば、夕暮れの帰り道に手を繋いで歩く高校生カップルが目に入ったとする。
わたしはここで、「エモいなぁ」と思う。

ああ、わたしにもあんな時代があったなあ。幸せだったなぁ。いいなぁ。ちょっと戻ってあのときをもう一度体験したい。あのときのあの場面、今の私だったらもっと違う言い方をしたかもしれない。ああ戻りたい、戻れるわけがない。だからこそなんかこう、愛おしさを感じるのかもしれない。

そんな切実さ。わたしは、「エモ」にはこういった切実さが伴っていると思うのだ。

ではこの本においてはどうか。
たしかに、

「好きってなに」
とか
「微熱と夜」
とか
「セックス・フレンド・ウェディング」
とか
エモそうな言葉がたくさん並べられている。

しかし、そこにストーリー性、つまり切実性はない。
でも、なくていい。
なぜならこの本は「知見」をかき集め並べた本だからだ。

しかしだからこそ、わたしは読むのを諦めざるをえなかった。
「エモ」に切実性が伴っていないから退屈であるのではなく、切実性を伴っていない「エモ」だから、どこか掴みどころがないような感じがするのだ。これをわたしは最初、「文章が全体的に地面から3ミリ程度浮いている」と感じたのだと思う。そして3ミリ程度浮いた「エモ」はどうにもわたしには咀嚼しづらかったのだ。だから諦めてしまった。

ではなぜ、3ミリ程度浮いた「エモ」はわたしにとって咀嚼しづらかったのか。
続きの記事で書こうと思う。


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