小説|青い目と月の湖 11
ハンスはずっと少女を目で追っていた。
少女といっても、ハンスより年上なのは明らかだ。
去年村を出て行った、友人ジェイの姉ジルが十八才だったのを思い出し、ハンスは多分同じくらいだろうと思った。
ハンスは黙って彼女を見ていたが、彼女の方も黙ったままだった。
初めに驚いた様子を見せた以外に、これといった表情はなかった。
歓迎しているようにも、非難しているようにも見えない。
ただ、黙って、ハンスを眺めているだけだ。
ハンスは少しずつ居心地が悪くなってきた。
思えば、今自分はほとんど裸のような格好でもあるのだ。
いくら待っても彼女の方から話しかけてはくれなさそうだったので、ハンスは自分から口を開いた。
「あの、君が、僕を助けてくれたの?」
少女は静かに頷いた。
やわらかそうなグレーのワンピースの上に、それよりもやや濃いグレーの袖の長い上着を着ている。
上着にはリボンのベルトがついていた。
彼女の髪は真っ直ぐで長く、暖炉の明かりに紺色に見えた。
その目も青く見えたが、気のせいだとハンスは思った。
もっと近くで見なければ、瞳の色など判るはずがない。
「あの……ありがとう」
少女はまた一つ頷いた。
そして、ワゴンの下から何かを取り出し、それを暖炉のもっと近くの床に置いた。
ハンスのブーツだ。
そして、今度はハンスの方を見ることもなく、部屋を出て行ってしまった。
取り残されたハンスはどうしたらいいものか考えあぐね、とりあえず自分の服を確かめるためにワゴンに近付いた。
ハンスの肩くらいの高さがあるワゴンで、よくよく見れば洗濯物を干す専用のものであるらしかった。
天辺には十二本の木の棒がスノコ状に配列されていて、枠の凹みに載せてあるだけなので、どれも取り外しができた。
その棒に服が干してある。
肌着にシャツにセーター、コート、ズボン、靴下。
全て揃っている。
彼女がこれらを洗ってくれたのだろうか。
しかし、これが乾くまでに後一時間以上はかかるだろう。
ハンスは自分がどれくらいのあいだ眠っていたのかが気になり、窓を振り向いた。
ここに来る時のような青空は見えなかった。
灰色の淀んだ空で、太陽の位置も判らない。
あの子は僕をどうするつもりだろう?
僕をどう思ってるんだろう。
どうして何も言ってくれないんだろう。
ハンスがただぼんやりと、そうやって立ち尽くしていると、再びドアが開いて少女が入ってきた。
今度は手に盆を持っていた。
窓辺に歩いて、小さなテーブルにそれを置くと、ハンスを見た。
じっと見るだけで、何も言わない。
「それ、僕に?」
少女は頷く。
ハンスは歩いた。
テーブルの傍に来て、少女を見上げると、少女はまた頷いた。
それで、ハンスは椅子に座ることにした。
近くで見ると、彼女の髪と目は黒に見えた。
しかし、光線具合によっては噂通りの紺色にも見えた。
そしてハンスは、どうでもいいや、と思った。
別に黒でも濃紺でも関係ないや。
ただ噂に上ってただけで、だからどうって事でもないもの。
彼女がやっぱり実在したっていうのが重要なだけだ。
ただ、彼女が魔女なのかどうか、僕にはまだ判らないけど。
盆の上には、コーンスープと小さな丸い白パンと、水の入ったグラスが載っていた。
ハンスは頂きますと言って、出されたものを食べ始めた。
自分の腹具合から言って、ちょうど昼時なのかもしれないと思った。
腹が減っていたので食べたが、決してそれは美味しいと言えるものではなかった。
スープの味は薄く、パンにはバターもついていなかった。
飲み物もただの水で、こんな侘びしい食事はクロードの家でも食べたことがなかった。
しかし、少女はずっと傍に立ってハンスを見ていた。
ハンスは少しでも不味そうな顔をしないように気を使いながら何とか平らげた。
量的にも普段なら決して足りるものではなかったのだが、緊張のせいでハンスの腹は満たされた。
むしろ腹ではなく、胸が一杯になったのだ。
一息つくと、質素な食事とは裏腹に、その食器類が高級であろうことに気付いた。
器も盆もスプーンもおそらくは銀製だ。
どれも綺麗に磨き上げられている。
水が入っていたのはガラスのゴブレットで、脚の部分には葡萄の実と蔓の細かな細工が美しく施されていた。
ハンスがそれらを眺めていると、少女の細い腕がすっと目の前に伸びた。
ハンスは一瞬ドキッとしたが、少女はただ盆を取り上げただけだった。
そして、また静かに部屋を出て行った。
ハンスは溜め息をついた。
いったい自分が何のためにここにいるのか判らなかった。
僕は何をしに来たんだっけ?
そう。
彼女に会って、彼女が魔女なんかじゃないって事を確かめたかったんだ。
で、それからどうするの?
それから……。
馬を走らせている時は冒険に出たような興奮があった。
しかし、その感情は今ではすっかり冷めていた。
少女に出会えたことは嬉しいが、一つもコミュニケーションが取れないとなると、どうしていいのかさっぱり判らない。
美しい人形が、機械的に食事を運んでくれただけだ。
それも何故いきなり食事をさせられたのかも判らない。
ハンスは急に心許なくなって、早く家に帰りたくなった。
見たところ、彼女は特に困っている様子もなく、何かに自由を奪われているのでもなさそうだ。
もしこの家に、城に、彼女の家族がいるのなら、一言挨拶をしてすぐに帰ろう。
僕は湖に氷が張っていたから歩いて遊んでいただけの、ただの通りすがりの子供なんだ。
ああ、早く帰りたい。
帰ったら、母さんにドーナツを作ってもらおう。
ハンスは椅子から立ち上がり、暖炉の前に戻った。
袖を棒に通されていた肌着を外して、両手で持って火にかざす。
薄手のものなら、こうやっていれば五分もせずに乾くだろう。
問題は分厚いウールのコートやズボン。
それにブーツだ。
さすがに湿ったまま身につけて、冬の戸外に出る気にはならない。
ハンスは片手でワゴンを引っ張り、更に火に近付け、ブーツも足で奥に押しやった。
肌着が乾いたのでタオルをワゴンの隅に引っ掛け、肌着を着る。
シャツもそろそろ乾いてきた。
袖を通すと布の重なった部分が湿っていたが、着たままでも乾かせそうだった。
両袖通し、前のボタンを下から止めていく。
ドアが開いた。
ハンスは一度目を向けたが、暖炉に向き直ってボタンを最後まで止めた。
少女がすぐ傍まで来たので、半ば返事は期待せず、おずおずと尋ねてみた。
「君が洗ってくれたの?」
やはり、少女は頷くだけだった。
それでもハンスは「ありがとう」と礼を言った。
少女は首を振り、それからワゴンを引っ張り、火から遠ざけた。
ハンスは少女の顔を覗いた。
少し厳しい顔つきになっているように思えた。
ハンスは聞く。
「火に、近過ぎたかな?」
少女は頷いた。
危ないから、もう少し火から離した方がいいと言いたいらしい。
ハンスは首を傾げた。
「あの、もしかして、口が利けないの?」
少女は軽く口元を引き締め、悲しげに俯き、ゆっくりと首を横に振る。
ハンスは、緊張せずにじっくりと観察していれば、少女の表情が読み取れるような気がしてきた。
その変化は乏しいが、ハンスに対して反感や悪意は今のところ持っていないことは判った。
もしかしたら、この少女の方も、突然やってきた僕に戸惑い、どう接していいのか判らないでいるのかもしれない。
そう思うと合点が行った。
居心地の悪さからすうっと解放されていく。
確かに僕は、彼女にとって訳の判らない来訪者なんだ。
「あの、僕はハンス。この城を近くで見てみたくて、氷を渡ってきたんだ。迷惑かけてごめんなさい。助けてくれてありがとう。あの、君の名前は何ていうの?」
少女は顔を上げ、ハンスを見つめた。
口元がかすかに動くが、声は出てこなかった。
「喋れるんでしょう?」
少女は頷く。
ハンスは辛抱強く待つことにした。
見ていると、話をしようと努力しているように思われたからだ。
そして、しばらくしてやっと、少女の桜色の唇から、小さな声がもれ聞こえた。
しかし、空気がもれるような声とも言えない声で、ハンスの耳では聞き取れなかった。
ハンスはもう一度と言うように、自分の顔の前に人差し指を立てる。
少女は頷き、努力して、先程よりは少し多めの空気を吐く。
でも、声は聞こえない。
その代り、ハンスは用心してその唇の動きを見ていた。
ハンスは読み取った名を言ってみた。
「マリ、エ、ル?」
少女は初めて微笑み、頷いた。
可憐な笑みだった。
こんな風に笑う女の子は、村には一人もいないとハンスは思った。
胸の奥がむずむずと暖まるような気持ちになった。
「マリエルっていうんだね。初めまして」
ハンスも微笑んで一息つくと、もう緊張もなくなっていた。
「喉を痛めてるの?もしかして、僕を助けたせいで風邪をひいちゃったの?」
マリエルは首を振る。
彼女の方はまだ緊張している様子だった。
小さな深呼吸をして、今度はやっと聞こえるような声を出した。
「喉は、平気よ。風邪も、ひいていないわ」
「そう?それならいいんだけど」
「私……人とお話しをするの、久し振りだから、何だか、上手く声が出せなくて。でも、多分、もう大丈夫だと、思う」
確かに、マリエルの声は話すうちに少しずつはっきりしてきた。
可愛らしい声だ。
何て言うんだっけ、こういうの。
鈴を転がすような……?
「久し振りって、家の人は?」
「私、一人なの」
「この城に?」
「ええ」
「ずっと、一人なの?」
「母が死んでからは、ずっと。母が死んで、人と話すのは、あなたが初めてよ」
「いつ亡くなったの?」
マリエルは少し考え、口を開いた。
「十二の時だから、五、六年前になるわ」
ハンスは目を丸くする。
「その間、誰とも喋ってないの?」
「ええ。……おかしい?」
マリエルが悲しそうにそう言うので、ハンスは勢いよく首を振った。
「全然おかしくないよ。そうなんだ。それなら、上手く喋れなくて当たり前だよね」
明るくそう言ったものの、心の中では変だと思っていた。
そんな長い期間、誰とも会っていないのだろうか?
ずっとこの城の中に閉じこもっているのだろうか?
でもどうして?
魔女だから?
でも、彼女は少しも魔女のようには見えない。
少しも怖くない。
ただの綺麗な女の子にしか見えない。
ハンスはもう少しここにいたい気もしていたが、落ち着いてくると再び家の事が心配になってきた。
早く帰らないと、母さんに誤魔化しきれなくなってしまう。
「マリエル」
「なに?」
「また、ここに来てもいいかな?それとも、邪魔かな、僕」
マリエルはニコリと微笑んだ。
「ううん。また来て欲しいわ」
ハンスはパッと顔を輝かせた。
「本当に?」
「ええ。だって、今までここを訪ねてきてくれる人なんて、一人もいなかったもの」
「じゃあ、僕、本当にまた来るよ?本当にいいの?」
「ええ。今日はとても楽しかったわ」
ハンスは服が乾くと大急ぎでそれを着た。
マリエルは桟橋の方はまだ氷が薄いので、西の塔の出口から帰った方がいいと言って案内してくれた。
馬は大人しく待っていた。
月の湖から離れるにつれて天気は回復していく。
家に帰りついたのは午後三時頃だ。
二時間ほど遅れたことになるが、天気が良かったので森を少し散歩していたと言うと、少し怒られただけでことは済んだ。
その日の夜はマリエルのことばかり考えて、なかなか寝付けなかった。
今度はいつ行こう。
配達日なんか待ってられないや。
でも、出て行く口実がないから、やっぱり配達日になるのかな。
道は覚えたから、歩いて行ってみようか?
ああ、待ち遠しい。
もう月の湖なんか怖くも何ともない。
やっぱり、魔女の噂なんか嘘だったんだ。
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