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小説|青い目と月の湖 23

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 ハンスが浮かない顔をして部屋に入ってきたので、クロードは食糧の籠を受け取りながら聞いた。
「なんだ、ふくれっ面をして」
「だって、マリエルが」
「どうした」
 テーブルに籠を置き、中身を確認する。
 ライ麦パンに塩、オリーブオイル、ジャガイモ、豆類などが入っていて、その上に、紙袋に入ったエレンからのお裾分けのドーナツがあった。
 クロードは我知らず微笑んだ。
 
 クロードはエレンが好きだった。
 恋愛だとは思わない。
 ハンスの母親である事実が、そんな感情を抑圧していた。
 クロードが愛したのは彼女の母性だと、自分で納得している。
 クロードは自分の母親を知らない。
 子供の頃、彼を育てたのは父親だった。
 が、その記憶も既に薄れている。
 クロードに普通ではない能力があると知った父親は、彼を孤児院の前に置き去りにして逃げたからだ。今となっては、その顔を確かに思い出すことは出来なかった。
 そんな父親よりも、さらに母親に縁の薄いクロードは、いつの間にかその影をエレンに見ていた。
 そういう事なのだと、思っている。
 
「先刻まで一緒にいたんだよ。それなのに、今日はもう帰るって言って、帰っちゃったんだ」
 クロードは手にしていた紙袋をテーブルに置き、ハンスを見た。
「せっかくみんなでドーナツ食べようと思ったのに。ほら、ちゃんとドーナツなんだよ。真ん中が開いてるの」
 ハンスは紙袋からリング状の、単なる揚げ菓子でない本物のドーナツを取り出し、ドーナツの穴からこちらを覗いた後で、渋い顔でそれにかじりついた。
 クロードはマリエルとあの日﹅﹅﹅以来会っていなかった。
 もう二週間は経っている。
 
「そうか。帰ったのか。残念だったな」
「これじゃあ上手く行くものも上手く行かなくなっちゃうよ、まったく」
 クロードは苦笑いをして籠をキッチンに運んだ。
 ハンスももう十三歳になる。
 いよいよませたことを言うようになっている。
 それだから、なおさら心配したのだ。
 ハンスがマリエルに恋をしているなら、自分の出る幕はないと思った。
 自分の役目は、月の湖に彼を利用させないための計画を練ることだけだった。
 しかし、もしその場に自分が出て行くことが許されるのなら、もっと安全な計画を立てることができるかも知れない。
 
 居間に戻ると、今度は何を考えたのか、ハンスは笑顔になっていた。
「ねえ、知ってる?クロード」
「何をだ?」
「マリエルって、料理が下手なんだよ」
「へえ」
「初めて城に行った時のこと、話したでしょ」
「ああ。食事でもてなしてくれたんだろう」
「うん。でもさ、言わなかったけど、本当はそれ、凄く美味しくなかったんだ。なんか味がないんだもん」
「ふうん」
「こないだ、それとなく聞いたんだけど、自分でも料理に自信はないみたいだったよ」
「ハンス。もしかして彼女に直接それを言ったのか?」
「そりゃ、不味かったなんて言わないけど」
「この先も言うんじゃないぞ。彼女は一人で長いこと暮らしてたんだ。今のお前くらいの時には、自分で食事の用意をして、一人でそれを食べていたんだろう。彼女が作ったものを食べて、味が濃いとか薄いとか、そんな意見を言ってくれる者は誰もいなかった。それで料理の腕が上達していなくても、仕方ないことだろう?」
「……うん。判ったよ。絶対言わない」
「よし、いい子だ」
 ハンスは自分の分のドーナツを食べると、大人しく帰っていった。
 
 
 一人になって、自分も一つ食べようと紙袋に手を入れると、違うものが手にあたったのでそれを取り出した。
 エレンからの手紙だった。
 いつもハンスが長居してしまって済まない、といった事が書かれてあった。
 クロードはそれを見て、ふと自分が書いた手紙のことを思い出した。
 エレン宛に書いた、遺書と覚悟していた手紙だ。
 それを机の引き出しに入れたままにしていた。
 クロードはドーナツを食べることを止めて、机から手紙を取り出した。
 そしてキッチンのかまどに小さな火をつけ、そこに手紙を入れた。
 封筒の角が茶色く焦げていった。
 
 マリエルは、もう城に帰っただろうか?
 
 クロードは少し考え、すぐに家を出た。
 彼女が今日ここに来ることを拒んだのは、明らかに自分のせいだ。
 クロードが川に向かったのは、とりたてて思惑とか、予感などがあった訳ではない。
 ただそこが、北の森を見るのに一番近かったからだ。
 初めてマリエルを見かけた河原に下りて歩きながら、対岸に目をやっていた。
 そしてそこに、運よくマリエルを見つけることができた。
 用心のために声はかけなかったが、しばらく見ているとマリエルは気付いてくれた。
 二人は見つめ合った。
 それでも、二人とも声を出さなかった。
 川の中心部は深くもあったし、泳いで渡るにはまだ水が冷たい。
 クロードはどうコミュニケーションをとろうかと迷った。
 しかし、いい考えは浮かばなかった。
 仕方なく微笑み、片手を振って引き返した。


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