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小説|福岡天神 流しのバーテンダー 1

このお話は、天神が爆発する前、新型コロナウィルスも上陸していない、音楽配信も主流ではなく、ラジコもなかった、そして今よりもまだ少しは平和だったかもしれない時代の、あるバーテンダーの恋の物語である。

出会い

 天神地下街を歩いていた。
 職場のあるビルから、直接地下街へ向かう通路を通り、そのまま西鉄大牟田線の福岡駅に向かう。
 終業定時は5時半。
 今日は少しだけ残業をして、時間は夕方の6時頃だ。
 私は外気温も判らないままに、真っ直ぐ駅に向かう。
 
 いつもなら地下街からエスカレーターを乗り継いで、駅のあるフロアで降りる。
 しかし、今日は違った。
 地上に出るとエスカレーターの人波から外れる。
 そして私は、新天町へ向かう。
 駅ビルの西側に位置する二本のアーケード街。
 その北側を、私はわき目も振らずに突き進む。
 私は天神でのんびりゆっくり歩くのが嫌いだ。
 この街にスロー・ライフは似合わない。
 目的を決めたらそこへ突き進む。
 それがこの街のルール。
 か、どうかは知らないけど。
 とにかく私は急いでいた。
 
 北側アーケードは、その西側で二道に分かれている。
 お洒落な花屋の角を右に折れると、そこは言わば裏通りになっていた。
 距離は短い。
 そこにも店舗があるにはあるが、左手には店舗の裏口が面してもいるので、本道に比べていつも人通りが少ないのだ。
 普通の通行人より、荷物を搬入する業者の人とすれ違うことが多かった。
 この道が混雑していることは稀な事だ。
 ここを通れば更に先へ急ぐことができる。
 私はその道を抜けたすぐ、右側のビル1階の本屋へ入る。
 ともすれば見過ごしてしまいそうな小さく地味な本屋だ。
 その隣に大型書店があるので、余計にいじましく見えていた。
 
 木枠のガラスドアに『黙阿弥堂』と、鈍い金文字の行書体で書いてある。
 それを押すと、カランコロンと、上にぶら下げられたカウベルが、ノスタルジックに音をたてた。
「こんにちは」
 中に入ると、迷わずカウンターの前に立つ。
 本棚の並んでいる部分は六帖くらいしかない小さな店だ。
「お、涼子ちゃん、こんばんは」
「あ、こんばんは」
 店主、河竹のおじさんは人の好い笑顔で私を迎えてくれた。
 奥さんお手製の毛糸の帽子が、ちょこんと丸い頭に乗っている。
 お皿をひっくり返したような形のそれは、大きめのキッパのようにも見えた。
 私はおじさんと呼んでるけど、多分年齢的にはおじいさんでもおかしくないと思う。
「もう外、暗いかい?」
「うん。だいぶ薄暗くなってきた」
「もう9月だからね」
 おじさんはそう言いながら、カウンターの下からCDを3枚取り出し、テーブルの上に置く。
 私の顔を見上げて、にっこり笑う。
「これだろう?」
 私は3枚のCDを手に取って、強く頷いた。
 三つとも同じミュージシャンのアルバムだ。
「ありがとーう、おじさん!本当にもらっていいと?」
「ああ、約束だからね。私は紙ジャケのも持ってるし。それ、ちょっと古いから音はあんまり良くないかもしれないけど」
「ううん。もう私なんて、そんなに音楽のこと判ってる訳じゃないし、歌詞カードがあって、聴ければ充分いいもん。ありがとう」
「いいさ、涼子ちゃんはうちの貴重な常連だから。ほら、今日、用があるって言ってたじゃない。もうお礼はいいから、行っていいよ」
「ああ、うん。ごめん。また本買いに来るからね」
 私はトートバックにそれをしまい、河竹のおじさんに手を振って店を出た。
 そして左へ、もと来た道を同じペースで歩きだす。
 しかし、ことはスムーズに進まなかった。
 人気のない裏通りで、私は後ろから声をかけられた。
 
「すみません、お嬢さん」
 びくっと、足を止めた。
 人は他に歩いていないし、その発声も私の方角へ向けられていると感じた。
 しかし、あまり「お嬢さん」なんて呼びかける人を私は見たことがないし、その声は妙に気障だったので、不気味で振り向くのを躊躇した。
「ええ。お嬢さんですよ。今立ち止まってくれた、あなたです」
 何だ、このツヤ付けた男の声は。
 どうやら確かに自分を呼んでいると判って、仕方なく振り向く。
 私はそこに強力を見た。
 生まれて初めて直に見た。
 強力(ごうりき)。
 それは山小屋に荷物を運んだり、登山をする人たちの荷物を代わりに背負って持ってってくれたりする、ありがたい存在。 
 しかし、このコンクリートジャングルに、天神のど真ん中に、それは恐ろしく似合わない存在だ。
「どうしました?目を丸くして」
 そう笑顔で言う男を、私は気を取り直してよく見てみる。

 おかしい。
 こいつスーツ着とう。

 若い男は奇妙な格好をしていた。
 ダークグレーのスーツを着込んで、大荷物を背負っている。
 よく見ると大荷物の基本部分はリュックサックのようだが、それに更に様々な物がぶら下がっていた。
 ステンレス製のやけに大きなマグカップや、同じくステンレス製の小さなバケツみたいな物。
 レモン絞り器に、細長いスプーンが数本。
 リュックの肩紐の部分では栓抜きやコルク抜きが揺れ、クリップ式ライトがはさんである。
「夜逃げ?」
 私が呟くと、男はさわやかに微笑んでみせた。
 完璧な営業スマイルに、私は一歩後退りする。
「違います。あ、逃げないでください。怪しい者ではありませんから」
 私が一歩に続けて数歩後退っていると、男は慌ててそう言った。
 私は本心を口にする。
「いや、凄く怪しいです」
「そうですか……。でも、本当に、怪しい者ではないんです」
「じゃ、何なんですか」
「僕、流しのバーテンダーです」
 私は迷わず、もと来た道を引き返すことにした。
 
 季節は冬に向かおうとしているのに、こんな変な奴に出会うなんて。
 こういうのは春にわいて出てくるって相場が決まってるのに。
 今日は付いてないなあ。
 せっかくおじさんからスプリングスティーンのCD貰っていい気分だったのに。
 ああ、早く帰ってラジオ聴かなきゃ。
 そうやん、急がんと聴き逃すやん。
 
 後ろでなにやら声がしてるようにも思ったけど、私は無視して早歩きをする。
 しかし、その声の主が大袈裟に転んだような音を聞くと、さすがに放っておけずに私は足を止めた。
 足元に転がってきたステンレスのバケツを、私は拾い上げる。
「す、すみません」
 振り返ると、自分の荷物に押し潰されそうになっている哀れな男が、都会の薄汚れた地面でもがいていた。
 顔だけこちらに向けて、愛想笑いを浮かべている。
「大丈夫ですか」
「あまり……。できれば、お手を拝借」
 男は右手を差し伸べてきた。
 見殺しは、確か犯罪になるんだったわ。
 私は仕方なく手を貸して起こしてやる。
 男はぜーぜー言いながら何とか立ち上がることができた。
 やたらに重そうな荷物だ。
 男は立ち上がり、服の汚れを手で払うと、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
 しかし、頭を下げたせいでまたよろめく。
 私は奴のデコを掌で押さえて、それを止めてやった。
 照れ笑いしながら、今度は用心して会釈で礼を言う。
「ありがとうございます」
「別にいいけど。はい、バケツ」
 私が差し出したバケツを、男は受け取りながらのたまう。
「えっと、これはバケツではなくて、アイスペールとかアイスバスケットとか呼ばれるものでして、これに氷をですね、」
 話の途中だが興味はない。
 私は奴に片手を上げ、「じゃ」と言って立ち去ろうとした。
 しかし奴はしつこかった。
「あ、待ってください!」
 と、こともあろうに私の手を掴んできた。
 反射的にトートバッグで奴の頭を、振り向き様に殴りつける。
 男は「うぐっ」と、呻いて頭を押さえたが、倒れはしなかった。
 そして、殴った時にバックの中でも何かが呻いた。
 
 私は慌ててバックの中身を確認する。
 男は心配そうにこちらを見ていた。
「あーっ!」
 私は『The River』のケースにひび割れを見た。
 ディスクも確認したが、こちらには目に見える傷はなかった。
 しかし。
「貴様、たった今手に入れたばかりなのに…この恨み、どうしてくれよう…」
 形勢は逆転。
 私は奴に詰め寄り、奴が後退る。
「ま、待ってください。だって、殴ったのはお嬢さんの方じゃ……」
「ええい、問答無用。あんたがゴチャゴチャ私に付きまとうけんやろーが、コノッ!」
 私はまたトートバックを振り上げる。
「ま、待った!また割れますよ!CDが!」
 その言葉に、はっとして私は冷静を取り戻す。
 いけない。
 怒りに我を忘れるところだった。
「あの、でもやっぱり僕が悪かったんです。見ず知らずの男に呼び止められたら、そりゃ警戒しますよね。それが当たり前です。王道です。本分です。安っぽい絵を高額で買わされるかもとか、超高値の化粧品を売りつけられるかも知れないとか、この布団を買わないと祟られるぞとか、そんなこと言われるんじゃないかって、誰だって心配しますよね。若い女性なら尚更です。いいえ、そうでなければ今の世の中生きていけません。こんな、見渡すばかりビルだらけの、小さな青空しか望めない、冷たい都会の真ん中で生きていくには、そうあるべきだと思います。お嬢さんは確かに正しい。しかし、僕は怪しい者ではありません。僕はただの、流しのバーテンダーなんです」
 いや、怪しいから。
「お詫びにカクテルはいかがですか?もちろん、料金は頂きません。これは僕のお詫びの気持ちですから」
「いりません」
 私は、きっぱりと言った。
 すると、自称流しのバーテンダーはさめざめと泣き始めた。
 しゃがんで、顔を両手で覆ったりしている。
 今まで人通りがなかったのに、なぜか急に二人ほど人が通りかかり、冷酷な人間を非難するような視線を私に投げかけた。
 嘘やろ、私、何もしとらんのに。
「ちょっと、お兄さん。やめてよ。私が泣かしよるみたいやん」
「だって、本当に泣かされたし……」
「勝手に泣くな」
「だって、僕ができるお詫びって言ったら、これしかないんです。それなのに……」
「お詫びの押し売りされても困るわ。あ、もしやこれは、新手の悪徳お詫び商法?お詫びの品を受け取ったが最後、その先には地獄の借金生活が待ち受けていると言う……」
「酷い。僕はマルチ商法屋でもネズミ講屋でもないです。僕はただの流しの、」
「もうそれはいい。とにかく泣くな」
「じゃあ、一杯だけでも、ご馳走させてもらえますか?」
 男は潤んだ目で私を見上げた。
 雨に打たれる小動物さながらの瞳だった。
 通行人がまた一人、私を強盗犯でも見るような、怯える目付きで見て歩いていく。
 くそぅ。
 このままじゃ警察に通報されかねない。
「判った。判ったから、泣き止め。そして立つんだ」
「ありがとうございます」
 男は涙を手の甲で拭うと、気合を入れて立ち上がった。
 それはまるで、お相撲さんが四股を踏むような気合の入れようだ。
 そうしないと立ち上がれないのだろう。
 いったい何を抱えてんだ?
 そして、立ち上がると同時に通行人もいなくなった。
 なんてタイミングだろう。
 
「それじゃあ、お嬢さん、少々お待ちくださいね」
 男は気障にそう言うと、器用に両手を自分の背中の方へ回して、せわしく荷物をかき回し始めた。
 まず折りたたみ椅子が現れ、私にそれに座るよう勧める。
 私は座った。
 そして次に、昔の駅弁売りの人が首から提げてる弁当入れの箱のような、スケッチをする時の画板のようなものを自分の首から提げ、そこにボトル、シェーカー、カクテルグラス、先刻のアイスペールなどを並べ立てる。
 あれよあれよと言う間に、私の目の前には簡易カウンターバーが出現した。
「なんじゃこりゃ」
 私が呟くと、男はシェーカーにカクテルの材料を入れながら答える。
「言ったでしょう?僕は流しのバーテンダーなんです」
「はあ……」
 折りたたみパイプスツールがかすかに軋んだ。
 男はシャカシャカシャカシャカと、小気味良くシェーカーを振る。
 シャカシャカ、シャカ、シャ、カ。
 男は出来上がったカクテルを、気障な雰囲気でカクテルグラスに注いだ。
 逆三角形のそのグラスは、何処にしまっていたのか、一点の曇りもない綺麗なガラス製だった。
「どうぞ」
 男はグラスを少し、私の方へ押し出す。
 
 綺麗な薄紫のカクテルだ。
 私は何故か、その時だけは躊躇せずにグラスを手に取った。
 そして一口。
「美味しい」
 男の顔を見上げると、嬉しそうに微笑んでいた。
「ブルー・ムーンといいます。気に入っていただいて光栄です」
 私は肩をすくめた。
「でも、どうして?なぜ私に声をかけたの」
「あなたはきっと、この街の人だと思ったからです。僕の話を、聞いていただけますか?」
「おかしな話ね。普通バーテンダーは、お客の話を聞くものよ。でもいいわ。特別に聞いてあげる」
「ありがとうございます」
 男は、リュックの肩紐にはさんでテーブルを照らしているクリップライトを、少し上の方に付け直し、間接的に自分の横顔にも明かりが当たるようにしてから、話を続けた。
「実は、僕がこんな商売を始めたのはつい一ヶ月ほど前なんです。雨の日も風の日も、僕は天神界隈を流していました。だけど、世の中は厳しかった。女性に声をかければ逃げられる。男性に声をかければ殴られる。仕方がないのでシェイクの練習をしようとカウンターを広げたら、道交法違反だと警察官に注意され、挙句の果てには不審者呼ばわりされて追いかけられる始末。まったく散々な日々でした」
「そう。つらかったわね」
「はい。しかし、僕はあきらめませんでした。いつかきっと、この僕のカクテルを飲んでくれるお客さんが現れるはずだと。僕は今日もそんな希望を持って、昭和通りに向かっていたんです」
 新天町の北側に明治通りがある。
 そのもう一つ北側の大通りが昭和通りだ。
「でも途中で、巡回中の警察官を見かけて……。僕を不審者と呼んだ男でした」
「それじゃあ」
「はい。僕は仕方なく引き返してきました。もう少し時間をずらして行こうと思ったんです。まだ夕方です。バーテンダーの本来の領域は夜ですから」
「そうね。慌てることはないわ」
 私が相槌を打つと、男は静かに微笑んだ。
 それは少し自嘲的なものに見えた。
「それで、人通りの多い新天町に紛れ込んだんです。ここなら、僕のこの姿もごまかしがききますし、何より自宅の近くですから。そこで、あなたをお見かけしました」
「私を?」
「ええ。あなたは颯爽と、この人通りの多い街を歩いていらっしゃいました。それは素晴らしいスピードでした。てれてれ歩いている若造を難なく交わし、先へ突き進むその技。しかし、お年寄りが歩いている後ろでは少しスピードを緩めるという心配り。僕は思ったんです。この人は、この街に生まれ、この街で育った人だと。あんな素晴らしい歩き方ができるのは、この街の人間でしかありえないと。失礼ですがお嬢さん。あなたは福岡市内で生まれ、お育ちになりましたね?それも、この天神からさして離れていない場所だとお察ししましたが」
「素晴らしい観察眼だわ。確かに、私の実家は薬院駅のすぐ傍よ」
「やはり、そうでしたか」
「でも、それが何だと言うの?」
「僕は思ったんです。この街で流しのバーテンダーとして成功するには、この街の人にまず認められなければと。だから、あなたに僕のカクテルを差し上げたかったんです」
「そう。そんな理由があったの」
「これは謝らなければならないことですが、僕はあなたの後をつけました。すると、そこの小さな本屋に入っていかれた。僕は自分の推理を裏付けられたような気がして、あなたに声をかける勇気がわいてきました。恥ずかしながら、僕はこの街に住んでいるにもかかわらず、ここにこんな年季の入った本屋があるなんて知らなかったんです。それを常連客の風情であなたは入っていかれた。これは間違いないと確信しました」
「それで、私が店から出てくるのを待っていた。と、いう訳ね」
「はい。そうです。本当に、お騒がせして申し訳ありませんでした」
「もう、いいわ。私も少し、あなたを疑い過ぎていたようね」
「それは仕方のないことですから。ありがとうございました。あなたは、僕の最初のお客様です。お味はいかがでしたか?」
「美味しかったわ。きっと、あなたは腕のいいバーテンダーなんだと思うわ。ただ」
 私はパイプを軋ませながら立ち上がる。
 男は不安そうに、私を見つめていた。
 
「ただ、何でしょうか?」
「あなたは大切なことを忘れてるわ」
「大切なこと…それはいったい…?」
「バーには、いい音楽が必要よ。それがないなんて、まるで星のない夜空のようね」
「バ、バックグラウンド・ミュージック…」
 男はがくんと地面に膝をついた。
 しかし、カウンター上の物は一つとして倒れなかった。
 私は少し感心した。
「しかし、お嬢さん……」
 私は駅に向かって、ゆっくり歩き出す。
「待ってください!僕はもう、これ以上荷物を背負うことができません!この上、音楽機材だなんて……」
 私は歩きながら答えてやった。
「泣き言なんか聞きたくないわ」
「お、お嬢さん…。待って、待ってください!」
「それが出来ないのなら、流しのバーテンダーなんて止めることね」
「そ、そんな……」
「所詮、あなたには無理だったってことよ」
「ぼ、僕は」
 男が地面を手で打つ音が聞こえた。
「僕はあきらめません。必ず、あなたに認められる流しのバーテンダーになってみせます。お願いです、せめて、あなたのお名前をお聞かせください!」
「名のるほどの者ではないわ」
「お嬢さん…。僕は、僕の店の名は『ハウンド・ドッグ・パーラー』といいます」
 私は立ち止まり、振り向いた。
「ハウンド・ドッグ・パーラー。覚えててあげる」
「必ず、あなたに認めさせてやる」
 男は右手を握り締めて言った。
「期待してるわ」
 私は微笑みだけを残し、その場を立ち去った。

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