さあ誰かに押し付けよう。言語化の危険性

基本、人は繋がりを嫌う

 カンファレンスが組織を強くする発想は間違っていないと思う。私も目指しているから。しかし3人以上がある集まるといつもの思うのは時間が無駄なんじゃないのと思うこと。話してない人間と聞いてない人間の集まりというのは主体的な人間にとっては至極退屈なものでしかない。
 もちろん、そこの人間関係構築力高めの人がいれば、力を発揮できるのかもしれないが、個人的にここが強い人は得意じゃないんです。私は。

いじめは社会的繋がりの産物

 基本的に職場でいじめをする人は人間関係構築力が高めの人です。これは明らかに子どものいじめとは様相を異にします。
 もちろん子どものいじめがこうであることもあるのですが、基本的にピュアの塊であり、ダダ漏れ人間である子どもに対してのいじめ対策というのはいうほど簡単ではないのです。
 なぜか全てがいじめ行為と認定された後の指導はただただ子どもの行為自体が悪であったという認定の経路を取るしかできません。
 しかしそもそもダダ漏れの欲求に対して他者の感想を基に善悪認定を行うということは教育の役割ではありません。それ以上に教育的行為とは言えません。

教育現場のゲンジツ

 何が言いたいかと言えば、なぜ個人的性向を強みとして言語化してしまうのか。
 子どもと大人は男女のように決定的に違う部分もある。
 そしてつながりは他者から強要されて力を発揮する類のものではない。ということです。
 もちろん企業側の論理が率先されて構築されたのがストレングスファインダーという発想だということは理解できます。その点で学ぶべき点が多くあるのもわかります。
 しかし以上のように少し学校現場の事情に重ね合わせて考えても、ちょっと合わないんじゃなかなという後ろ向きな異論を挟んでみようかなという気になったわけです。

強み一辺倒と弱み一辺倒

 強みに焦点を当てることが積極的側面を伸ばしていくことができる作用があることは理解できます。それはよく教育現場でも使う技です。
 しかしよく思うのはウソはイカンやろということなんです。確実にそれはないやろという褒め方をたまに見るんですよね。しかも褒めすぎると子どもって調子乗るのですよね。これは大人にもよくあるやつです。自戒も込めて・・・調子に乗ると碌なことがありません。特にこのコンプライアンス社会では良かれと思って他者にコミットすることは強烈なしっぺ返しを喰らいかねません。というか長い教職経験のうちにおいて実際に見聞きしたものを含めれば人とのつながりでお互いの思いがすれ違いトラブルに繋がったものは100や200では収まりません。
 これがこれまでの子どもや教員の弱みに焦点を当て、矯正を目的として教育を行ってきたことに対する反省であるというならば理解のしようもあります。しかしそもそもこれは左利きを右利きに矯正するレベルの話であり、個々で丸坊主を強要するような事例があったとしてもそれを一般化するには無理があります。今の教育が弱み一辺倒の矯正教育であるという認識自体に無理があるということ。その反動としての強み一辺倒にもいささかの危うさを感じずに入れません。
 それより、そんなにポジティブがいいことか?という疑念もあります。ポジティブを全面に押し出すクラスに出逢った事があるのですが、それは到達目標として目指す場ではないということを見ていて確信的に感じました。単純に言ってネガティブな人間が生きていきにくくなってしまうからです。それと同時に場の雰囲気をコントロールしようとする場合、意図丸出しにするとそれはもう雰囲気でもなんでもなくなってしまうということが誰にでもわかる様子を目の当たりにしてしまったからなんです。これはわかりきったこことは言え結構衝撃的でした。

言語化の未来

 教育をマニュアル本の上澄みで行うことの危険性はずっと言い続けていますが、これが伝達の難しさであるということなんですよね。
 ここからカンファレンスという経路や言語化という方法に行き着いたわけなんですが、結局実践という言葉があるようにそれらをどう実現させるかということが重要になってくるんですよね。
 つまり実践をコントロールする技や仕掛けというのは伝達とセットでなければかなり意味が薄いという驚愕の事実なんです。
 もしくは実践の評価をセットで提供するというかなり無理難題を迫られることになります。
 もちろんこれは実践自体をかなりシビアにドラスティックに捉えた場合の話です。これも結局マニュアル本が金儲けの道具になるように、金をとって伴走するやり方やオンラインサロンや個人相談事業・研修事業に取り込まれてしまうんですが・・・

 このように日本では教育現場に限らず、政治や企業、公共団体や家族の段階においてコモンの発想に困難を抱えてしまったというのはもはや国民の共通認識になってしまったようです。斎藤公平さんの実践がいかほどの広がりを見せるかは少しは注目に値するのでしょうか?

 ドラスティックな言語化を突き詰めれば、こうした課題へのコミットぐらいはできるのではないかと考えていたのですが、なかなか教育現場でうまくいかない現実を見ていると、そして教育現場でのストレングスファインダーの導入なんかを見ていると、絶望的な感覚に陥ってしまいます。

 まあそろそろ100日連続投稿が見えてきたので、そこまでは言語化をしてみたいと思います。その先にどんな景色が広がっているかはまずはやってみての話です。


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