閑話休題 授業改善 授業改善うるさいよ

 その前に自分らの仕事をカイゼンしてくれよ。それからいうてくれ。
 これって交通違反者が周りも違反しているやんけって言うのと一緒なんですか?
 と文科省と教育委員会に直接言いたい今日この頃。みなさんいかがお過ごしですか?

 いくつか言いたいことはあるので先に絞っときます。
 今現場は授業改善をしろしろ言われまくっています。とにかくなんでもいいから授業改善。そんな感じです。笑えるのが絶対改悪でしょと思う実践報告を賞賛している指導主事がいたことです。しかもおそらく高校教員あがり。やはり教育のことが何も分かっていらっしゃらない。

そこから〜の


です。

授業改善って何?

 実は授業改善とは何を指すことなのかは実際には明確にされていません。その行為の方向性すらも定かではありません。授業改善が様々な筋道や取り組みを生み出したり、収斂させたりしていく様がさも当然のように報告されています。私もそういう使い方をしています。でもよくよく考えるとそれって非常にマズい気がします。なぜなら
 まず研修との違いがわかりません。
 教員には研究と修養が法律上義務付けられています。不思議と自己負担なのが当たり前になっていますが、これは一般企業では補助対象になって然るべきものです。時間も費用も自己負担です。このことは致し方ないとしても、なぜか授業改善のロジックは研修のロジックとは別に乗っかっていることが多いんです。二重負担である上になぜか授業改善まで自己負担であることが当然というロジックなんですよね。どこをどういじくったら業務外の自己負担をさも当然のように押し付けることできるのか不明なんですよね。
 このヘンさが職業としての人気を下げているんですよ。
 しかし、授業改善や研修が教職をブラック化している指摘を見たことがありません。やりがい搾取の意味が取り違えられている気がします。
 最高裁判決のおいて授業準備1コマあたり5分の時点で授業改善がムリなことはわかるでしょ。それを無理強いするのはヘンですよ。

 次に教育委員会の授業改善の例示がおかしいです。文科省からの伝言ゲーム形式の時点で意味不明なのですが・・・授業改善が主体なのか?客体なのか?何かを使って授業改善をするのか?授業改善をして何かを達成するのか?がはっきりしません。PDCAサイクルの一地点になっていることがあると思えば授業改善自体のPDCAサイクルになっていることもあったり、二重螺旋のうちと外に両方授業改善があったり、ひどいものになると授業改善における授業改善みたいな意味不明な日本語があったりします。
 多分授業しないで授業改善を語る人種、官僚・役人・大学教員たちは全く意味がわからずに作文を読んでいるのを丸出しにしています。
 これ小学校教員にバレてるんですよね。なぜなら小学校教員は意味もわからずしゃべっている子どもという存在と1日中一緒にいてコミュニケーションを成立させてるので、テキトーに喋る人間に対するアンテナは普通の大人より敏感です。あーこの人意味もわからず棒読みしてるなということが授業改善についての語りには多すぎです。
 次に善なの?という価値観の問題です。カイゼンには明確な善の方向性があります。企業体にとっては収益性が一番です。そのための効率や人員配置、QCなどは非常にわかりやすい単位のモノサシで測り取られています。 
 
 しかし授業にとって明確でわかりやすいモノサシというのは、存在するようで存在していません。あると言い張っている人間がいるだけで、不易と流行における一瞬の流行による確立があったとしても普遍的な完成形になったわでけではありません。同時に善を方向性の話にしたとしてもそれはなかなか万人には受け入れ難い話になってしまいます。それはモノサシと同様に明確な向きが存在しているわけではないからです。単純すぎても複雑すぎても良い話にはならないし、ジレンマの只中にいるような分かったようなわからない話を続ける羽目になってしまいます。
 

授業改善いつ終わるの?

 そしてこのループはいつ終わるのかということです。まさか終わりなき旅を気取るつもりなのでしょうか?授業改善について確定的な評価が下りた話を聞いたことがありません。よく子どもは終わった、できたという言葉を使って活動を止めようとします。これは教員にとって一番してほしくない行為の一つなのですが、子どもからすれば自己防衛の最たるものなんだろうなと思います。人間は終わりが見えないことに不安を感じます。これも教職をブラック化をしていきますね。

 そもそも着地点がないことが良い的なことを言うにはサポートがなされなさすぎです。多分何にも考えずに喋らないとそうはならないと思います。教員の良心につけ込んだやり口です。

授業改善としての奈良教育大附属小の取り組みは?

 そうした問題点がまとめて顕在化したのが奈良教育大附属小学校の事件であったはずなのですが、どうやらほっかむりしたい連中がいたようです。
 授業改善は学習指導要領ひいては学校教育法施行規則に違反する行為であることを白日のもとに晒してしまったのです。いや授業改善は悪くない、悪いのは法令を破るような運用方法をとった教員であるという論理構成なのでしょうが、これはもう問題のすげ替えでしかありません。
 なぜなら問題の根本は授業を改善をするための授業時間の保証は全く議論の俎上には上がっていないことです。
 というかそれがムリなことは多分教育課程を審議する人間が全員わかっていたはずです。
 少なくとも私は何年か前に一度教育委員会に別件で総時間数の中に全ての教科の規定時間を埋め込むことは不可能だと指摘したことがあったのですが、その回答は時間が足りないことは文科省も分かっているから大丈夫という答えでした。その後すぐ高校の未履修問題が全国的に大きな批判対象になったのでその時の回答は多分誰かに責任を押し付ける形で無かったことにされているのだと思われますが、少なくとも教育課程上はなんらかの方便で処理するしかない問題です。
 よく言われるのは35週換算で総時間数を計算しているが実際には1年間は35週以上学校が行われているという方便です。
 しかし実際には時間割を組んでみるとわかりますが学校行事やさまざまなカットで実際にフルの35週間を1年間の正規の授業に設定することはなかなか難しいことです。しかも授業をわかるよう実施しようとすると規定以上の授業時間数があった方がゆとりが持てるのは間違いないです。
 その上よそでも書いたことですが教科担任制を導入すると間違いなく規定時間数を授業することはできなくなります。机上の計算で授業時数の数字がギリギリ入ったとしてもそれは、担当教員を半分に分けたり、教室を半分に分けたり、子どもを半分に分けたりすることで成り立つことで実際には実現不可能なことばかりです。
 教育委員会にバカにでもわかるようにすごくわかりやすく説明してあげると一言「できるハズです。」というんですね。その時の管理職の返事が笑いました。「わかりました。」うわぁーーー

一体誰が日本全国の成果を総括するの?

 これまでかかった膨大な延べ時間と延べ労力に対する責任は一体誰がとってくれるのだろう?
 仕事だからいいじゃん。とはならない。しかも授業改善のロジックの中には教員の仕事をブラック化する道筋がふんだんに盛り込まれている。研修は本来個人的なものであることを前提として設定されていると理解していたのだが、どうやらそうではないらしい。
 今の研修制度は教員のキャリアの証明書のような形に収斂させようと考えているようだ。教員が一定のレベルを維持するシステムが必要なことには同意する。
 しかし勤務評定闘争(もう きんぴょう っていうワードは予測変換されないんですね)や免許更新制度、管理職登用制度など全てにおいて綺麗に失敗してきた身としてはもはや何をやっても無駄であることを自覚しているのだと思う。
 下手に出世に響くような新しい取り組みはしないに限ることを官僚が本能的に理解しているのだろう。ペーパー教員活用に加えて、今ここに臨時免許状濫用という大愚策を持ち込もうとしている連中は本当に何もわかっていないのだろうか?
 意図的に教育システムを破壊しようとしているようにしか見えないのだが。どの政策も目先の成果の取っ掛かりにだけ目を奪われて各々のシナジーが全く感じられないハウルの動く城状態である。この授業改善においても総括する気はさらさらなく、もちろん責任を取るつもりもないらしい。

授業改善を強要することは仕事なのか?

 行き着く先は結局、文科省不要、教育委員会制度不要、指導主事不要という話。
 基本的に行政として公平に評価するプラットフォームを前もって作ってから授業改善の話をする方が良かったのではないか?この後に及んでは授業改善とカリキュラムマネジメントや学校経営マネジメントを協業として考えていくことはすごく難しくなってしまっている。また生徒指導と授業改善についてもICT利活用と授業改善についても親和性についてのコンセンサスが取りにくくなってしまっている部分ばかりクローズアップされるようになってしまった。
 少なくとも文科省は授業改善における条件を少しでも整備しておけばこんなことにならなかった。法的な後ろ盾は令和の日本方学校教育と開かれた教育課程に関わる立法でなんとかなったとしてもコロナとブラック化が二本立てでやってきたために多方面で難しくなってしまった。
 逆にICTについてはコロナのおかげで急ピッチで導入できたのだがそれが教員のブラック化と多忙化をより無理解に爆進させてしまった。研修との兼ね合いや条件整備の時間的予算的なバックアップは現状皆無に等しい。これでは教職に就きたい若者が増えるわけがない。
 また教育委員会は結局教員を正当に評価することができなくなってしまっている。指導主事の能力が低すぎるのは自分たちの組織の自己防衛能力の表れだとしても、そのせいで自分たちの下にいる教員の取り組みに対して評価する機能まで失うほどの無能さではそもそも授業改善を進めることなどできるわけがない。
 チェック機能がないPDCAサイクルなどあり得ないわけで、ただやれと命令するしかない無能丸出しの経営者と同じことになってしまう。カイゼンをやれというだけで実践できるならそもそもすでにできてるハズでしょという話。人の言っていることをただ伝達するだけの指導主事が授業をカイゼンしろと命令すること自体が笑わせにかかっているとしか思えない。
 自分の伝達方法をせめて我々の授業並みに改善してから出直していらっしゃったらいかがなもんかな?少しは自分たち独自の教員の授業改善を評価をするプラットホームを作ってみてから授業改善についてコメントした方がいいですよ。
 どんだけ現場の人間があんたたちの作文や朗読の後に嘲笑するおしゃべりをしているかを理解できる想像力も持った方がいいよ。

結論 授業改善が何ももたらさない。真面目に付き合うだけ時間と労力を無駄にする。少なくともチェックのプラットホームか教師力向上の筋道を作る対話を兼ね備えたチームワークを持つ努力をできる環境を整備しないとね。それがミドルリーダーに委ねられていることもよくわかんないですが・・・


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