ポストを用意すれば問題解決なの?主幹教諭の下の話

労いがない仕事

 教育現場が「いとい」も「ねぎらい」もない仕事になってしまったことは常に言っている。
 カネの問題ではない。教員という仕事自体がハラスメントと収奪の温床になっていることを改善しなければ何をしても教育は良くならない。
 どんな立派な学習指導要領をつくっても実行するのは教員なのである。どんな立派な機械を用意しても人間はそこから効率的に学ぶことはできない。
 子どもはそもそも学ぶこと自体できない。単純に言っても知識と技能は別物だからである。実際はもっと複雑なのだが。
 教育に関わる人間、少なくとも文科省と教育委員会の人間はそれを理解すべきだ。文科省と教育委員会がなくても教育は成立する。しかもかなり高度な教育でも可能である。
 もちろん教育システムは重要だが必須ではない。 
 しかし人間関係の助けを借りない公教育は非常に効率が悪い。
 少なくとも教育の質にコミットしたいならその程度のことは理解できた方がいいですよ。

首脳陣がバカだから野球できない

 とある野球選手の名言だが、先に述べたように全く同じ感覚です。こう語る理由は明確。今教育行政が提案する施策は的はずれなものしかない。
 教科担任制についてもダメ。すでにダメな理由について過去に述べているが、つい昨日もその考えを改めて首肯する出来事があった。やはりクラスルームの集団づくりには一人の人間が主体的に思考して関わることが必要だ。
 いつも言うが現場を知らない大学教員はいくら優秀でも、発言や提案のピントがズレるのは致し方ない。
 そして実務家教員はそもそも能力が低いのである。大変残念ながら現場しか知らない。教育を問題として語るためにさまざまな側面での知識が必要である。マルクスが結局経済学に行き着いたり、ニーチェやASニイルが霊的な感覚に行き着いたりしたのは、彼らほど社会システムに精通した人間であっても教育を語ることはなかなか難しいことを表している。唯一例外的にジャン=ジャック・ルソーはエミールで子どもの発見を行なっているが、相当基本的な部分にとどまっていると私は思っている。もちろん時代背景から仕方ないのだか、今なら素人にでも言えることが多くあるし、批判な論証も難しくない。
 実務家教員にエミールや社会契約論、資本論などの古典を若い時に読み込んでいる人間がいないのは、その人たちが書いたものを読んでいればよくわかる。
 総合的に教育を語ることができていないのは実務家教員に限らず、大学教員に共通する状況であってそうした人間が語る政策が貧しいものであることは致し方ないだろう。その意見を足がかりにして文科省や教育委員会が制度設計すれば、それよりさらに質が落ちるのは必然である。

鍋蓋構造と同僚性の悪い側面

 これもすでに述べているが、現状教師の鍋蓋構造はすごく悪い一律性にしか作用していない。よくない側面だけが現場を支配している。
 役職の代表格である管理職が学校の内向けには全く機能せず、教育委員会との連絡役に成り下がっている今、重ねて2つ3つの役職を作ったところで惰性で行われている作業としての教育にコミットして訂正していくことはかなり難しい作業であることは私はよく分かっている。
 なぜなら、良いか悪いかを別にしてもこれまで一匹狼として学校を改変することにすごくこだわって実行してきたからである。そして山ほど罵られてきた。我が自治体ではちょっとした有名人である。
 チームを作ろうが、一匹狼であろうが物事を変える道筋はそう変わらない。
 学校現場において訂正しにくい理由にはいくつかの理由というか学校現場特有の状況がある。
 まず改変への抵抗がある。
 これは前年踏襲の癖で述べたことであるが、簡単に言えば改革は特段の必要性がなければ起こらない。特に安定的な継続性が必要な教育現場では非常に困難な点である。提案しても話し合い後、「では昨年通りで」というのは会議の決まり文句みたいなもんである。半分以上の提案はこの段階で潰される。
 次に改変の仕方に注文がつく。
 抵抗を乗り越えたところで制度設計を始めると多方面からツッコミと共に注文がつき始める。意図の分かりにくい注文も多く、突っぱねる勇気が必要になるのだが、基本教員は真面目なので全部を飲み込んで物事を実現しようとする。これをやってしまうと出来上がりは最悪になる。スパイスの中にまがいもんが混じった料理のようなものである。「教員の思いつき」は大事ではあるがどう使うかは難しいところなのは授業において「子どものつぶやき」をどう使うか難しいことによく似ていると思う。
 さらに改変が盛り上がると変な提灯がつく。
 これも不思議なのだが、取り組みが軌道に乗り始めるとなぜかイナゴが群がってくることがある。ここまで来ると改変のゴールはすでに見えているので取り組みは余計盛り上がりを見せ始める。多分乗り遅れることは同僚性の中でのサバイブに悪影響を及ぼすことを本能的に分かっているのだと思う。しかしこの盛り上がりは意図しない結果を具現化したり、問題点をあぶり出すことがある。本来は精緻な分析のためには歓迎すべきことなのかもしてないが鍋蓋構造の同僚性においてはこの段階でも非難の対象になることがあって頓挫することも珍しくない。
 最後、気がついた時には当初のメリットとは程遠いデメリットの塊みたいなものができる。こうした段階を経ていけば当然と言えば当然なのだが、鍋蓋構造の同僚性において一つの取り組みを全体的に成功させることがいかに難しいかということである。 
 結果これが見えた瞬間、次の改変を躊躇する体質が生まれ全体に行き渡るのである。
 そうなれば自分の持ち場で研究したり改変したりした方がいいだろうというマインドセットになるのは教員として当然の帰結である。せいぜい学年集団、教科集団までの広がりであり、これは学校におけるムラ社会の生成要因であり強化要因である。こんな見事なサステイナブルはそうお目にはかかれない。

結局正当な評価できないんだから

 今の教育現場の評価はメリトクラシーではなく、安定的に運営できる人間性が重視されている。されている人間が言うんだから間違いない。多分どこの教育委員会でも一緒。だからおしなべて能力の低い人間が管理職をやるということになってくる。こういう人間が一番恐れるのは能力のある人間が上手いことやって自分より評価が高くなって自分の寝首をかかれることである。
 うまい人がやったほうが圧倒的にいい仕事において、上手い人が弾かれるという不思議な現象を繰り返し行う構造になっている。うまくいくわけがない。
 どんなポストをたくさん作っても、結局正当な評価が行えないことは結局いといにはならない。より変なことが増えて能力がある人にイライラと諦めを抱かせるだけである。
 この制度設計はこの辺に配慮が全く足りない人参ぶら下げレースである。
 一体いつの時代の人間が話をしたらこういう結論に至るのだろう。
 しかしこうなった理由はよくわかる。
 最初はこうではなかったが、出来上がったらこうなったは先に述べた学校における改革の過程そのものだからだ。
 残念でした。またどうぞ。


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