「見る」ことの重要性

 コナンドイルがシャーロックホームズをして語らせた言葉に
「見ているだけではダメだ。観察しないとね」という趣旨のものがあります。小学校の理科の教科書にも使われている有名な言葉です。
 観察の重要性を指す言葉として使われます。

 小学生にもいつも聞きます。毎日毎日上り下りしている階段の段数を知っているかい?
 たまに知っている子がいてそのことに驚きます。そして踊り場を知らないことにさらに驚くんですが・・・
 子ども特有の観察力というか、暇力というか・・・

 教師にもこの観察力は必要だと思います。
 というか観察する力というより「観察しようとする姿勢」の方なのかもしれません。
 目の前の子どもに向ける眼差しというのはなかなかに難しいもんです。

 一切の予断を許さず、常に新鮮な感覚で接する必要がある。
 経験上油断した時が一番危ない。
 この商売、油断したスキに後ろから撃たれることはしばしばです。
 本当はこんなことない方がいいに決まっているんですが・・・

 でもどこかで戒めが必要な仕事であることもまた事実です。
それは教師が持っている生殺与奪権、権力性に対する縛りです。
と同時にその戒めを発動させるために必要なことはふりかえり・・・ではないです。
 ときに全く中身がないことをふりかえろうとするムチャ振りに出合うことがあります。例えば型通りの研究授業、原稿やパワポ丸読みの伝達講習、どっかの本の寄せ集めの話、そもそも低レベルでまとまってない話をレジメに沿ってやるやつ、ただの経験談。
 これらは茶飲み話として無料で行われている分には問題ありません。
 しかし、これらを聞いて何かふりかえれというのは、話し手の準備より高度な知識と技能が必要になります。
まあこれはこれで、教員に必要な技能であることもまた事実なんですが…
アドリブ力というムチャ振りに耐えて瞬時に適切な返答を選択する力です。

 自由設定でなければ意味のない高度な行為であるふりかえりを小学校の授業内に設定することに無理があるということにさっさと気付くべきです。
 気付いた上でなお、ふりかえりを単純化・形式化することはさらにふりかえりが無意味であるということを広めていることにも気付いた方がよい。

 かなり長い前フリが効いてしまいましたが、そもそもふりかえるためには適切な現状認識が必要です。そういう意味では昨今とんと現状認識がきちんと行われた上で課題設定が行われている研究授業に出逢いません。
 教師がやりたいことをやるために事実をねじまげ、ときには誤認のまま進んでいます。
 それをわかったうえでか、最近は事前の評価としてアンケートをとったり、テストをしたりしている指導案(授業の設計図)を良く見ます。これがいいことなのかは正直わかりませんとしか言えません。診断的評価を意図していうことはわかるんですが、これも数字やアンケート項目のいじりかた次第でなんとでも作為的に操作できることを知っているからです。
 長い前フリはともかく現状認識をなるべく客観的にしていくことがいい研究、授業、その中のふりかえりをつくるためには不可欠だということです。

 そして本題、見ることはその評価の大前提だということ。
 若手が目の前の子ども全員を均等に見ることに苦慮している教員の話として良く聞きます。
 しかし最近年をとり、短期間に転勤を繰り返すことで個々をおぼえきれなって気付いたこと。
 それは局所的に集中的に一面的なデータを精緻に集めるよりもぼんやりと全体的でおぼろげなイメージをきちんと言語化する方がもれなく掴めて説得力があるのではないかということなのです。
 余白という言葉を使う人はおそらく埋められる隙間に様々な価値を見いだすと思います。データとしての余白、集団としての全体性、そうしたものをもって観察とする手法、そしてそこに実際にはあり得ない客観性をのせていく姿勢をとることはデータサイエンスの一手法として探究する価値があるのではないでしょうか?
 実際小学校で子どもに課される観察には個別性や個人のアイデアといったものが見たままを描き出す行為が埋め込まれています。
 一時期固定的な枠組みを脱却するためのポストモダンの調査手法としてかなりファジーな側面を持つフィールドワークが持て囃されました。
 この手法は確実な新しさをもって迎えられ、ポストモダンを牽引しました。しかし、フィールドワークは誰にでもうまく分析できるほど簡単ではなかった。一部の超高度知識人にしか言語化できなかった。
 そのため紹介本で煽るだけ煽って後は野晒しという惨憺たる結果をもって棄てられてしまいました。
 ここで提案する全体を「見る」ことで観察する手法はこれと同じ結果になる可能性が大きいほどに言語化に困難を伴う作業だと思います。

 しかし子どもというかなり不確定性の高い集団を記録する手法としては悪くないのではないかと思います。今一部で言われる「物語的」アプローチであるとするならばかなりの多様性を持って、なんでも受け入れられる広い間口を持てる可能性があります。というかそもそも大村はまさんにしても、無着成恭さんにしても、大西忠治さんにしても、灰谷健次郎さんにしても、東井義雄さんにしても、リアリズムを目指し物語的な手法をとって教育を生き生きと記録し伝える手法で大きな成果を上げた実績があります。これは後につまらない大学教員たちの非科学的な批判を受けて先細ってしまうわけなんですが、現代の教育実践は研究者を交えてもこの隆盛の半分にも至ったことすらありません。
 この発想で教育を記録し、言語化していくことに教育の仕事の基底を引くことでうまく回転させること、そして継承すること、実践として成り立たせること、評価することを修練させられないかと夢想したわけです。

 よく見ることで現代の教育現場が抱える課題できないかというご提案でした。

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