教育実践のイノベーション

 イノベーションとは凡事徹底。・・・って誰かが言ってた。
 ごもっとも。
 イノベーションとは目新しさが先立ちがちだけれども、教育におけるイノベーションも新しければいいというイメージではなさそう。
 そここそが凡事徹底そして覿面注意。松下幸之助さんの言葉はまさしくイノベーションそのものだったわけで、なんなら今の日本社会の方が昔の比べてイノベーションが進まなくなってしまう要因が揃い始めたのではないか?
 ICTという新しいメディアが浸透しきれないまま凡事徹底できない状況を生み出してしまっているのが令和の日本型学校教育の現状なのではないのか?という仮説が浮かび上がってくる。それを加速主義でなんとか突き抜けようとしているのは一般企業、しかし学校教育は・・・
 教育現場において一体誰がICTを凡事徹底できるほど使いこなせているのかということである。
 今マスコミに取り上げられている教員たちは、単に今までイノベーションされてきた教育実践をICTで置き換えているだけに過ぎない。
 果たしてそんなものが実際役立つのか?何年も先に残るのか?子どもの能力開発に資することができるのか?
 いくら実践の中にchatGPTを取り入れてもやってることはこれまでの教科書と黒板と辞書を使ってる授業となんら変わり映えはしないのではない・・・と思う。授業の主人公はchatGPTではないし、授業は新しい技術の発表会でもない。

新しいデータ

 今、教育のイノベーションに使われるデータへの信頼性についてはかなり疑問が大きい。データサイエンスやビッグデータなどが発達し、PISA、TIMSS、全国学力・学習状況調査、都道府県単位の調査などが分析対象になっているがあまり利用価値の高いデータがなかなかない。
 データ解析の基本のキだと思うのだが、精緻な分析をすればするほど確定的なことは言いにくくになるのが調査分析だということ。
 短絡的な結論やわかりやすい掛け声にありがちなのは底浅い分析でしかないということが多い。
 特に文科省がらみの学力調査官には経歴に疑問符のつく人間が多い。さらにこれらのデータは秘匿性が高く(個人情報保護の観点だそうだが、基本的に日本は個人情報が個人以外の行政や政治の都合で捻じ曲げられることが多すぎる)これらを二次利用できる人間が限られているため、分析自体のセカンドオピニオンがはたらかない大本営発表の後追い記事に過ぎないことを前提にする必要があることである。

新しい取組

 今、教育のイノベーションで見られる新しい取り組みの新しさにはついてはかなり疑問が大きい。単にAとBを組み合わせてCにしてしまっている、もしくはCだと言い張っているだけにしか見えないからである。
 既存のもの、発想を組み合わせることでイノベーションを生み出すというのは、新しさを出すときに使われる伝統的な手法である。
 しかし、教育において「新しさ」というのはもはや古典の部類である。
 詳しくは前の記事で。

置き換える

 今、教育のイノベーションに使われる置き換えるという考え方にはついてはかなり疑問が大きい。現在のイノベーションは単純に既存の存在をメディアに置き換えているだけになってしまっている。
 キットラーがメディアの終わりを主張したようにメディア自体の進化は一旦終了しているのであとは既存の媒体との効果的な結合を目指す段階にきているのはないだろうか。単にノートをタブレットに置き換えることは、ノートでいいじゃんという素朴な疑問の前では無力である。
 無能な大学教授の「とりあえずやることから始まるんです」という戯言がなんの意味があるのか?まずそこから説明してほしい。多分誰も説明できない。堂々と僕達のメシのタネのためにやってみろよいう清々しいヤツがいればまだ納得もいこうというもの。
 置き換えは使用者にメリットがある場合において起こる現象であり、まがいもんたちが撒き散らしている研究発表はイノベーションとはなんの関係もない便所の落書きの寄せ集めです。

目の前の子どもに合わせる凡事と覿面の場

 実際、今教育をイノベーションするために必要なことは、今の状況の中で実践そのものを凡事徹底して磨き上げていくかということ。
 これまで挙げたような目先の新しさが作り上げる虚像を追い求めてもそれは教育のイノベーションと呼べるものにはならない。というかそれはもはやそれは教育でない可能性の方が大きい。

 元々教育実践の現場にはイノベーションが起こる場としての特殊性がある。まずは教育であるということ。そしてそこに関わる人間の種類の多さである。さらに関わる人間の流動性。最後に条件分岐の複雑さである。そう簡単に上手くいかないイノベーションだけに目を奪われていてはゲンジツに足元をすくわれることは疑いない。というか現状現場では見事にすくわれている。

 枠組みとして関係性をあえて考えず自然主義として教育を見る方法がないわけではないだろうが、おそらく無理があるのではないか。
 となれば関係性の複雑な枠組みの中での実践と実現の凡事を少し先の現実的な実践に結びつけていくこと自体がイノベーションなのではないかということである。 

 上っ面のイノベーションを声高に語る人間は、ゲンジツに追われる教師にとっては口下手な詐欺師にしか見えない。教育を語っていないからである。本当にイノベーションを根付かせたいのなら、骨太の実践を目の前の子どもに合わせてただただ愚直に回転させていく様を見せていくことが必要なのではないだろうか?

教育においてもイノベーションは凡事徹底。ありきたりですいません。

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